第26回 鎌倉時代の社会と文化
・二毛作のスタート。 ・鉄製農具の普及 ・狩敷(かりしき/刈った草を肥料として使う)の普及 ・牛馬耕、すなわち牛や馬を使った農作業の普及 ・御家人たちが積極的に、自分の所領の田畑を開発 鎌倉時代になると、それまでよりも農業技術が進歩し、「ただ米を作っているだけじゃもったいない。そうだ!米を作り終わったあとに、別の作物を植えて収穫しよう」と人々は考えるようになります。そこで、春から秋にかけては米を作り、収穫後の秋から春にかけては麦を植え、1つの田んぼで二度おいしい(?)。これが、二毛作です。
・金融業者の本格的な登場 ・定期的な市場が登場(京都や奈良、鎌倉では常設の商店=店棚も登場) ・馬借(ばしゃく)の登場(要は馬を使った宅急便ですね) このころからようやく、一般に貨幣経済が浸透していきます。もちろん、今までも朝廷が頑張って貨幣を発行していたじゃん!と思われるかもしれませんが、そもそも銅の産出量が少ない日本では、発行量が少ないので、貨幣をもっている人が少なかった。でも、やはり物々交換もなかなか大変です。 そこで、「だったら、中国から銭をそのまま買ってしまえばいい!」と発想を転換。 こうして、いわゆる宋銭が大量に輸入されるようになり、貨幣経済が浸透していくのです。そうしますと、サラ金業者みたいな業者も現れてきます。彼ら高利貸しの業者を、借上(かりあげ)といい、御家人たちも非常にお世話になってしまいます。 さて、そうして貨幣が多く普及すると、今度は「大量の銭を持ち歩くのも大変」と人々は考えます。そうしたら、クレジットカード決済みたいなのが出来ると便利ですよね。というわけで、割符屋(わりふや)を通じて、金銭を割符と呼ばれる手形で決済をする、為替(替銭)も行われるようになりました。 そんなわけで、鎌倉時代は現在の経済にも大きな影響を与える転換となった時代なのです。
1.浄土宗(開祖:法然 ほうねん 1133〜1212年) 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と、ひたすら念仏を唱えれば、極楽浄土に行けるよという教え。 法然の主要著書には選択本願念仏集。 2.浄土真宗(開祖:親鸞 しんらん 1173〜1262年) 親鸞は法然の弟子で、師匠の教えをさらに深く追求する・・・としているうちに、特に彼が亡くなったあと、新たな仏教宗派となっていきます。悪人正機、すなわち悪人(煩悩が深い人)を救うことが、阿弥陀の本願だ、という教えなども提唱しました。親鸞の主要著書に教行信証(きょうぎょうしんしょう)、歎異抄(たんにしょう)があります。ちなみに、法然にしろ親鸞にしろ、かなり迫害を受け、流刑も経験しています。 3.時宗(開祖:一遍 いっぺん 1239〜89年) 北条時宗じゃないよ、「じしゅう」だよ、という冗談はさておき。信心の有無、善人や悪人関係なく、仏様はすべての人をお救いになる、と提唱。踊念仏(おどりねんぶつ)を取り入れ、各地を遊行(ゆぎょう)したことから、一遍は遊行上人とも呼ばれます。なお、彼は死の直前に著書を燃やしたため、残っていません。 4.日蓮宗(開祖:日蓮 にちれん 1222〜82年) 法華経(ほけきょう)こそ全てだ! 南無阿弥陀仏という題目を唱えれば成仏できるぞ! そして、ほかの宗派は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と、1つずつ凄まじい罵倒の言葉で非難。もちろん、猛烈な反発を受け、日蓮にいたっては幕府によって処刑されそうになるぐらい。彼の主要著書には立正安国論(りっしょうあんこくろん)。 5.臨済宗(開祖:栄西 えいさい 1141〜1215年) 現在でも大人気である、禅宗の一派。坐禅(ざぜん)により精神統一を図り、師から与えられた公案(こうあん)を解いて悟りに達するのだ〜!と提唱。また、既存の仏教諸派とも協調姿勢を見せ、また幕府や朝廷と深いつながりを持ち、禅は御家人の中でも大ヒット。 6.曹洞宗(開祖:道元 どうげん 1200〜53年) これも現在でも大人気である、禅宗の一派で、実は栄西と道元は、禅の本場である中国で、同じ師匠から教えを授かっています(二人は年齢も大きく違うこともあって、会っていないそうですが、道元は栄西をかなり尊敬していたそうで)。曹洞宗の場合、さらに坐禅に徹することを提唱。これを、只管打坐(しかんだざ)といいます。また、臨済宗が既存勢力と強調するのに対し、曹洞宗は「わが道を行くぜ!」的なところが。総本山である福井県の永平寺は、厳しい環境で修行するという決意ありありの場所です。 また、旧仏教勢力(真言宗、天台宗、律宗など)からも「お寺の中に引きこもって教義を追及するだけでなく、もっと民衆の中に入って布教活動をし、また社会福祉にも貢献しよう」と実践するお坊さんたちも結構出てきています。 それから、神道では、伊勢外宮の神官である、度会家行(わたらいいえゆき 1256〜1351年)が提唱して形成された、伊勢神道(度会神道)が重要。このころ、もう神道も仏教も混じりまくっていたのですが、それまで神は仏に姿を変えて人々の前に姿を現したのだ、とする本地垂迹説に対して、 「神の下に仏がいるんだ!」 と、あくまで上位は神である、度会家行は類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんえん)という書物を著しました。
とにかく質実剛健!見るからに立派な建築も多いのが特徴です。
平安時代以来の貴族文化の延長線上としては、やはり新古今和歌集が特筆されます。これは、8番目の勅撰和歌歌集、つまり天皇や上皇が「古今東西の様々なすばらしい和歌を集めて編集しなさい!」と命令して出来た和歌集で、承久の乱でおなじみ、後鳥羽上皇が命じたもの。源通具(みちとも)、藤原定家(さだいえ 1162〜1241年)、有家、家隆、雅経が編集担当として活躍しました。また、朝廷の力が弱まったことから、かつての先例や儀式、古典を研究して、なつかしの時代を堪能しよう(笑)という、有職故実(ゆうそくこじつ)という学問が公家の間で盛んになります。 それから、和歌集としては鎌倉幕府第3代将軍、源実朝の和歌を700も集めた金塊和歌集も有名ですね。なお、金とは鎌倉、塊とは大臣を表します(源実朝は右大臣でした)。源実朝は和歌マニアで、藤原定家に師事した実力派。 また、忘れてはいけないのが源平の攻防戦により滅び行く平家一門を描いた平家物語。冒頭部分は非常に有名で、ちょいと書いておきますと、 祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらは(わ)す。 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ。 と、「諸行無常」「盛者必衰」がメインテーマとなり、こうした考え方は構成に大きな影響を与えています。どんなに栄華を誇っていても、必ずいつかは衰退する・・・とてもよく解りますね。作者は信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)と言われていますが、実際には盲目の琵琶法師と呼ばれる人々が琵琶のメロディーに合わせて語られているうちに、少しずつ成立していったと思われています。 それから、保元物語、平治物語、源平盛衰記というタイトルから推測できると思いますが、合戦を扱った物語も重要。こうした軍事関係の物語を、軍記物語といいます。 歴史書としては愚管抄(ぐかんしょう)が重要。著者は、九条兼実の弟である慈円(じえん 1155〜1225年)で、最初の天皇とされる神武天皇から後堀河天皇までの歴代天皇の業績や在位中の事件をまとめ、さらに保元の乱以後の政治事件をまとめた重要な資料にして歴史評論書。武士についても比較的好意的なのが特徴です。 それから、鎌倉幕府が幕府の歴史を日記体で記した吾妻鏡(あづまのかがみ)も歴史書としては重要な資料。以仁王と源頼政の挙兵から、6代将軍である宗尊親王を京都に送還したころまでが編集されています。また、北条(金沢)実時が、現在の横浜市金沢区に設立した金沢文庫は、武士による図書館として特徴的な存在。彼の子孫も書籍の収集につとめ、文庫を発展させていきます。北条氏が滅亡したあとは、左写真の称名寺が管理を受け継ぎ、さらに現在は神奈川県立金沢文庫として存続しています。 それから、忘れてはいけないのが筆者のペンネームの由来となった卜部兼好(1283〜1350年)こと、兼好法師の「徒然草(つれづれぐさ)」。今読んでも、あまり違和感がないほど、政治や人間の行動などを鋭く観察した随筆の傑作。現代語訳でもいいですから、教科書で習うもの以外にも、一度は呼んでいただきたい一品。ちなみに、彼を吉田兼好とも言いますが、これは彼の父親が吉田神社の神職だったことによる通称で、本名ではありません(のちに、親戚の子孫が吉田を名乗りますが)。 また、鴨長明の随筆である方丈記(ほうじょうき)。 「ゆく河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」 と、なんとも無常的な考え方の随筆で、兼好法師の徒然草とはかなり異なる印象ですが、これも人々の様子などを、しっかりとした観察眼で書き取った随筆の名作です。あと、阿仏尼が書いた日記である十六夜日記(いざよいにっき)も重要。 最後に、鎌倉時代末期には宋の朱熹(しゅき)が創始した、朱子学を中心とする宋学が伝えられました。これは、孔子がはじめた儒学の再解釈版の1つ。教えの特徴については申し訳ないですが省略しますが、この中で大義名分論は重要。すなわち、「臣下として守るべき道義や節度、出処進退のあり方」を書いたもので、たしか朱子学だけの考え方じゃなかったような気がするんですけど(曖昧でごめんなさい)、これは日本にかなり大きな影響を与えました。特に、次のページから紹介しますけど、後醍醐天皇は「鎌倉幕府と天皇のあり方」について、この考え方に基づき「倒すべし!」との根拠付けにしています。幕府は本来、私の臣下であるはず。しかし、その道義も節度も違反しているぞ!というわけですな。
田楽というのは、元々は田植えに当たって豊作を祈る田遊(たあそび)から発達したもので、次第に専門の職業の方々によって担われるようになったものです。猿楽はいわゆる演劇的な見世物芸のこと。こうした文化は次第に、能や狂言として発展していきます。 次のページ(第27回 政権を天皇の手に!鎌倉幕府の滅亡)へ 前のページ(第25回 蒙古襲来)へ |