第45回 徳川秀忠・家光の時代

○今回の年表

1616年 徳川家康、死去
  (中国)ヌルハチが後金国を建国。
1617年 日光東照宮が建立される。
1618年 (ドイツ)神聖ローマ帝国を舞台に三十年戦争が勃発
1619年 徳川頼宣を和歌山に移封し、既に成立済みの尾張、水戸と共に御三家が確立。
1620年 徳川秀忠、娘の和子(東福門院を入内させる。
  清教徒(ピューリタン)の一行がメイフラワー号で北米に移住。
1623年 徳川家光が第三代将軍に就任し、秀忠は大御所に退く。
  イギリスが平戸商館を閉鎖し、日本との交易から撤退。
1624年 スペイン船の来航を禁止する。
1627年 紫衣事件が起こる。
1628年 (イギリス)イングランド議会から国王チャールズ1世に対して権利の請願が出される。
1633年 鎖国令が出され、日本人の海外渡航と、海外にいる日本の帰国を大幅に制限。
1635年 鎖国令が改めて出され、日本人の海外渡航と、海外にいる日本の帰国を禁止。
1636年 長崎に出島が作られ、ポルトガル人を移住させる。
  (中国)後金が国号を「清」(しん)と改称する。
1637年 島原の乱が起こる。
1639年 ポルトガルの来航を禁止。
1641年 オランダ商館を出島に移す(いわゆる鎖国体制の完成)
1642年 (イギリス)清教徒革命がおきる。
1643年 田畑永代売買の禁令が出る。
  (フランス)ルイ14世が即位する。
1644年 (中国)明が李自成によって滅ぼされ、そこへ清が攻め込み中国支配を開始する。

○2代目はバカでは務まらぬ

 さて、前回では江戸幕府の組織等について長々とお疲れ様でした。
 話を第2代将軍、徳川秀忠の時代に戻すことにしましょう。  織田信長が本能寺で亡くなる3年前の、1579(天正7)年に生まれた徳川秀忠は、自らが生まれた年に家康長男の松平信康が「武田勝頼と内通している」という理由で切腹させられ、さらに家康次男の徳川(結城)秀康は豊臣秀吉の養子へ、さらには関東の名族である結城氏を継いだこともあり、家康の後継者として教育されてきました。

 ところが関ヶ原の戦いでは前述のとおり、信州上田城で真田昌幸の抵抗に手間取り本番に遅参。家康の激怒を買ってしまいます。ですが、持ち前の実直さと手堅い政治的手腕が評価されたようで、1605(慶長10)年に幕府第2代将軍に就任。時に秀忠は27歳。そして父親の期待通り、間もなくして駿府へ移り豊臣家対策や各種外交に頭を働かせる家康に代わり、着実に江戸の整備と幕府の体制作りを進めていきます。

 そんな秀忠を支えたのが、酒井忠世(さかいただよ 1572〜1636年)土井利勝(どいとしかつ 1573〜1644年)青山忠俊(あおやまただとし 1578〜1643年)といった重臣たち。秀忠と比較的年齢も近い彼らに支えながら、家康が亡くなると、いよいよ秀忠は力強い政治に舵を切ります。

 例えば、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)、さらには弟の松平忠輝(越後高田75万石)、家康側近だった本多正純(宇都宮15万5000石)など、幕府の脅威になりそうな大名は色々と理由をつけて、改易して取り潰しました。

 例えば福島正則の場合、台風による水害で破壊された広島城を無断で修理したことが武家諸法度違反というもの。ところが実は、2ヶ月も前から修理の申請を本多正純にして手続きは踏んでいたとか。しかし、家康の側近だった本多正純は秀忠政権下では発言力が低下しており、幕府内の権力闘争に巻き込まれた一面もあったようです。

 なお、福島正則は完全に撮り潰されたわけではなくて、武田信玄と上杉謙信が戦った、川中島などに4万5000石が与えられています。もっとも、福島正則の死後、更に難癖つけられて、なんと・・・福島家は旗本3000石にまで落ちています。恐ろしい・・・。

○各勢力への徹底した統制

 さて、秀忠が大御所の時代も含めると、外様23家、親藩・譜代16家も改易。また、転封も秀忠の時がピーク。こうして、親藩だろうが譜代だろうが外様だろうが、遠慮無く改易するぞという姿勢を出し、大名統制を行いました。そのほか、キリスト教に対する統制を強め、1622(元和8)年には長崎で55人の宣教師や信者、支援者を斬首や火あぶりなどで処刑しました。これを、元和大殉教といいます。

 なお、幕府は徳川家康の遺言もあって家康を神格化するよう務めました。
 家康は没後、駿府(静岡市)の久能山に埋葬されていましたが、1617(元和3)年、82歳の天海大僧正の主導によって現在の栃木県にあり、古来より信仰を集めていた日光の二荒山(ふたらさん)に日光東照宮を竣工させて改葬します。そして家康は東照大権現として江戸時代を通じて幕府の守り神となりました。

 ちなみに天海大僧正、1643(寛永20)年に108歳で没したとか。関ヶ原の戦い前より家康の参謀として活躍してきた人間で、実は明智光秀、少なくとも親子など親類縁者では無いか?という説が出るなど、何かとなぞの多いお坊さんです。本当に108歳まで生きたんでしょうか??

 それから朝廷対策としては、五女の和子(初姫)後水尾天皇の妃とすることに成功。平清盛以来、2人目となる武家の娘が天皇家の妃となった例です。朝廷の外戚としての力を得ようとしたわけですが、幕府の体制が整っていったこともあり、結局のところ江戸幕府にとって最初で最後の例になりました。

 さて、その後水尾天皇ですが幕府にあれこれ指図されるのが面白くない。例えば和子を妃として押し付けられる前、既に天皇にはお気に入りの女性との間に皇子と皇女がいたのですが、なんと近臣を処罰するなどの「お詫び」をさせられる羽目に。・・・ちなみに、これは秀忠にも側室を許さなかった、秀忠正室のお江与の方が「そんなところに娘をやれません!」と反対したことも影響しているとか。

 さらに禁中並公家諸法度によって、朝廷が紫衣(しえ/紫色の法衣や袈裟(けさ)のこと)や上人号を勝手に、高い僧や尼に与えることを禁止されていましたが、後水尾天皇は「守る必要があるか!」と無視して、従来の慣習どおり、紫衣着用の勅許を幕府の許可なく与えていました。

 1627(寛永4)年、既に秀忠は大御所として君臨していましたが、この問題に対して「許さん、無効にしろ!」と強硬に出ます。これに対し朝廷はもちろん、大徳寺住職である沢庵宗彭なども反対しましたが、1629(寛永6)年、その沢庵ら反対派の僧侶を出羽国や陸奥国への流罪とし、朝廷に対し断固とした処置を取りました。これを紫衣事件といいます。この他にも数々の無礼に激怒した天皇は、とうとう天皇位を退き、院政を行うことにしました。

 まあ・・・そのおかげでストレスが減ったのか、85歳で崩御されています。 

○箱根関所の設置



 さて、1619(元和5)年には現在の神奈川県の箱根に関所が設置されました。この箱根関所は、江戸と京都を結ぶ主要ルートである東海道でも有数の難関に設置されたもので、江戸の防衛を目的とします。ここでは出女(でおんな)という女性が江戸を出ることについて、特に厳しくチェックしました。つまり、人質の意味がある江戸に住まわせている、大名の妻女が密かに国元に帰ることを監視するものでした。

 関所は箱根以外にも新居(静岡県)、碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)など様々な場所に設置され、出女以外にも江戸に武器が入ってくる「入鉄砲」の監視などを目的としました。

○側近に恵まれた徳川家光

 さて、秀忠が将軍位を譲ったのは意外と早く1623(元和9)年のこと。
 第三代将軍に就任したのが秀忠の長男、徳川家光(1604〜1651年)です。

 大名たちを前に「生まれながらの将軍である」と高々と宣言し、つまり「君らのお陰で将軍になったわけではない。遠慮なく政治を行うぞ」と強気の姿勢に出ました。これに外様大名の代表格である伊達政宗が「将軍家がご出陣されるまでもない。私が踏み潰して御覧に入れましょう」と答え、大名達を震え上がらせました。

 実際、母も同じくした弟である徳川忠長(1606〜1634年)すら改易し、さらに熊本藩主加藤忠広(加藤清正の子)を筆頭に、外様29家、譜代・親藩20家の合計400万石も取り潰し。秀忠、家光の時代は各大名たちにとって生きた心地がしなかったことでしょう・・・。

 家光もまた側近に優秀な人材に恵まれたもので、秀忠の頃からの重臣、土井利勝や酒井忠世の他、家光が誕生すると側近として使えた稲葉正勝(家光の乳母、春日局の子)、知恵伊豆と言われた松平信綱堀田正盛阿部忠秋阿部重次三浦正次太田資宗という「六人衆」などが支えました。また、家光は伊達政宗の大ファンで、非常に厚遇します。政宗もさすがに高齢となり「好きあらばオレが天下を・・・」とは思わなくなったのでしょう。家光の後見人として支え、「生まれながらの将軍」宣言は政宗が考案したとも言われています。

 その一方、肝心の両親とはあまり仲が良くなかったらしく、一時は弟の徳川忠長が後継候補だったとか。家光の乳母である春日局が家康存命中に「後継者をはっきりとさせてください」と頼み込み、家康が「長幼の序」、すなわち年齢が上の方が優先!と示したことによって、ようやく家光の地位が確定したとか。

 そんなこともあって、家光は両親よりも家康、そして家康と知能戦を繰り広げた伊達政宗を深く敬愛し、秀忠が造った日光東照宮を自らの手で、現在見られる姿に大幅に改築。また政宗が亡くなる3日前に見舞いに行き、亡くなると江戸で7日、京都で3日の間殺生や遊興が禁止するほど、その死を悲しんだそうです。

 余談が少し長くなりますが、家光にはもう一人、保科正之(ほしなまさゆき 1611〜1673年)という弟がいました。彼は側室を持つことが許されなかった秀忠が、浮気しちゃって生まれたのですが、奥さんにバレるのを怖がった秀忠が、なんと密かに信濃国高遠藩主・保科正光の子、ということにしてしまいました。保科正之が秀忠に会ったのは彼が18歳のとき、お江与の方が亡くなった後の1629(寛永6)年のこと。

 家光は保科正之を信頼できる弟として大変可愛がり、また実際に保科正之も謹厳実直にして、非常に優秀な人物でした。これ以後、保科正之は初期の江戸幕府において重要な役割を果たし、とくに家光の死後、第4代将軍の徳川家綱の時には幕府の中心的な人物として数々の政策を実行していきます。さらに、保科正之の家は会津藩松平家として続いていき、幕末になっても幕府を支える家柄として奮闘しました。



江戸図屏風
徳川家光の頃の江戸城とその周辺の様子。
(写真:国立歴史民俗博物館にて)

江戸図屏風
こちらは日本橋の様子。たくさんの小舟が停泊していますね。

○日光東照宮の改築


 ところで、徳川家光はよほど父親が憎く、一方で祖父を尊敬していたと見え、まだ完成して間もない日光東照宮を、自らの手で全面改築することにしました。1636(寛永13)年には上写真の陽明門や本殿が完成。その他についてもこの時代に順次完成していき、日本の建築全てを見ても類を見ない、絢爛豪華で装飾も細かい神社が完成しました。

 幸いにも当時の建物の多くが現在も残り、世界遺産にまで指定されているのは凄いことですね。

○島原の乱

 さて、大きな戦争もなくなり天下泰平になりつつあった家光の時代ですが、九州西部、現在の長崎県にある島原・天草一帯で、1637(寛永14)年に農民などが大反乱を起こしました。直接的な原因は、島原藩主の松倉勝家、そして寺沢堅高が治める唐津藩の飛び地だった肥後・天草諸島で過酷な年貢徴収や税の取立てなどの圧政を行っていたことに、ついに人々の我慢が爆発したもの。

 この地域は元々、キリシタン大名である有馬晴信(改易)や加藤忠広(改易)などの所領だったこともあり、失業した旧家臣団や弾圧されつつあったキリスト教徒も参加した大規模なものに。16歳の少年、天草四郎(益田四郎時貞)を宗教的カリスマな存在として担ぎ出し、一時は島原城にまで攻撃勢いで、最終的に原城という旧有馬家の居城に立てこもりました。

 これに対し幕府は御書院番頭の板倉重昌を派遣しますが、九州諸大名の統率が取れなかったこともあり闘いは膠着状態に。そこで老中の松平信綱が派遣されたところ、功を焦った板倉重昌は無理な力攻めを行い戦死してしまいました。そこで松平信綱は兵糧攻めを行い、さらにはオランダ船に要請してから海上から砲撃を行ってもらうなど、反乱軍を物資面、精神面でジワジワと弱体化。食料、弾薬が尽きて反乱軍が万策尽きたところへ幕府軍は総攻撃を行い、その大半が討ち取られました。

○鎖国(海禁政策)体制の確立

 そして幕府は、キリシタンに対する弾圧を大幅に強化する一方、外国との交流を大幅に制限していきます。既に日本人については海外への渡航も、さらには海外から帰ってことさえ禁止されていましたが、ポルトガルは日本との交易から追い出され、オランダは出島という長崎にある小さな人工島に押し込められて交易を許されることになりました。



寛文長崎図屏風
17世紀の作品。1673(寛文13)年に交易再開を求めて来航したイギリスのリターン号と、この2年前に移転したばかりの長崎奉行所が向かい合って描かれています。
(写真:国立歴史民俗博物館にて)





現在の出島
 現在も「島」のような雰囲気が一見すると感じられますが、大半は陸続きになっています。さて、出島は1636年に完成し、元々はキリスト教を布教するな!とポルトガル人を押し込める予定でしたが、そもそも日本から追放することに決定。5年後、平戸のオランダ人を住まわせることにしました。窮屈な暮らしだったようですが、対日貿易の利益が大きいものであり、出島の生活に耐えました。

ヘトル部屋
 現在の出島には、かつての建物がいくつか復元されています。上写真はヘトル(商館長次席)の住まいとして使用されていた建物。 屋根を見ると、ちょっとした物見台があるのがお解り頂けるかと思います。

一番船船頭部屋・一番蔵
 一番船船頭というのはオランダ船船長の宿泊所および商館員の住まいとして使用された建物。そして隣がそれぞれ一番倉(砂糖などを貯蔵)、二番倉(輸入品の蘇木(そぼく)=染料に使った木を保管する倉庫)です。


 ちなみに1644年からは、出島に派遣されているオランダ商館長(カピタン)が毎年、「オランダ風説書」というヨーロッパなどの海外情勢をまとめた書物を、長崎奉行を通じて幕府に提出することが慣例化しました。これによって幕府は意外と海外情勢を仕入れることが出来ました。それを上手く活用できたかは・・・別問題ですが。

 こうして島原の乱前後から日本は外国との交流を極力避けるようになります。いわゆる鎖国体制の成立ですが、それでも完全に外国との門戸を閉ざしたわけではありませんでした。すなわち
 オランダ・中国は長崎で、朝鮮とは対馬藩経由で、琉球は薩摩藩経由で、アイヌは松前藩(北海道)経由
 この4つの口が日本の玄関口として機能しました。

 この鎖国、または海禁政策という言葉の方が妥当だという意見もありますが、ともあれ鎖国が良かったのか悪かったのか、これについては様々な意見があります。江戸時代には俳句、園芸、近世邦楽、文楽、歌舞伎、浮世絵、陶磁器など独自の技術や文化が進歩します。一方、人々には正しい西洋の情報が入りにくくなり、幕末にアメリカから黒船がやってくると大混乱状態。西洋に追いつけ、追い越せ!も、様々な問題を絡みながら超特急ペースになりました。

○その後の天草

 さて、ここまでは色々本に登場しますが、多くの農民達が討ち取られた島原や天草はどうなったのでしょうか。
 まず松倉勝家は責任を問われて切腹を命じられ、島原藩はその後、高力家、松平家が治めます。特に島原の乱の後、最初の藩主になった高力忠房は家光の信任厚い人物で、1年間の年貢免除や島原への移民奨励等を行い、農村の建て直しに尽力。期待通り、島原の復興に成功します。

 一方、天草は鈴木重成という人物が代官として派遣されます。島原の乱にも従軍した人物で、その惨状を目の当たりにしているだけに、彼は冷静に反乱の原因について分析。前の藩主が実際に取れる米の収穫高を無視して、4万2000石であると幕府に報告し、それに見合った年貢を過酷に取り立てたのが問題だった、と考えました。

 彼もまた年貢の免除措置、天草への移民奨励政策を採りますが、それにあわせて幕府に対し「天草の石高は2万石がやっとである。石高の半減をしていただきたい」と訴えます。しかし、松平信綱をはじめ幕府の人たちは「前例が無い」として無視。重成の必死の嘆願はとどかず・・・と、普通はこれで終わりになろうものが、なんと重成は自ら切腹することで最後の訴えを行いました。

 これにはさすがに幕府も考え、次の代官には重成の甥である鈴木重辰を派遣すると共に、1659(万治2)年には石高を2万1000石に訂正することが決定されました。地元の人たちは自分達のために命まで絶って尽くしてくれた重成を深く敬い、鈴木神社を建立。現在でも尊敬を集めています。

 鈴木重成については、熊本放送の特設ページである http://www.rkk.co.jp/start/shigenari/history/index.html に詳しくまとめられています。

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