第37回 豊臣秀吉の天下統一

○今回の年表

1582年 本能寺の変。織田信長、信忠親子が明智光秀の攻撃によって自害する。
1582年 山崎の戦い。羽柴秀吉、明智光秀を討つ。
  羽柴秀吉、検地(太閤検地)をスタート。(〜98年)
1583年 賤ヶ岳の戦い。羽柴秀吉、柴田勝家を討つ。
1584年 小牧長久手の戦い。羽柴秀吉、徳川家康・織田信雄連合軍と戦う。
  スペイン商船が初めて日本(平戸)へ来航する。
1585年 羽柴秀吉、関白に就任する。九州に惣無事令を出す。
1586年 羽柴秀吉、太政大臣に就任。豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉となる。
1587年 豊臣秀吉、島津氏を服従させ九州を統一。また、バテレン(宣教師)追放令を出す。
1588年 豊臣秀吉、刀狩令を出す。また、大坂城が完成する。
  イギリス軍、スペインの無敵艦隊を撃破する。
1589年 フランスでブルボン朝が成立する。
1590年 豊臣秀吉、小田原を攻略し北条氏を滅亡させる。また、伊達政宗が降伏し奥州を平定。天下統一。

○羽柴秀吉とは何者ぞ?

 さて、このページの主役は羽柴秀吉(1537〜1598年)
 彼の若い頃については、実は物語などで脚色された部分が多く、実はよく解っていないのですが、尾張中村(現、名古屋市中村区)の農民の子供として生まれましたと考えられています。

 そして、立身出世を夢見て村を飛び出し、駿河の今川家の家臣松下嘉兵衛之綱に仕えます。しかし、同僚からのイジメに遭い、見かねた松下嘉兵衛は「他家に仕えたほうがいい」と秀吉を自らの元から去らせました(・・・といわれていますが、この辺も確かな資料があるわけでは無いです)。
*左写真は、NHK大河ドラマで使用された秀吉の生家をイメージとした建物(えさし藤原の郷にて)。

 続いて1554(天文23)年頃、織田信長への仕官に成功。
 ここで彼がどのようにして信長に認められていったのかは良く解っていませんが、どんどん出世し、木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし)を名乗り、1564(永禄7)年、浅野長勝の養女ねね(?〜1624年)と結婚。当時としては異例の、恋愛結婚だったようです。

 ちなみに秀吉、顔が猿に似ていたことから、信長などから「サル」として親しまれていたといわれていますが、信長が秀吉の夫婦喧嘩をいさめる手紙を出したときには、「ハゲネズミ」と書かれています。てか、あの信長にそんな手紙を出させるとは・・・。

 そして秀吉は、弟の木下秀長(1540〜1591年)竹中半兵衛(1544〜1579年)蜂須賀正勝(1526〜1586年)といった部下の協力の下、引き続き戦功を上げ、また京都の統治も担当。1570(元亀元)年、織田信長が朝倉義景を攻めているときに浅井長政が裏切り、背後から信長軍を襲おうと進軍してきたときは、退却する信長軍の「しんがり」として、危険な退却する軍隊の最後尾を担当。信長が退却する時間を稼ぎつつ、自らも徳川家康や明智光秀の協力で撤退に成功し、それまで事務の方面に才能がある、と見られていた秀吉の名を「武将としても有能だ」と大きく上げました。

 そして1573(天正3)年)、浅井長政が信長によって滅ぼされると、秀吉は北近江三郡を与えられ、今浜と呼ばれていた場所を長浜と改称。長浜城の城主となり、さらに信長の重臣である柴田勝家丹羽長秀の名字から1字ずつ取り、羽柴秀吉と名乗りました。*木下秀長も、羽柴秀長と名乗ります。

 ここで、地元の尾張から加藤清正(1562〜1611年)福島正則(1561〜1624年)といった、後に秀吉随一の猛将として活躍する若者を登用。また、近江では石田三成(1560〜1600年)などの優秀な若者を登用し、秀吉家臣団を充実させていきます。

 そして信長軍団の中国方面の総司令官として、中国地方を支配する戦国大名、毛利輝元(1553〜1625年)との戦いを開始しました。1581年には2万の軍勢で因幡(現在の鳥取県の一部)へ侵入し、吉川経家(きっかわつねいえ)が守る鳥取城へ進軍。ここで秀吉は、黒田孝高(官兵衛)(くろだよしたか/かんべえ 1546〜1604年)の提案で、鳥取周辺の米を買い占め、そして鳥取城へ外部から兵糧が搬入出来ないよう、厳重に包囲を行う、通称「兵糧攻め」を敢行します。

 食料が底をついた鳥取城は、それは地獄絵図のような状況となり、牛や馬はもちろん、犬、猫、昆虫、そして最後には人肉まで食べて飢えを少しでもしのいだと伝えられ、約3ヶ月で鳥取城は降伏。吉川経家は自ら責任を取って切腹しました。

○信長の後継者は誰だ?

 そして1582年、秀吉は姫路城から出陣し、毛利家の清水宗治(しみずむねはる 1537〜82年)が守る備中高松城(現、岡山市)を水攻めで包囲し、やはり孤立させることで敵の兵糧を断ち、士気を削ごうとしていました。対する毛利家も、今度は毛利輝元自らが出陣し、秀吉とにらみ合いを続けていました。

 と、そこへ本能寺で織田信長が明智光秀に殺されたという情報が秀吉の耳に入りました。悲しんでいる間はありません。明智光秀をいつまでも好きにさせておくわけにはいきませんし、毛利家にバレたら一大事。いち早く京都へ引き返し、信長の仇を討たねばならない。そしてそれは、信長死後の自分の立場を優位にするというものです。

備中高松城跡
 高松といっても、岡山市の高松。羽柴秀吉は沼地に囲まれた要害である備中高松城を力攻めせず、足守川の流れをせきとめ、決壊させることで孤島にしてしまいました。
備中松山城水攻めの図
 高所から備中松山城を眺める羽柴秀吉。毛利家の当主、毛利輝元率いる援軍が図面左上に来ていますが、にらみ合い状態です。

 そこで、まだ信長死亡の情報が毛利家に漏れる前に、和睦することを決定。このとき、毛利輝元と羽柴秀吉の交渉を勤めたのが、毛利家の外交顧問である僧の安国寺恵瓊(?〜1600年)でした。余談で恐縮ですが、彼は安芸の守護家である武田信重の息子で、以前から「信長は短命に終わる。秀吉が台頭するだろう」と予言しており、おそらく今回の和睦も、「彼には恩を売っておいたほうがよい」と判断したのでしょう。そしてこのあと、安国寺恵瓊は秀吉の信任を得て、僧でありながら伊予で2万3000石、のち6万石の大名となります。

 さて、和睦の条件としては清水宗治を切腹させる代わりに、城兵の命を助け、また備中等の領土の一部を秀吉に譲ること。
 毛利家との和睦合意に達した秀吉は、宗治が切腹するのを見届けるや、軍勢を休まず進ませ、なんと本能寺の変発生から10日で摂津富田(現、大阪市高槻市)へ到着し、丹羽長秀などの軍勢と合流。一方、明智光秀は娘婿の細川忠興(1563〜1645年)、忠興の父親で友人の細川藤孝(1534〜1610年)や、筒井順慶(1549〜1584年)などに援軍を求めますが、拒絶され、苦しい立場におかれました。

 摂津富田に到着した翌日、山城国山崎(現、京都府大山崎町)の天王山東麓で、羽柴軍と明智軍は交戦に入り、秀吉はこの戦いに勝利。光秀は近江に逃れる途中で襲われて殺されました。これを山崎の戦いといい、合戦が行われた山から、大一番の決戦のようなことを、天王山というようになりました。

 結局、明智光秀は本能寺の変から僅か11日しか政権を保つことが出来ませんでした。

 
(秀吉の戦い一覧。どこで何が起こったか、本文を読みながら確認してくださいな)

 こうして光秀討伐という輝かしい功績を挙げて発言力を確保した上で、羽柴秀吉や柴田勝家など、信長の重臣たちによる清洲会議が開かれ、まず信長の後継者を、秀吉が養育していた織田三法師(信忠の嫡男。のち織田秀信)とすること。それから領土の再分配などが決定されました。また、柴田勝家は信長の妹、お市の方の再婚することになりました。

 しかし羽柴秀吉&織田信雄おだのぶかつ/のぶお 1558〜1630年 信長の次男)と、柴田勝家&滝川一益(たきがわかずます/いちます 1525〜86年)織田信孝おだのぶたか 1558〜83年 信長の三男)の対立が深まっていき、1583(天正11)年に両グループは激突。まず、滝川一益が伊勢(現在の三重県)を攻略したことから、秀吉はこれと戦うことになります。滝川軍は激しく抵抗し、始めは秀吉軍も苦戦しますが、蒲生氏郷、細川忠興、山内一豊が伊勢亀山城の攻略に成功するなど、次第に情勢は秀吉に有利となり、のちに滝川一益は降伏し、秀吉に臣従します。

 そして柴田勝家も秀吉と戦うべく出陣。織田信孝も岐阜で挙兵します。
 これに対し秀吉は、柴田勝家を倒すべく猛進撃を行い、近江賤ヶ岳(しずがたけ)で激しい戦闘が行われます。この結果、勝家らは敗北(賤ヶ岳の戦い)。なお、この戦いの中で、後に加賀100万石の祖となる前田利家(まえだとしいえ 1533〜99年)は、柴田勝家から受けた恩義と、秀吉との友情の間で苦しみますが中立を決定し、おかげで生き残ります。

 戦いに敗れた勝家は、本拠地の北の庄(のち福井)に退却し再起を図りますが、攻撃の手を休めなかった秀吉軍に包囲され、妻の「お市の方」と共に自害しました。そしてこのとき、お市の方の連れ子、すなわち彼女と浅井長政の間に生まれた3人の娘は羽柴秀吉に引き取られていくのですが、これがまた数奇な運命をたどります。

北の庄城跡・柴田公園
 柴田勝家が本拠地とした北の庄。のちに福井と改名され、北の庄城は福井城が築城されるときに、その一部として取り込まれました。
柴田勝家像
 気難しい織田信長の下で、有能な武将として信頼され、また戦に強いだけでなく、領国の統治もしっかり行っていたといわれています。

 勝家を倒した秀吉は、その年のうちに、かつて敵対した石山本願寺があった場所に巨大な城郭の建築を開始。陸運、海運共に交通の便がよく、さらに西日本にもにらみを効かせる事が出来る上、京都に近く、堺や住吉などの商業都市も近くにあるという、絶好のロケーションでした。そう、これが大坂城と近代大阪の歴史の始まりです。

 ちなみに大阪の地名は、大阪城も建っている現在の上町台地付近を発祥とする地名で、古代では難波宮があった場所として有名な場所ですが、元々は日本書紀によると「烏瑳箇(おさか)」と表記されていました。昔は地名は3文字で示すことが多かったのですが、通貨発行でお馴染み和銅年間(708〜715年)に、朝廷は中国風に地名を2字にするように変更を進めます。

 この流れによって、烏瑳箇は「小坂(おさか)」と書かれるようになります。しかし、小さいより大きい方が良いと思ったんでしょうね。石山本願寺が勢力を広げた室町時代ぐらいから「大坂」と変わり、難波(浪速、浪花)に代わって、この地域を代表する地名となります。さらに「坂」は、土に返る=死ぬ・・・ということで縁起が悪い、ということで江戸時代から大阪とも書かれるようになり、明治時代には完全に定着します。*同様の例として、松坂→松阪 というのもありますね。

 余談が長くなりましたが。
 中国地方で戦った毛利輝元は、勝ち進む秀吉と見て「天下は秀吉が取る」と確信して臣従を決定しました。こうして、秀吉は中国地方を一挙に手に入れ、天下に号令をかける大名として、さらに頭角を現していきます。また、毛利輝元は後に大坂城を見て「我々もあんな城を造りたいね」と考えます。そこで現在の広島県中央部から、もっと交通の便の良い、海沿いへ引越し。こうして誕生したのが、広島城と、その城下町でした。地名の由来は、毛利の祖先である大江広元の「広」と、この地方の豪族、福島元長の「島」を組み合わせたという説があります。



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