第35回 室町幕府の衰退と、戦国大名の興亡
源頼義の三男 源義光の子である源義清が常陸国武田郷(現:、茨城県ひたちなか市)を領有し、さらに甲斐国韮崎(韮崎市)に配流されたことから武田氏の歴史が始まります。若狭(京都府北部)や安芸(広島県)などにも一族がおり、甲斐と安芸の双方を守護として兼任したこともありましたが、武田信満(?〜1413年)が上杉氏憲(禅秀)による反乱に味方し、幕府の追討を受けたことから勢力を大幅に後退し、実権を守護代の跡部氏に握られます。 武田信虎(1494〜1574年)のときに、ようやく勢力を盛り返し甲斐をほぼ統一。そして信濃(長野県)へ侵攻しますが、ワンマン体制に家臣や国人たちが反発。信虎の嫡男である武田晴信(信玄)(1521〜1573年)はクーデターを決行し、信虎は追い出されてしまいました。 このクーデターの原因には諸説ありますが、一つは信虎が晴信の弟である武田信繁を跡継ぎにしようと考えていたこと、そして何よりも、自らに権力を集中させ、国人たちを従わせる中央集権化に反発が集まったことが挙げられます。また、外部から人材を集めたことも、旧来の家臣たちの反発を招いたとも考えられています。 ここが戦国時代のポイントの一つで、戦国大名たちの多くは、実態としては国人(こくじん)、すなわち地元の有力者たちの代表的存在であり、絶えず彼らのご機嫌をとらなければなりませんでした。ご機嫌を取れなければ、反乱が起きたり、別の一族の者などに当主の座が取って代わられることも。この体制から脱却し、優れた指導者が新たな政治・軍事体制を確立できるかが、ほかよりも一歩リードできるか、の鍵でした。
さて、家督を継いだ晴信は駿河(静岡県)の今川義元、相模(神奈川県)の北条氏康と三国同盟を締結。この三者は互いに争わないことにし、それぞれ自分が目指す攻略ルートに力を注ぐことにします。そこで晴信は、信濃(長野県)を本格的に攻略開始。立ちふさがったのは、北信濃の豪族、村上義清でした。 晴信は信濃奪取のため、村上義清と戦いますが、1548(天文17)年の上田原の戦いで重臣の板垣信方、甘利虎泰が戦死するなど敗北。さらに、1550(天文19)年の戸石城での戦いで大敗するなど(戸石崩れ)苦戦します。しかし、翌年に真田幸隆の調略で戸石城の奪取に成功すると、村上義清を信濃から追い出し、そして越後の戦国大名である上杉謙信と激突。現在の長野市にあたる川中島で幾度か戦いました(川中島の戦い)。結局決着は付かず、越後進出はかないませんでした。 一方、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると今川家との同盟を破棄し、東海道方面へ進出。三河の戦国大名、徳川家康を三方ヶ原の戦いで破るなど勢力盛んでしたが、志半ばで病死しました。これにより跡を継いだ息子の武田勝頼も武勇に優れていましたが、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗北。勢力を立て直すことは出来ず、1582年に滅亡しました。 ちなみに、安倍・福田内閣の経済産業大臣、甘利明氏は武田信玄を支えた通称「武田二十四将」の1人、甘利虎泰の子孫。
源頼朝の側近中原親能(ちかよし)の子、中原能直(よしなお)が相模国大友郷(現、神奈川県小田原市)を本拠地にしたことから、大友氏を名乗ったのがスタート。モンゴル襲来のときに本拠地を豊後に移し、戦国時代になると大友義鑑(義明)のときに、勢力を拡大していきます。ところが義鑑は、後継者にする予定だった嫡男の大友義鎮(よししげ)(1537〜1580年)に代えて、義鎮の異母弟であった塩市丸を後継者にしようと画策。この動きに家臣団が真っ二つに割れる中、義鑑は義鎮とその家臣を粛清しようとして、逆にやられてしまい死去しました。 これを、二階崩れの変といい、大友義鎮が大友家を相続しました。そして、北九州一帯にまで勢力を一気に拡大し、港湾都市として重要な博多も支配します。さらに、足利義輝より九州探題に任命され、名実共に九州の支配者として君臨。 ところが1570(元亀元)年、肥前の戦国大名である龍造寺隆信(1529〜84年)の本拠地、佐嘉城を攻めようとして大軍を送り込むも、奇襲攻撃によって大敗(今山の戦い)。 さらに1578(天正6)年、日向(宮崎県)で島津氏と戦い大敗(耳川の戦い)。以後は勢力が衰え、滅亡寸前にまで追い詰められます。 ところが幸いにも、豊臣秀吉が九州侵略を開始。これに従うことで、豊後の領地を確保し、これで安心したか義鎮は病死しました。しかし息子の大友義統(よしむね)は、朝鮮に攻め込んだ文禄の役で敵前逃亡したとして領地を没収され、大友氏は滅亡。江戸時代は、江戸幕府が名門の家柄を存続させた高家(こうけ)の一員として細々と命脈を保ちました。 ちなみに大友義鎮は、1549年に来日したキリスト教の一派イエズス会の宣教師、フランシスコ=ザビエルと対面。ヨーロッパとの南蛮貿易に注目する一方、次第に自分自身もキリスト教に入れ込むようになり、入信。洗礼名をフランシスコとしました。上写真は大分駅前に立つ、大友義鎮の像。
息子の島津義久(1533〜1611年)も優秀な戦国大名で、しかも島津義弘、歳久、家久の3人の優秀な弟に支えられ、九州制覇に向けて動き出します。そして肥後(熊本県)を攻略し、日向で大友氏を打ち破り、肥前(佐賀県)の龍造寺氏を服属させるなど、大友氏に代わって九州の支配者して大きな勢力を得ます。しかし、天下統一に王手をかけ始めた豊臣秀吉が九州に攻め込んできたため降伏し、領地は薩摩と大隅のみに削減されてしまいました。 関が原の戦いでは西軍に付き、徳川家康と敵対しながらも、巧みな外交によって江戸時代も強力な勢力を保ち続け、島津氏は幕末にも歴史を動かす勢力となります。
着実に勢力を拡大するも室町時代は、奥州探題の地位にあった大崎氏(足利一門)の下に甘んじていましたが、幕府に積極的に財宝を献上し、なんと14代の伊達稙宗(たねむね 1488〜1565年)は陸奥守護職を手に入れます。彼は、1536年に『塵芥集』という、169条からなる領内の法律を制定しました。 そして息子の伊達晴宗は、なんと奥州探題の地位も手に入れ、晴宗の孫の伊達政宗(1567〜1636年)が家督を継ぐと、摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で会津の戦国大名、蘆名氏を破って事実上滅亡させ、会津方面へ勢力をさらに拡大。しかし、豊臣秀吉によって会津は取り上げられ、江戸時代は仙台藩の大名となります。若い頃に天然痘で右目を失い、独眼竜と呼ばれた独特な風貌の伊達政宗は、現在でも仙台のシンボルとして親しまれていますね。
しかし朝倉義景のとき、幕府将軍の地位を目指す足利義昭が身を寄せてきたにもかかわらず、挙兵することも無く酒宴三昧。義昭は尾張の戦国大名、織田信長を頼り将軍となります。義景は、織田信長と戦いますが、結局は惨敗し自害する羽目に。1573年に朝倉氏は滅亡しました。
ところが長男の大内義隆が、公家文化大好き人間で、伝統文化に傾倒する毎日。 この状況に 「遊んでいる場合か!」 と激怒したのが、重臣の陶隆房(すえたかふさ/のち陶晴賢)。なんと、1551年に反乱を起こし大内義隆を攻め滅ぼしてしまいました。代わって大友家から、義隆の姉の子供である大友晴英を迎えて、大内義長と改名させて当主にしますが、陶晴賢は安芸の戦国大名、毛利元就の奇襲攻撃によって安芸の厳島で戦死し(厳島の戦い)、義長も毛利元就に攻められ自害。1557年、名門の大内氏も、ついに滅亡したのでした。 |