第35回 室町幕府の滅亡と、戦国大名の興亡

○今回の年表

1489年 第9代将軍、足利義尚が近江に出陣中に病没。
1490年 足利義政が死去し、足利義材が第10代将軍に就任。
1491年 伊勢長氏(北条早雲)が、堀越公方の足利茶々丸を攻め滅ぼす。
1493年 細川政元がクーデター。足利義材は捕らえられ竜安寺に幽閉。
1508年 足利義材、将軍として復帰。
1521年 足利義材、細川高国と対立して将軍位を負われる。足利義晴が将軍に。
1531年 細川高国、細川晴元と三好元長と天王寺で戦い自害。
1535年 三河の松平清康、殺害される(守山崩れ)。
1536年 陸奥の伊達稙宗、分国法である塵芥集を制定。
  天分法華の乱。延暦寺と法華宗(日蓮宗)が戦争し、延暦寺が勝利。
1540年 尼子晴久、大内義隆領の石見銀山(大森銀山)を攻略。
1541年 武田信虎、息子の武田晴信に甲斐から追い出される。
1543年 種子島に鉄砲が伝来する。
1546年 足利義輝、第13代将軍となる。
1549年 フランシスコ=ザビエルが来日。キリスト教の伝来。
1551年 陶晴賢、大内義隆を滅ぼす。
1553年 第1回川中島の戦い。武田信玄が長尾景虎(上杉謙信)と戦う。
1555年 毛利元就、厳島の戦いで陶晴賢を破り、大内氏も滅亡させる。
1560年 桶狭間の戦い。織田信長、今川義元を倒す。松平(徳川)家康、今川家から独立。
1567年 織田信長、斉藤義龍の稲葉山城を陥落させ、岐阜と改名。
1568年 織田信長、足利義昭を奉じて入京。
1572年 三方ヶ原の戦い。武田信玄が徳川家康を破る。
1573年 織田信長、足利義昭を京都から追放する。
1576年 織田信長、安土城を築城。
1582年 武田家が織田信長に敗北し、滅亡する。

○室町幕府

 さあ、前回は総論を解説していきましたが、今回は色々な戦国大名たちを個別に紹介しましょう。
 まずは室町幕府の足利家(戦国大名じゃないじゃん!)。 


 応仁の乱が終結したことから、足利義政は、息子の足利義尚(よしひさ)に将軍位を譲ります。親子喧嘩は絶えませんでしたが、ともあれ風流に明け暮れた父とは違って、将軍の権力回復を目指した義尚は、自分に従わない近江守護の六角高頼を討伐するために出陣しました。ところがなかなか手ごわく、1年以上も戦っていたのが悪かったようで、1489(延徳2)年に病没してしまいます。そして、さすがに息子の方が早く死んだことに気を落としたか、翌年に義政も亡くなってしまいました。

 義政が死去すると第10代将軍となったのが、あの足利義視の子、足利義材(よしき 1466〜1523年)。
 彼は 宿敵の六角高頼を近江から追い払うことに成功し、近江を平定。そして、あの応仁の乱の原因の一人、畠山政長は管領になっていたのですが
「上様。亡くなった義就の子、畠山義豊(基家)を討伐してくだされ」
 と要請。六角氏を討伐して気が大きくなっていたのでしょうか、義材は畠山氏のお家騒動に介入してしまいました。ていうか、まだ畠山氏は内紛していたわけですな。ところが、ここで思わぬ事態が起こります。

 なんと!
 義材の留守を狙って細川政元1466〜1507年/細川勝元の嫡男)と日野富子(足利義政の妻)がクーデターを決行し、堀越公方の足利政知の子、足利義澄を第11代将軍として擁立。畠山政長は細川政元に攻められて自害し、義材は捕らえられて京都の竜安寺に幽閉(のち脱出)。

 これを、明応の政変といいます。
 もっとも義材も黙っていたわけではありませんでした。足利義尹(よしただ)と改名し、1499(明応8)年に北陸で挙兵。越前守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)と、政長の子である畠山尚順と共に細川政元を倒すべく出陣しますが、かつて討伐した六角高頼が「今度は負けん!」と近江で抵抗し敗北。周防の守護、大内義興のもとへ逃れました。


 ところが、これでは終わらない。
 1507(永正4)年に細川政元が暗殺されると、細川氏で家督争いが勃発。そこで翌年、足利義尹は大内義興の支援を受けて、再び上洛を果たし、足利義澄を追い出して、ついに将軍職に復帰しました。おめでとう! さらに、1513(永正10)年には足利義稙(よしたね)と改名しました。越前で挙兵したときからの、移動マップを描くと左図のようになります。

 ところが、これでも終わらない。
 義稙は管領の細川高国(政元の養子)と対立し、1521(大永元)年に京都を追い出されてしまいました。そして第12代将軍には、義澄の子、足利義晴(1511〜1550年)が就任しました。もちろん義稙は挙兵して抵抗しますが、追い出されてから2年後に病死し、3度目の将軍職はありませんでした。ちなみに以前に紹介した、細川氏と大内氏が明(みん)の寧波で接待の席次を争ったのはこのとき。


 将軍になった足利義晴でしたが、彼も立場が弱い。なんと、自分を擁立してくれた細川高国が、1531年の天王寺の戦いで細川晴元(1514〜1663年)に敗北します。そして義晴は、晴元と対立したり、和解したりの繰り返し。また、1546年に義晴の子、足利義輝(よしてる)(1536〜1565年/左絵)が第13代将軍となり、義晴はそのバックアップに回ることになりました。

 そのうちに細川晴元が、重臣の三好長慶と対立して敗北。足利義晴、義輝、細川晴元の3人は近江に脱出しました。結局は和解し、京都に戻りますが、幕府は三好長慶に実権を握られることになりました。それでも義輝は、諸大名の争いに書状を送るなどして介入し、将軍ここにあり!を示すべく積極的に外交を行い、越後(現在の新潟県)の戦国大名・上杉謙信などは拝謁を求めて上洛してきました。

 そして三好長慶が死去すると、いよいよ義輝は将軍の権威復活を目指すべく活動を開始します。これに対し、三好長慶の重臣で、既に三好家の実権を握っていた松永久秀(1510〜77年/右絵)と、三好三人衆三好長逸三好政康岩成友通)らは
「あの将軍では好き勝手に出来ない」
 と判断。1565(永禄8)年、京都の二条御所に攻撃をかけて、義輝を殺害してしまいました。実は義輝、剣豪の塚原卜伝に奥義を受けたほどの剣の達人。畳に何本も刀を刺し、敵兵の血で剣の切れ味が悪くなると交換し刀を振るい続け、敵兵を恐怖に陥れましたが、多勢に無勢・・・でした。

 辞世の句は
 五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで
 と、無念さが伺える壮絶なもの。

 次の将軍には義輝の従兄弟、足利義栄が就任しました。
 ・・・が、松永久秀と三好三人衆が抗争を始めたため京都に入れず、そのうちに、義輝の弟である足利義昭(よしあき/1537〜97年)が、織田信長の支援で京都へ入ってきたため、将軍らしい活動は何一つ出来ず、阿波に逃れて死去しました。


 こうして第15代将軍となった足利義昭(左絵)でしたが、やはり将軍として権威を振りかざそうとしたために、織田信長と対立。諸大名に檄を飛ばして、信長包囲網を形成しましたが、各大名とも信長の反撃に遭い敗北。それでも義昭は、1573(元亀元)年に2度にわたり信長に反抗したため、とうとう京都から追放されてしまいました。

 その後は毛利家を頼り、信長が本能寺の変で死去した後、豊臣秀吉の側近となりました。
 足利義昭が亡くなった後、室町幕府の将軍位を継ぐものはおらず、名実共に室町幕府は滅亡。後継者もおらず、将軍家自体も存続していません。ネットで調べると、足利義輝の子、足利義辰の子孫が、肥後藩主細川家に西山家という名字で仕え、明治維新まで存続している、とのことですが、さてさて。

○鎌倉公方のその後

 一方、鎌倉公方はどうなったのでしょうか。
 もう一度、足利家系図を掲載しましょう。


 8代将軍、足利義政の時代。
 足利成氏は享徳の乱で敗北して、鎌倉を脱出して古河に逃れ、幕府は義政の弟である足利政知を、新たなる鎌倉公方として派遣します。ところが鎌倉は荒廃したボロボロの状態で入れず、古河公方の勢力も強かったため、伊豆の堀越にとどまりました。こうして鎌倉公方は、足利成氏の古河公方と、足利政知の堀越公方の2つに分裂します。

 このうち、堀越公方は1543年、政知の子、足利茶々丸伊勢盛時(北条早雲)に攻められて自害し、滅亡しました。また、古河公方は足利高基のときに、弟の足利義明小弓公方として独立。もっとも、1538(天文7)年に行われた第一次国府台合戦で、小田原を本拠として勢力を拡大中の、北条氏綱(1487〜1541年。伊勢盛時の子)と戦い戦死。小弓公方は早速、滅亡してしまいました。

 もっとも、古河公方本家も北条氏と対立して敗北。結局、足利義氏のときに後継者がおらず断絶し、豊臣秀吉によって小弓公方の子孫が喜連川氏として再興し、江戸時代も幕府に喜連川藩主とされて保護されていきます。そして、明治維新後は再び足利氏を名乗って、現在も存続。

 ちなみに、関東管領上杉氏も分裂。
 山内上杉家と、扇谷上杉家が抗争を始め、勢力を減らしている中で、山内上杉家は、関東で勢力拡大中の北条氏康(北条早雲の孫)との争いに負け、上杉憲政が越後の長尾景虎(上杉謙信)に上杉の姓と関東管領職を譲り、現在も上杉家は存続。

 一方、山内上杉家は1546年、河越夜戦北条氏康(1515〜71年/氏綱の子)に大敗北して、当主の上杉朝定が戦死し、滅亡しました。大河ドラマ「風林火山」でも描かれていましたけど、せっかく扇谷上杉家、古河公方と手を組んで、大軍で北条家の河越城を包囲したにもかかわらず、油断していたところへ、夜襲をかけられてボコボコにやられた戦いでした。

 ちなみに面白いことに、複雑な婚姻の結果、現在も存続する上杉謙信系の上杉家は、山内上杉家、扇谷上杉家、双方の血も引いているとか。

 ・・・と、足利家関連だけですっかり長くなりました。
 続いて全国各地、分類別に様々な戦国大名を見ていき、同時にこの時代の特徴を探っていきましょう。



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