第42回 江戸幕府の成立
東海道をどのように整備したかというと、まず道路は幅員5間(約9.1m *ちなみに1間(けん)は1.82m)と拡幅し、さらに人や馬が通りやすいように、路面を砂や砂利でつき固めます。そして、既存の集落を利用して、一定間隔で人々が休憩、宿泊など中堅地点として利用される、宿場(宿駅)と呼ばれる特別な町を設置します。
そして伝馬制というのは、公用の書状や荷物を運ぶときに、江戸から京都まで、延々と同じ人が担当するのではなくて、宿駅ごとに次々と人も馬も交代していく制度です。もちろん、宿駅に指定された集落では、あらかじめ荷物等を運ぶ人と馬を常時、準備しておかなければいけません。そのため、結構な負担になりましたが、その代わりに屋敷地に課税される年貢が免除されたり、当然のことながら旅行者が宿泊することに伴う宿泊費や飲食費などの収入が得られました。 また上杉家が支配していた佐渡金山、毛利家の石見銀山などを直接支配し、慶長金銀など貨幣を鋳造し、財政基盤を強化。ちなみに、東京に銀座という有名な地名がありますが、これは1608年から幕府が銀の鋳造を行わせた場所であることに由来します。・・・となると、金座は?と疑問が出ると思いますが、東京都中央区日本橋浜町1丁目に、金座通りという愛称のついた道路があります。 さて家康は、本拠地である江戸城と城下町を大々的に整備を開始します。 これ、自前でやったわけではなくて諸大名に工事を負担させ、家康に服従しているか確認すると同時に、資金を使わせることによって力を弱めさせる意味がありました。諸大名には迷惑な話だったでしょうが、現在の東京の基礎というのは、こうして形成されていきます。 また江戸に本拠を置いた家康は、徳川家の出先機関として、(信長や秀吉と同じように)京都所司代を1601年に置きます。これは朝廷や公家、寺社の支配や西国諸大名の監視や、仕事を失った武士、すなわち浪人の取締りを目的としました。初代京都所司代に任命されたのは、板倉勝重です。 江戸幕府の仕組みについては、また別ページで詳しく紹介します。
この中で、イギリス人のウイリアム=アダムス(1564〜1620年)、オランダ人のヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(1556〜1623年)を気にいった家康は、彼らを外交顧問として厚遇。特にウイリアム=アダムスは家康お気に入りで、東奔西走の活躍。後に、三浦按針という名前と三浦半島に領地が与えられます。なお、イギリスに帰国したいと願っていた彼でしたが機会に恵まれず、家康死後はイギリス商館員となり平戸(長崎県)で病没しました。 また、ヤン=ヨーステンの名前は屋敷があった場所から、現在の東京駅東口に八重洲として、丸の内と対を成す地名になっています。ちなみに彼も帰国の機会を狙いますが、乗船した船がインドシナで座礁して溺死しました。 さて、関ヶ原の戦いが終わると、まず安南(ヴェトナム)やスペインが支配するルソン(フィリピン)総督、カンボジア国王などに「仲良くしましょう」と親善の書簡を送付し、外交関係を樹立。1604年には朱印船制度を実施して、江戸幕府公認の船には朱印状(海外渡航許可証)を発行。彼らに活発な貿易活動を行わせました。 そして1609年にはオランダ船が平戸に来航。貿易をしたいとの申し出を幕府は許可し、平戸でオランダとの貿易が開始されます。1610年には、なんとメキシコへ京都の商人、田中勝助を派遣し通商交渉を開始。これは日本へ漂流してきたルソン前総督、ドン=ロドリゴを送還するついでに企画されたものですが、こちらは残念ながら貿易には至りませんでした。 また1613年、イギリスとの貿易が平戸で開始されました。 それから仙台の大名、伊達政宗は通商交渉を目的に、家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣。石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号に乗った彼らは太平洋を横断して、はるばるスペインへ行き国王フェリペ3世と、さらにローマで教皇パウルス5世と謁見し、常長は貴族に列せられますが通商の実現には至りませんでした。常長は目的を達せず1620年に帰国し、しかも運の悪いことに当時、幕府はキリスト教を弾圧していましたので、キリスト教信者だった彼は失意のうちに亡くなりました。 ちなみに、以前から日本で貿易をしていたポルトガルは、白糸と呼ばれる中国産の生糸を独占的に販売しており、高値で売って多数の利益を上げていました。そこで1604(慶長9)年、幕府は御用商人である茶屋四郎次郎を中心に、長崎・堺・京都(のち江戸と大坂も)の有力な町人を糸割符年寄に任命。彼らがポルトガルから一括で白糸を輸入し、国内業者に分配するよう、制定しました。 当然、これまで小さな商人達が個別にポルトガルから商品を買うのと異なり、幕府公認の輸入総代理店のみとポルトガル商人が直接対峙するわけですから、ポルトガルの商人達も、従来のように好き勝手な値段がつけられなくなります。妙な値段をつけて輸入総代理店から「じゃ、いらない」と言われると・・・ですからね。この貿易制度を糸割符制度と呼びます。もっとも、18世紀ぐらいから国産の生糸の生産量と質が向上したことにより、輸入されなくなります。 それから秀吉による文禄・慶長の役によって関係が悪化した朝鮮との間でも国交が回復。 対馬藩の宗氏による仲介によって、1605年に朝鮮から使者(回答兼刷還使)が非公式に来日し、1607年に正式な使者が来日して正式に国交を回復させると共に、先の戦いで日本が連れ去った朝鮮人を朝鮮に帰還させました(ただし、陶工の多くは日本にとどまり、有田焼など日本を代表する陶器を生み出していきます)。 のちに朝鮮通信使として主に将軍の代替わりごとに朝鮮から祝賀の使者が来日するようになります。互いの文化交流に大きく貢献し、朝鮮通信使が立ち寄った地域では彼らの服装を模したお祭りなどが、その名残として残っています。また、接待する幕府や諸大名の費用は莫大なもので、特に幕府の費用は毎回100万両にものぼったとか。 一方、現在の沖縄県である琉球王国は、明と朝貢貿易をしていましたが、薩摩の島津家では「あの貿易の実権を握りたい」と考えました。特に当時、明は日本との貿易を禁じていましたので、琉球を隠れ蓑に貿易すれば利益が・・・と島津家は考えたわけですね。そこで1606(慶長11)年に島津家久が家康の許可を得て侵攻を開始。 樺山久高を大将とする3000名が奄美諸島を攻略し、そして沖縄本島に上陸。今帰仁(なきじん)城を陥落させ、首里城にいる琉球国王、尚寧は降伏しました。幕府も島津家による琉球支配を認め、これより琉球王国は島津家の実質的な支配を受け、対外的には独立国として明と朝貢貿易を行うことになります。また、琉球王国は将軍の代替わりごとに慶賀使を、琉球国王の代替わりごとに謝恩使を江戸に派遣。1年を費やす大変な旅でした。
すなわち1603(慶長8)年、家康の三男で後継者と目される徳川秀忠(1579〜1632年)の娘、千姫(6歳)と豊臣秀頼(10歳)を結婚させました。おそらく、この段階では家康は豊臣家を滅ぼすことは最悪の手段の1つとしても、なるべく屈服させて徳川家に取り込むか、公家にでもして権力の無い存在にしようと考えていたのではないでしょうか。 さらに家康は1605(慶長10)年、なんと隠居して将軍位を徳川秀忠に譲ります(1607年には駿府(現在の静岡市)に移り、江戸も秀忠に譲りました)。これは天下は徳川家が引き続き治める!と宣言したに等しく、豊臣家の威信は低下。とは言ったものの、豊臣秀頼が大坂にいる限り、常に反徳川家の旗印にならないとも限りません。将軍位を譲ったとは言え、基本的な実権を握り続けた家康は大御所として、腹心の本多正信、本多正純親子らと共に、豊臣家の今後についてあれこれ思案します。
これに満足した家康は豊臣家を滅ぼすことに決めたか、1614(慶長19)年に豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」と文字が彫られていたのを、「○家○康と、家康の二字を分断している!」「豊楽とは豊臣家の繁栄のみを願っている!何事だ!」と無茶苦茶な言いがかりをつけます。 ここで豊臣秀頼が家康への完全な屈服を申し入れ、大坂城を明け渡せば生き残りの道もあったのでしょうが・・・。関ヶ原の戦い後に徳川家に改易された大名や、その家臣たちが浪人となって、大坂城に「わが世の春、再び」と続々入っていたこともあり、「家康、何するものぞ」と対決姿勢を見せてしまいました。 かくして両者は、ついに大坂で激突するのでした。 次のページ(第43回 大坂冬の陣・夏の陣へ) 前のページ(第41回 関ヶ原の戦い(2)へ) |