第33回 室町時代の社会と文化

○農村社会の変化

 すでに見ましたが、室町時代は農村のあり方が大きく変わりました。
 それまでの荘園制度が崩壊し、惣と呼ばれる村々の共同体が発達。中には、前回紹介した山城国一揆のように、住民自治まで行う例も出てきます。また、貨幣経済は農村にまで浸透。ところが、これが土倉・酒屋から借金する引き金ともなり、徳政令を求める一揆まで起こすようになります。

 それから、浄土真宗や日蓮宗が農村社会に浸透し、浄土真宗の場合は一向一揆、日蓮宗の場合は法華一揆と呼ばれる、軍事行動に人々が出ることもありました。

○座と市場

 室町時代の商業の特徴として、特権的な同業者組合である「」(ざ)が挙げられます。実際には平安時代末期から登場していたもので、朝廷・貴族・寺社などを本所(ほんじょ)として、営業税を納める代わりに、エリア内では特権的に商業活動を行うことを認めてもらう組織です。

 有名なものとして、石清水八幡宮(京都府八幡市)を本所とした大山崎油座があります。

 油を売る業者は、石清水八幡宮に対して、たとえば八幡宮が淀川に船を出すときのお手伝い(奉仕)や、八幡宮が使う油を献上する(献納)を行う代わりに、八幡宮から関所の通行料(関銭)や港の使用料(津料)の免除、油の原料である荏胡麻(えごま)を優先的に買い付ける、そして油を、定期市で独占的に販売する権利を得ます。

 身内で値段が好きにつけられますからね、少々偉い人に税金を納めたって儲かるわけです。
 もしも、石清水八幡宮を無視して、勝手に京都などで油を販売しようものなら、どうなるか・・・キャー怖い! 地方に売りに行く時だって、地元の地頭や国人に税を収めることで、やはり独占的に販売を許可してもらっています。

 このほか、京都には堀川の材木座や三条の釜座などがありますし、食品や建築以外にも、猿楽能(さるがくのう)の大和四座のように、芸能面でも座は存在していました。

 ちなみに、続く戦国時代になると、織田信長が楽市・楽座を自分が新たに造った都市で設定し、自由な商売を推奨しますが、既存の座が解体されるのは、豊臣秀吉の時代になってから。1585(天正13)年に出された楽座令によって、こうした制度は禁止されました。

 ・・・そういえば、たとえば銀座という言葉もありますが、座と関係あるのでしょうか?
 これは江戸幕府が、銀貨を独占的に鋳造させた組合のことをいうわけです。もちろん、小判を造ったりするところは金座。これも、一種の座なんですね。江戸幕府が明治政府によって倒されると廃止されますが、特に銀座の名前は全国に繁華街の名称として普及。いまや地名として、我々は「座」と親しい間柄にあるわけでございます(笑)。


織田信長楽市令制札 (複製 国立歴史民俗博物館蔵)
織田信長が岐阜を支配した際に発したもので、「楽市」の文字があります。

中世の商人
油単(ゆたん)という布で覆われた千駄櫃(せんだびつ)を背負って、様々な商品を売り歩いた商人の姿。杖は立って休む時に千駄櫃を支える用途もあったとか。
(写真:国立歴史民俗博物館にて)



○室町時代の文化

 金閣のある北山、銀閣のある東山。
 ここから、室町時代の二大文化として、足利義満の頃の北山文化、足利義政の頃の東山文化、それから北山文化より前の南北朝文化、さらに庶民文化の4種類に分類されます。色々と細かく書いてはいきたいのですが、すべてを詳細に解説していると、何ページあってもキリが無いので、代表的なものについてピックアップしておきます。受験対策で、とにかく名前だけでも覚えないと・・・という方は、ここである程度、エピソードつきで勉強してから、残りは教科書でチェックしてくださいな。

○南北朝文化の歴史書・軍記物語

 南北朝文化は、その戦乱の時代を反映して、歴史書や軍記物語が多く登場しています。

 神皇正統記・・・じんのうしょうとうき と読みます。北畠親房著で、内容については以前に紹介しましたね。
 太平記・・・作者不詳(小島法師とも言われます)。なんと40巻にも及ぶ大作で、鎌倉幕府の滅亡と建武の新政までの第1部、足利尊氏の挙兵から室町幕府成立までの第2部、尊氏、直義らの対立から幕府安定までの第3部の構成。
 曽我物語・・・作者不詳。源頼朝の時代、所領争いで父を殺された曽我兄弟(曽我十郎祐成(すけなり)と曽我五郎時致(ときむね))が、親の仇である工藤左衛門祐経(すけつね)を討ち果たすという話。軍記物語に分類されますが、英雄伝説的な雰囲気の作品です。これが江戸時代に至るまで大人気で、色々とアレンジされてます。
 増鏡・・・二条良基の作品か?といわれる歴史書。後鳥羽上皇から後醍醐天皇の時代までを執筆したものですが、公家社会の話がメインで、取り上げる題材には偏りがあります。「大鏡」「今鏡」「水鏡」から続く、「鏡」と名のついた歴史書で、4つ併せて「大今(だいこん)水増し」と覚えましょう。

 ちなみに復習(・・・そもそも書いてなかったかもしれないけど)。
 大鏡は、文徳天皇の代から後一条天皇の代、藤原冬嗣から藤原道長までの時代を書いたもの。
 今鏡は、後一条天皇から、高倉天皇までの平安末期を主に書いたもの。
 水鏡は、神武天皇から仁明天皇まで、天皇の事跡を書いたもの。あんまり歴史的資料としては使えないそうで。

○建築&庭園

 室町時代の建築で特筆すべきは東山文化の頃に登場した書院造(しょいんづくり)。これ、誰が最初に考案したのが是非知りたいぐらいですけど、大ヒットして、その後の日本建築で特に愛用されています。というわけで、写真たっぷりでご紹介しましょう。



鹿苑寺舎利殿(金閣)
 鹿苑寺は、足利義満が京都の北山に建立した北山殿が、彼の死後に寺院となったもの。金閣として名高い、鹿苑寺舎利殿は、寝殿造・禅宗様の建築。禅宗様って何?という人は、鎌倉時代の文化のページで復習しましょう。窓の形に注目ですよ。
 ちなみに、1950年に放火によって惜しくも焼失し、現在の建物は1955年の再建。
 一方、金閣の周りに広がる庭園は池泉廻遊式。すなわち、庭の中心に池を設置して、その周りを歩いて楽しむようになっています。金閣の場合、鏡湖池の周りに多くの小島を配置しているのも特徴です。

慈照寺銀閣
 慈照寺は、足利義政が京都の東山に造営した東山山荘が、彼の死後に寺院となったもの。銀閣として名高い、東山山荘観音殿は、書院造・禅宗様。次に紹介する東求堂と共に、室町時代の代表的な建築です。
 ちなみに、銀閣が銀箔を貼る計画があったのか?については長らく議論のあるところですが、最近では「貼る予定はなかった」という説が有力です。

書院造(掛川城二の丸御殿御書院)
 さあ、そこで書院造とは何かを紹介しましょう。写真に示したような部分が特徴ですが、寝殿造のように「でーん」と大きな部屋を持っているわけではなく、ふすま等の間仕切りを使って、目的に応じて部屋を細分化。さらに、障子などを使うことによって、明るく開放的な空間を構成しているのが特徴です。
 畳を敷き詰めたり、違い棚で装飾をつけてみたり(最初は実用的だったのですが、デザインがヒットして装飾に)、柱が角柱だったりするのも特徴。
 なお、写真の掛川城二の丸御殿は、もちろん室町時代のものではありませんが、書院造の代表例として紹介しました。江戸時代から現存する御殿として極めて貴重な遺構です。

慈照寺東求堂(とうぐどう)
 東山山荘の持仏堂だったもの。屋根が、入母屋造(いりもやづくり)・桧皮葺(ひわだぶき)の建物で、義政の書斎であった同仁斎(どうじんさい)は書院造の代表として有名です。
 ちなみに入母屋造というのは、切妻造と寄棟造が合体した形式。屋根を良く見てください。右側を見ると、バッサリと縦に切られた部分と、滑らかに外へ広がった部分が合体していますよね。こういう屋根を、入母屋造というのです。

興福寺東金堂&五重塔
 奈良市の興福寺にある、現在の東金堂は1415年、五重塔は1426年に再建されたもの。室町時代の建築ですが、奈良時代の様式をイメージして再建されているのが特徴です。さて、東金堂の屋根の形は、なんという形式か、もうお分かりですよね。こういうのが、寄棟造です。

園城寺(三井寺)三重塔
 南北朝時代の建築。大和国(奈良県)の比曽寺(現、世尊寺)の東塔だったものを、1601年に現在の大津市にある園城寺に移築したもの。興福寺五重塔と比べて、外観はずいぶんと異なり、こちらは鎌倉時代の和様の姿を伝えています。木が見事に組み合わさって、堅固な印象ですね。

瑠璃光寺五重塔
 1442(嘉吉2)年築。大内盛見が、足利義満と戦って戦死した兄、大内義弘の菩提を弔うために建立したものです。造営中に、大内盛見も少弐氏と戦い戦死したため、その完成を見ることはありませんでした。なお、瑠璃光寺五重塔は九輪の尖端まで31.2mあり、塔身を上層にいくほど間を縮めているのが美しい姿の特徴です。様式は和様をメインに、一部に禅宗様と取り入れています。

○五山・十刹の制

 宗教面では、鎌倉時代より次第に整備が進み、足利義満の頃に正式決定した五山・十刹の制(ござん・じゅっさつのせい)が重要。これは、臨済宗の寺院を組織化、ランク付けしたもので、室町幕府の保護を受けます。
 京都の南禅寺を別格として、その下に
 京都五山(1)天竜寺、(2)相国寺、(3)建仁寺、(4)東福寺、(5)万寿寺
 鎌倉五山(1)建長寺、(2)円覚寺、(3)寿福寺、(4)浄智寺、(5)浄妙寺
 さらにこの下に、京都十刹、鎌倉十刹を置き、さらに諸山を置きました。
 特に五山の寺からは、一山一寧(いっさんいちねい 1247〜1317年)虎関師錬(こかんしれん 1278〜1346年)義堂周信(ぎどうしゅうしん 1325〜88年)絶海中津(ぜっかいちゅうしん 1336〜1405年)などの禅僧による、五山文学や、後述する水墨画を描く禅僧を輩出。五山文学については、妙に大学の試験では名前を問われることがあるので、覚えておきましょう。

 ちなみに一山一寧は、中国の浙江省台州の人(上海の南です)。偉いお坊さんだったのですが、日本に来たとき、元のスパイと疑われて、鎌倉幕府に逮捕されて、伊豆の修善寺に幽閉されてしまい、あとで「スミマセン、誤認逮捕でした・・・」と釈放。建長寺、円覚寺に招かれ、さらに南禅寺の三代目の住職となりました。後宇多上皇が大ファンだったそうです。

 虎関師錬は、一山一寧の弟子。「日本の仏教の歴史について教えて欲しい」と師匠に尋ねられたとき、「うっ・・・あまり詳しくは解りません」と答えざるを得なかったことを恥じて、元亨釈書(げんこうしゃくしょ)と呼ばれる日本初の仏教の歴史書を完成させました。

 なお、室町幕府の衰退とともに五山も勢力が衰えていきます。一方で、永平寺(福井県)や総持寺(石川県)など曹洞宗系や、大徳寺妙心寺(いずれも京都)など臨済宗の一部による林下の禅(りんげのぜん)が地方武士や庶民に広まっていきました。ちなみに大徳寺は、禅宗の腐敗を批判し反骨精神が旺盛、酒と女性を愛した型破りな禅僧、一休宗純(1394〜1481年)が住職を務めた寺として有名です。

○絵画

 絵画の分野では、なんと言っても水墨画の発達が特筆されます。
 これは、墨の濃淡で絵を描きあげるもので、中国では唐の時代から発達しました。当時の有名な画家としては、呉道玄王維などがいます。そして日本では、特に室町時代から五山を中心とした禅僧の間で鑑賞され、そして描かれるようになります。特に如拙U(にょせつ)は、それまで中国風の模倣に過ぎなかった日本の水墨画に、オリジナリティの要素を加え、彼に続いて登場した相国寺の禅僧、周文(しゅうぶん)も水墨画の巨匠としてその名を残してます。ただ、「伝周文作」とされる作品が多すぎて、どれが彼自身の手によるものかが解りにくいとか。


 そして、この時代の最大の巨匠といえば、雪舟(せっしゅう)(1420〜1506年頃)。現在の岡山県総社市で生まれ、相国寺で禅と水墨画を学びます。周防の守護である大内氏から庇護を受けて、山口に居住。さらに、大内氏の遣明船で明へわたり留学し、様々な技法を学習し、帰国後は日本の水墨画界に新風を吹き込みました。「山水長巻」、「天橋立図」等が有名です。

 上写真は雪舟の作品で特に有名な、四季山水図(67歳のときに描いたもの)。山口市の地下道に転写されていたもので、原画は山口県防府市の毛利博物館にあります。毛利氏は大内氏を滅ぼした戦国大名ですが、大内氏所蔵の文化財を引き継いだわけですね。ちなみにこの作品、春から冬までの四季の山水の変化を描いた絵巻物。壮大な大作です。



雲谷庵
 大内氏の庇護の下、雪舟が山口に構えた住居。四季山水図などはここで描かれ、また雪舟最後の地といわれています。当時の建物は残っていませんが、復元されています。
雲谷庵内部
 小さい庵で、静かな環境ものとで雪舟が絵画に打ち込んだ姿が想像できます。
 水墨画ではこのほか、狩野正信(かのうまさのぶ 1434頃〜1530年頃)や、その息子である狩野元信など、のちに狩野派と呼ばれる人々が活躍しました。日本の伝統的な「やまと絵」と呼ばれる技法にも精通し、襖絵などの多くの障壁画を手がけています。

○能の世界

 室町時代は庶民による文化が盛んでした。
 代表的なのが、(のう)。猿楽や田楽といった民間芸能が集大成したもので、大和猿楽四座の観世座の観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ 1363頃〜1443頃)親子は足利義満の保護を受けて、猿楽から発展した能を大成させました(ですので、一般にいわれる能とは猿楽能のこと。田楽能などもあるんですよ)。

 世阿弥は「風姿花伝」などの理論書も現しており、後世に大きな影響を残しています。
 ・・・え〜、能の特長とかも書くべきなんでしょうけど、あんまり詳しくないし、よく解らんかったので(笑)、興味のある人は自分で調べてみてください。ごめんなさい。大河ドラマなどでは能のシーンが良く出てきますが、たまには生で見に行ってみたいですね。

 さてこのほか、室町時代には「茶の湯」や「生け花」、「精進料理」の原形も登場しています。
 日本の伝統と呼ばれるものの多くは、室町時代のその端緒を見出すことが出来ますね。

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