第44回 江戸幕府の仕組み
親藩(しんぱん)・・・徳川家康の男系子孫。詳しくは後述します。 譜代(ふだい)大名・・・主に関ヶ原の戦いより前に家康に従った大名(例外はあります)。 幕府の主要な役職に就任する資格があります。 外様(とざま)大名・・・関ヶ原の戦い以後に徳川家に従った大名 江戸幕府の特徴は、将軍に権力が残るように工夫したところです。すなわち、譜代大名は幕府要職につくことが出来ましたし、交通の要所に配置されましたが領地はそれほど大きいものではありませんでした。一方、外様大名は領土が多い者も多かったのですが、基本的に幕府要職には就任できませんでした。 親藩ですが、徳川家康の子孫といえども改易されることはあり、最終的に以下の家が残ります。 ○御三家(ごさんけ) 尾張徳川家・・・徳川義直(家康の9男)を初代とする家 紀州徳川家・・・徳川頼宣(家康の10男)を初代とする家 水戸徳川家・・・徳川頼房(家康の11男)を初代とする家 ○御三卿(ごさんきょう) *実効支配する領地は無く江戸城内に屋敷があり、幕府から10万石相当の収入を支給 田安徳川家・・・徳川宗武(8代将軍、徳川吉宗の次男)を初代とする家 一橋徳川家・・・徳川宗尹(8代将軍、徳川吉宗の4男)を初代とする家 清水徳川家・・・徳川重好(9代将軍、徳川家重の次男)を初代とする家 ○御家門(ごかもん) 越前松平家・・・結城秀康(家康の次男)を初代とする家 会津松平家・・・保科正之(2代将軍、徳川秀忠の4男)を初代とする家 など 親藩は幕末を除けば原則として幕府要職に就くことはありませんでした。親族による乗っ取りを防ぐ、ということだったのでしょうか。また、御三家と御三卿は将軍家に男子の相続者が無い場合、将軍家を継ぐ権利がありました。実際、8代将軍の徳川吉宗は紀州家から、11代将軍の徳川家斉は一橋家から、14代将軍の徳川家茂は紀州家から、15代将軍の徳川慶喜は一橋家(元は水戸家の出身で一橋家に養子へ)の出身。 余談ですが、幕府崩壊後の将軍家16代当主のコ川家達は田安家、18代当主(現当主)の徳川恒孝は会津松平家の出身(17代当主の外孫という縁がある)で、御覧の通り将軍家が断絶しないように色々工夫されています。なお、徳川家の徳の字は、旧字体は「コ」という字で、コ川と書くのが今でも正式です。 今度は大名とは話がずれますが。 徳川家の場合、将軍家直属の家臣(直臣)として、旗本(はたもと)と御家人(ごけにん)が置かれました。 旗本は、石高が1万石未満で儀式などで将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持っているもの。御家人はそれ以外、です。また、幕府は昔から続く名門の家柄を重視しており、吉良家(足利一族)、畠山家、今川(正しくは分家の品川家)、武田家などは旗本の中でも高家として、官位などの面で特に優遇しました。石高は少ないですけどね。
代表的なものが一国一城令と、武家諸法度(ぶけしょはっと)と総称される各種の制度。 一国一城令は豊臣家滅亡間もない、1615(元和元)年に出されたもので、大名の居城は1つのみ、あとは取り壊せ!という制度。まあ、ちょっと曖昧な面もあり、秋田藩の佐竹氏の場合は久保田城(秋田市)、大館城、横手城の3つが認められたり、仙台藩の伊達氏の場合は白石城がOKだったり、要害という名称で、色々と存続が認められたり・・・。 武家諸法度の場合、代表的なのはやはり1615年に徳川秀忠が出した元和令というもの。 実際には徳川家康が、京都の南禅寺金地院の以心崇伝というお坊さんに起草させたものですが、文武弓馬の道に励むことや、幕府の許可を得ないで婚姻をするな、城を補修する場合は幕府の許可を得ろ、新規の城を造るな、というものです。 さらに1635(寛永12)年、3代将軍徳川家光のときに林羅山という儒学者に起草させて大改正が行われ(寛永令)、参勤交代(=さんきんこうたい。領国と江戸に、原則として1年交代でいること)を義務付け、妻(正室)と子を江戸に人質としておくこと、私的な関所設置の禁止、500石以上の大船を造ることの禁止などが規定されました。 特に江戸時代初期には、この武家諸法度に違反したり、跡継ぎが無いまま大名が世を去ると、幕府は容赦なく大名を取り潰し(改易=かいえき)を行ったり、領地を削減する減封(げんぽう)、領地を別の場所に取り替える転封(てんぽう)などが行われました。また、参勤交代は大名達にとって大変お金と時間と手間がかかるもので、江戸に向かうたび、領地へ帰るたびに、大規模な隊列を組んで行進していきました。
転封は別に悪いことをやっていなくても、むしろ逆に加増されて転封されることもありました。まあ、転勤みたいなものですが、越前松平家出身で、松平直基を初代とする家の場合は、勝山(福井県)3万石を皮切りに、東は山形から西は日田(大分)へ、最後は前橋17万石にまで領国は増えましたが、江戸時代を通じて12回も転封させられました。しかも、山形には2回、姫路に3回、前橋に2回も転封されています。大変な出費だったでしょうね・・・。 また、御手伝普請(おてつだいぶしん)といって、幕府関係の城郭や河川などの土木治水工事を負担させ、大名の力がつきすぎないようにしました。各大名とも、次第に厳しい財政運営をするようになっていたので、幕府からこの命令が下ったときには真っ青でした。 それから軍役といって、必ず一定量の兵馬を常備させました。これもまあ・・・、お金のかかることでして大名達にはかなりの負担になっておりました。
水色のラインは譜代大名が就任したもの。ほかは、旗本が就任したものです。 老中(ろうじゅう)は通常の幕府では最も重要な役職で、いわば現在の内閣みたいなもので、老中のトップは老中首座と呼ばれます。老中は複数人が任命され、一般的な業務は毎月の当番(月番)で担当。重要な案件は合議で決定しました。ちなみに、普通の藩だと家老(かろう)という名前で、似たような役職がありますね。中には藩でも家老のことを老中と呼んでいることもあり、研究者が資料を読むときには「幕府の老中?藩の老中?」と混乱することもあるとか。 なお、幕末の1867(慶應3)年には、月番制をやめて国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の5人の総裁を置いて、それぞれ専任するという体制に改められました。まあ・・・ほど無く幕府が崩壊しますので、短い期間でしたが。 町奉行は旗本から選ばれる、江戸の民政を担当する役職。北町奉行、南町奉行の2つがありますが、これも老中と同じく1月交代。町奉行といえば、大岡越前、遠山の金さん(遠山金四郎景元)、というのは実像とは少し異なりますが、今でもお馴染みですね。ちなみに、寺社奉行、勘定奉行とあわせて、三奉行と総称します。
若年寄(わかどしより)は、老中の補佐と江戸城内の事務を担当したものです。 また図には書いてませんが、幕府直轄地(天領)のうち、関東、飛騨、美濃などには郡代(ぐんだい)、その他の天領には代官が派遣されて、勘定奉行の下に置かれました。 それから大目付は老中の下で大名を監視、目付は若年寄の下で旗本、御家人を監視。つまり、大は大を監視というわけ。どっちがどっちを監視するのか、間違えないように受験生は要チェック!! また、「大番頭」「書院番頭」「小姓組番頭」は、武力で警備する番方という役職各部門のトップ。ちなみに、一般の行政や司法、立法の役職は役方と総称します。このほかは上図に記したとおりです。
まず大名の領地と支配機構を、江戸時代は例えば加賀藩とか、尾張藩とか、広島藩とか・・・「藩」(はん)と称します。当然、お殿様の下には家臣たちがいます。さて、そのお給料の仕組みはと申しますと、江戸時代初期は戦国時代から引き続き、有力な武士に領地を与え、彼らに領民支配を認める地方知行制(じがたちぎょうせい)をとるのが大半でした。 それから次第に、領地は名ばかりのものとなり、武士たちは城下町に定住し、会社員(公務員?)のように化していきます。さらに一歩進むと、領地は全て藩のもの、武士は藩が税として取り立てた年貢から支払われる=蔵米を支給される俸禄制(ほうろくせい)へと変わって行き、藩という組織が領地全体を統括する仕組みへと変わっていきました。 ![]() ちなみに現在の北海道、当時の蝦夷地にあった松前藩は米が取りにくい場所であったため、家臣に対して、現地のアイヌとの交易場である商場を知行として与える特殊な俸禄体系でした。これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)といいます。 なお、松前藩の場所は左の地図の通りです。
朝廷に対して幕府は、1615年に以心崇伝の起草によって、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定。既に公家衆法度などで、公家の行動を法律で規制していましたが、ついに天皇も法律で行動を制限されることになりました。特に、これまで公家の法律でも武家の法律でも、天皇は法を超える存在として何ら規定されていませんでしたが、今回は第1条でいきなり 天子諸芸能ノ事、第一御学問也 すなわち、天皇(天子)は第1に学問をすべし、と法律で規定。 禁中並公家諸法度は1〜12条が天皇家および公家が厳守すべき諸規定、13条〜17条が僧の官位についての諸規定です。具体的には武家に対する官位は、将軍がコントロールする、とか、関白や武家伝奏(ぶけでんそう)の命令に違反する貴族は流罪にする、とか、偉いお坊さん(高僧)に与える「紫衣(しい)」の勅許を簡単に与えてはいけない、とか・・・。 要するに天皇は政治に口を出すな、幕府の息がかかった者の言うことを聞け! というわけですね。 ちなみに武家伝奏は室町時代にもあったものですが、公家から2名が選ばれ、幕府と朝廷の仲介を行います。任命権は天皇にありましたが、役料という名前の役職手当を幕府が支給したため、必然的に幕府の息がかかるようになりました。 次のページ(第45回 徳川秀忠・家光の時代)へ 前のページ(第43回 大坂冬の陣・夏の陣)へ |