第41回 関ヶ原の戦い(2)

○西軍は準備万端

 
 さて、それでは東軍と西軍の主力が激突した関ヶ原の戦い本編を見ていきましょう。
 と言っても、僅か1日で決着がついてしまったので、実は本編そのものはあっさりしていたりしますが・・・。何はともあれ、まずは両軍の配置図。東西南北が逆ですので、ご注意ください。すなわち図の西側が江戸方面、東側が大坂方面です。そして御覧のとおり、ここは後の中山道(なかせんどう)をはじめ、各街道が交わり、そして山あり、適度に開けた平地ありと、大軍を配置するには、なかなか格好の場所。なお、赤色が東軍、青色が西軍の軍勢です。

 んで、よくよく見れば西軍の総大将である石田三成は笹尾山に陣を張り、同じく西軍の毛利秀元ら毛利家の軍勢は南宮山に、後に寝返りますが小早川秀秋は松尾山に陣取ることに成功。東軍は平地に囲まれたような格好になり、西軍に迎え撃たれる形となっています。石田さん、なかなかやりますね。

 さて9月15日午前8時ごろ、両軍がにらみ合っていたときに家康の重臣、井伊直政が東軍先鋒の福島正則を差し置いて、いざ突撃!(先陣は徳川家で、と密かに決めていたんでしょうねえ) 当然、福島正則も「ふざけるな、我らも遅れるな!」と西軍に戦いを挑み、激しい戦いが繰り広げられます。

 ところが・・・実は西軍の島津隊は、やる気が無くて動かない。さらに毛利一族の吉川広家は密かに徳川家康と通じており、毛利家の軍勢をなかなか動かそうとしません。さらに小早川秀秋も家康の「東軍に来てほしい」という誘いに未だ悩んでいる状態。そんなわけで、西軍はなかなか問題山積で実際に戦っている人数は少なかったのですが、かなり善戦して東軍を逆に苦しめます。

石田三成の軍旗
 大一大万大吉と書かれた家紋が特徴。万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる、という意味だそうで三成のポリシーが伺えます。
風景
 石田三成や島左近の陣があった笹尾山山ろくから家康の陣があった方向を眺めます。
再現された石田三成陣跡の馬防柵
 
松尾山方向
 写真の奥が、小早川秀秋の陣があった松尾山。右手には天満山も見えます。

○小早川秀秋の裏切り

 そこで家康、叱咤激励もあって陣を前進させ、さらに12時頃に松尾山の小早川秀秋の軍勢に対し、鉄砲で威嚇射撃を行います。「味方にならないのなら、敵とみなすぞ!」というわけですね。ちょっと危険な賭けでしたが、これに驚いた小早川秀秋は、山を下り始め、西軍の大谷吉継に対して攻撃を開始。すると、山ろくにいた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らも東軍に寝返り、戦況は一気に東軍へと傾きました。大谷吉継は敗北を悟って自害し、石田三成の重臣である島左近(清興)も戦死したといわれています。

 ほどなく石田三成をはじめとして西軍は敗走をはじめ、毛利家の軍勢は撤収。驚きなのは島津義弘率いる島津家1500名の軍勢で、14時ごろから東軍の軍勢の中を突破して戦場離脱を図ります。行く手を塞ぐ東軍と激しく戦いを繰り広げ、井伊直政が銃撃されて重傷を負い、後にこの傷が元でなくなるなど、東軍にかなりの打撃を与えます。結局、島津家の兵士で生きて帰れたのは80数名だったそうですが、包囲網を突破し脱出に成功。その武勇を世に知らしめました。

○戦後処理

 さて9月18日、三成の居城で父親の石田正継が守る佐和山城(滋賀県彦根市)が東軍の攻撃を受け落城。石田一族の多くが落城に際して自害や戦死します。翌日には家康は草津へ入り、そして小西行長が伊吹山の中で捕まります。さらに、21日には石田三成が琵琶湖の北東、古橋村(滋賀県木之本町)で捕まり、23日には安国寺恵瓊が京都で捕まりました。

 そして10月1日、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は処刑。
 さらに宇喜多秀家は八丈島へ流罪。毛利家は本来、吉川広家と家康の間で「(毛利輝元が)西軍の総大将に就いたのは安国寺恵瓊の独断ということで、領地は削減しない」と内諾があったはずが、「いやいや良く見れば独断どころか、毛利輝元は自分も西軍の総大将として中心的に振舞っていたぞ」と言われ、取り潰し・・・を吉川広家必死の嘆願で免れ、中国地方の多くを治めていた立場から、防長2カ国(周防、長門のことで現在の山口県)へ領地を大幅削減されます(おかげで、何で西軍に就かなかった!と吉川広家は毛利本家から恨まれる羽目に・・・)。

 一方、島津家はうまく外交交渉を繰り広げ、所領安堵で没収は無し。
 それから土佐の大名、長宗我部盛親は所領没収。西軍の中心的な人物ながら、家康とも接近していた五奉行の増田長盛も所領没収。また、佐竹義宣は常陸水戸54万石から出羽秋田18万石へ所領が大幅削減。五大老の一人、上杉景勝は会津若松120万石から、米沢(山形県)30万石へ一気に削減され、苦しい財政運営に江戸時代を通じて悩み続けることになります。と、話が少しずれましたが、こうして西軍から没収した領土を東軍の諸将で分配、そして彼らを、全国各地へ転勤ならぬ移封させます。

 例えば結果的に東軍勝利の立役者となった小早川秀秋は、筑前名島36万石から備前岡山57万石へ加増(ただし、2年後に21歳という若さで亡くなり、跡継ぎがおらず断絶・・・)。一方、細川忠興は丹後宮津18万石から豊前小倉40万石へ、黒田長政は豊前中津18万石から筑前名島53万石へ加増。

 ちなみに、このとき黒田長政は本拠地を移転することにし、警固村(現、福岡市中央区)に新しい城を築城。黒田氏が元々所領を持っていた、現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡に因んで、地名を福岡と改めたことから、現在の福岡市の地名が登場しました。ちなみに、古来より商業都市として栄えている博多は福岡とは那珂川挟んで東側の地名として、江戸時代も使われており、武士の福岡、商人の博多と別の役割を担っています。

 余談ですが明治時代、1889年の市町村制度の施行に伴って市の名前をつけるときになり、自治体名を「福岡」にするか「博多」にするかで大バトル。市議会でも紛糾し、採決の結果はなんと「福岡」「博多」が同数。最終的に福岡出身の議長裁定で「福岡市」とすることに決定し自治体名としては博多の地名が消滅。1972年に政令指定都市になったときに、福岡市博多区としてようやく復活しています。おっと、話が見事にずれた。

 それから福島正則は尾張清洲20万石から、毛利家の本拠地だった安芸広島及び備後の49万8000石へ大幅UP! 
 陣中でいち早く家康に味方することを表明した山内一豊は、遠江掛川7万石を土佐浦戸24万石へ、これまた大幅UP! でも、長宗我部氏の旧家臣たちとなかなかうまく行かず対立し、長宗我部氏の旧家臣を由来とする郷士とよばれる層が幕末になって不満が爆発していきます。

 また加藤清正は肥後熊本19万5000石を51万5000石へUP!
 最上義光は雄勝郡平鹿郡33万石から出羽山形57万石へUP!

 家康自身は所領を250万石から400万石へ増加させ、さらに江戸近辺をはじめ関東周辺を家康の家臣団で支配するようにしました。また、全国各地に主要な場所に家康重臣をあちこちに配置していきました。しかし、この大名再配置は関ヶ原の戦い後の論功行賞だけにとどまりません。

 このあと、家康が死んだ後もしばらく、たとえ関ヶ原の戦いで家康に味方した大名でも、様々な理由をつけては領地の大幅削減、移封や取り潰しを行っていき、さらに徳川家一族(いわゆる親藩)や重臣たち(いわゆる譜代大名)に与えていきます。

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