第47回 犬公方、徳川綱吉の時代

○今回の年表

1680年 徳川綱吉が第5代将軍となる。
1682年 江戸幕府、勘定吟味役を設置する。
  井原西鶴が好色一代男を発表(浮世草子の初め)。
  (ロシア)ピョートル1世が即位する。
1685年 徳川綱吉、最初の生類憐みの令を出す。
1687年 (イギリス)ニュートンが万有引力の法則を発表。
1688年 柳沢吉保、側用人に就任。
1689年 松尾芭蕉が奥の細道の旅へ出発する。
  (イギリス)名誉革命により、イングランド王ジェームズ2世が追放。翌年、権利の章典が制定。
1690年 湯島聖堂が完成する。
1691年 住友友芳、現在の愛媛県で別子銅山を開発する(住友グループの始まり)。
1695年 荻原重秀、金銀貨幣を改鋳する(元禄金銀)。
1696年 荻原重秀、勘定奉行に就任。
1697年 大坂堂島に米市場を開設する。
1700年 (北欧)北方戦争が起こる(1721年まで)
1701年 (スペイン)スペイン継承戦争が起こる(1713年まで)。
1702年 大石良雄ら赤穂藩の浪人たちが、吉良義央(上野介)を暗殺。
1703年 近松門左衛門の曾根崎心中が初演される。
1707年 富士山が大噴火する。
1709年 徳川綱吉が病没する。

○徳川綱吉、初期の政治

 1680年、亡くなった徳川家綱には実子がいなかったため、弟の徳川綱吉(とくがわつなよし 1646〜1709年)が第5代将軍に就任しました。彼は、家綱時代に絶大な権力を誇っていた大老の酒井忠清を早速罷免し、自分を将軍として擁立してくれた老中の堀田正俊(ほったまさとし 1634〜1684年/堀田正盛の三男)を大老とします。酒井忠清は越前松平家と縁続きである有栖川宮家の幸仁親王を宮将軍として擁立しようとしていた・・・と言われており、失敗した忠清を待っていたのは・・・。というわけで、見事な権力交代劇といったところでしょうか。

 そして、酒井忠清は失意のうちに1年後に死去。
 彼が宮将軍を擁立しようとしていた真の理由は、未だに良く解っていません。そもそも、忠清を悪者とするために後に捏造された話ではないのか?という疑問も有力に出されています。

 さて、この時代になると、次第に平和ボケした幕府の空気はたるみ始め、さらに災害対策などの公共事業に多額の出費をしてきたため、幕府の財政も早々に危機的な状況になってきました。そこで徳川綱吉と堀田正俊は、天和の治と言われる改革を実行します。

 まず重要なのは、綱紀粛正。家綱の時代から一変し、不真面目な大名家は次々と処罰を受けました。御家騒動などもってのほか。また、代官の不正も許さなかった。一方で真面目な者達は表彰する。彼らは、いわゆる信賞必罰で政治に臨み、堕落が始まった幕府と大名をビシバシ取り締まったのでした。また老中直属の機関として、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)という幕府の財政や、代官などの不正行為などをチェックする役職を創設します。

 要するに現在で言う、監査役のようなもので、この発想を当時具現化したというのは、結構凄いことだと思います。

 このまま二人の改革の炎は続くかに見えましたが、1684年に、いかなる理由からか堀田正俊が、甥の稲葉正休に殺されてしまいます。一説には正俊と綱吉の仲が悪くなり、正休が綱吉の命で殺したという(だが、嫌いならクビにすれば良いだけのこと)。またもう一説には、大坂の淀川改修工事を巡るトラブルがあったそうな。

 正休の立案した改修計画の費用見積もり4万両に対し、正俊が独自に専門家の河村瑞賢(かわむらずいけん 1617?〜1699年)に調査させたところ半分の費用ですむことが判明。これで面目を失った正休が正俊を殺したそうな・・・、という説。

○土木工事はお任せあれ、河村瑞賢

 話はズレますが、この河村瑞賢というのが凄い商人です。
 元々は伊勢国東宮(とうぐう)村(現在の三重県南伊勢町)で、貧農の子として生まれて13歳のときに江戸に出てきて、車力などの下積み生活の末に、材木商に転身。明暦の大火が起こると、木材の主要産出地である木曽の森林を買占め、その売却益で莫大な富を築き、今度はゼネコン業へ移行。幕府や諸大名の土木工事を請け負います。

 それだけなら、ただの一攫千金な商人ですが、彼は着眼点に優れた人物で、物資の効率的な輸送路を次々と切り開いていきます。例えば、福島など東北の方から江戸に米を運搬するルートは、従来は利根川まで出た後、川用の船に積み替えて・・・というルートだったのですが、彼はこれを房総半島経由で、大型船で一気に運ぶ東廻り航路(東廻り海運)を開発。大幅なコストダウンに成功しました。

 もちろん、ただ房総半島等経由にするだけなら誰でも考えるでしょうが、その中でも、どの航路を取れば最も安全に、早く江戸に着くかを、そして船の航路を守るシステムの構築を河村瑞賢は調査研究したのです。詳しくは是非、皆さんも調べてみてください。

 また1671年には出羽(山形県)にある幕府領の年貢米の輸送を請負い、日本海の諸藩が利用する、関門海峡、瀬戸内海を経由する西廻り航路(西廻り海運)を再構築。寄港地の再設定や、航海に危険な場所に水先案内船を置いたり、一部の港には夜間に烽火(ほうか)を炊かせるなど、安全性を確保。この航路が安心して利用されるようになり、特に終点の大坂は天下の台所として、発展していきます。

○柳沢吉保と荻原重秀

 話を戻しまして、堀田正俊が殺害されると権力を握ったのが側用人(そばようにん)という役職に就任した牧野成貞(まきのなりさだ 1634〜1712年)と、柳沢吉保(やなぎさわよしやす 1658〜1714年)でした。特に柳沢吉保は、所領の加増などで非常に可愛がられ、元々は綱吉の小姓としてスタートしたのが、側用人就任で1万2000石へ。終いには甲府15万石まで与えられ、大老格にまで上り詰めます。その権力や、大変なものだったでしょう。


 東京都文京区にある六義園(りくぎえん)。1695(元禄8)年、江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉より、駒込を拝領した側用人の柳沢吉保が自ら設計、指揮をして7年の歳月をかけて、平坦な地に丘や池を造り、1702(元禄15)年に完成させたもので、回遊式築山泉水庭園として造園しました。
 教養人の柳沢吉保らしく、庭園の名称は、中国の漢詩集「毛詩」の「詩の六義」(風・賦・比・興・雅・頌という分類)に基づいた紀貫之の和歌の「六体」に由来しています。さらに、庭園は紀州(現在の和歌山県)の、和歌の浦の景勝や、和歌に詠まれた名勝の景観を、八十八境として再現しているのが特徴です。当時は、小石川後楽園と並び二大庭園と称されました。

 柳沢吉保が領地を賜った甲府。言わずと知れた武田信玄ゆかりの地であり、江戸時代に於いても江戸を守る関東の超重要な場所で、かつては家康の九男・徳川義直(のち尾張藩主)、徳川家光の弟である徳川忠長、家光の三男・徳川綱重(綱吉の兄)とその息子の徳川家宣(当時は綱豊)が領有。徳川家宣が綱吉の後継者となることが決まり、江戸城西の丸に入ることに代わって、柳沢吉保が甲府藩主として入ることになったのですが、これはものすごい権勢だったわけです。
 また経済面では荻原重秀(おぎわらしげひで 1658〜1713年)を勘定奉行として登用。彼は財政難の幕府を立て直すため、産出量が減少していた佐渡金山を再調査して再生させたり、不足する貨幣の流通量を増やすため、貨幣を改鋳(かいちゅう)。金含有率を減らした元禄金銀を作らせました。ところが、金貨の価値が下がり物価が上昇した・・・との批判を受けますが、最近では「それほどのインフレ率ではなかったのでは?」という研究もあります。


他の時代のものと比べると、たしかに元禄時代のものは質が悪そうなのは否定できないところ。
(江戸東京博物館にて)
 特に彼が凄いのは、世界各国が実物の金や銀を貨幣として重要視する中で、既に「通貨という物は、政府の信用があることが大切であり、そのためには金貨である必要もなく、瓦でも良い」という名言を残しています。事実、皆さんご承知の通り、今は買い物を金貨や銀貨でなんか支払っていませんよね。それどころか、電子マネーすら普及しています。要するに、通貨の材料は何でも良いわけで、問題は政府がきちんと流通の管理が出来ているか、ということなのです。

 ところが荻原重秀は不幸にも、幾ら財政再建に取り組んでも、例えば1707(宝永4)年に発生した富士山大噴火のように天災などで多額の出費を強いられ、しかも追い討ちをかけるかのように綱吉も、そして綱吉の母である桂昌院も寺社建設などで散在する有様(代表的なのが下の2例)。これでは中々・・・財政再建への先行きは厳しい。

 仕事に忙しかったのか、荻原重秀は自らの考えを記した書物を残さなかった上、徳川綱吉の死後、新たに権力を握った新井白石という学者に「賄賂を大量にもらっていた」などのある事無いことでボロクソに叩かれ、すっかり悪人扱いされてしまい、正当な評価がされてきたのは、比較的最近のようですね。



護国寺
 東京都文京区にある護国寺は、桂昌院の願いにより、彼女が深く帰依する亮賢を僧正として、徳川綱吉が建てさせた真言宗の寺院。
 写真の観音堂(本堂)が1697(元禄10)年の建築で、徳川綱吉が建てさせた当時のものです。ちなみに境内には、三条実美、山県有朋や大隈重信、実業家の大倉喜八郎の墓などもあります。

湯島聖堂
 学問、特に儒学オタクであった徳川綱吉が1690(元禄3)年に儒学の振興を図るために、朱子学派儒学者の林羅山が上野の私邸に建てた孔子廟「先聖殿」と、林家の家塾を移築したもので、現在のJR御茶ノ水駅近くにあります。
 1797(寛政9)年には林家の手を離れ、幕府直轄学校「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」となり、明治になると東京師範学校、東京女子師範学校などを経て、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展しています。
 なお、現在の建築は1935(昭和10)年に伊東忠太(東京帝国大学教授)の設計により、寛政時代の旧制を模して鉄筋コンクリート造りで再建された近代建築です。

○生類憐みの令

 徳川綱吉も結局後継者に恵まれなかった将軍です。
 なかなか男児が生まれず、ようやく誕生した徳松は早世してしまいました。

 そこで彼は1685(貞享2)年から数次にわたり、後世に生類憐れみの令と総称される様々なお触れを出しました。つまり、「子供が生まれないのは、前世に殺生をしたため」だとか。これを進言したのは、綱吉の母である桂昌院が帰依する僧・亮賢(りょうけん)、または、やはり桂昌院がお気に入りの僧・隆光といわれています。その対象は犬が特に有名ですが、猪、鹿、狼、野鳥、牛、馬、犬、さらには捨て子にまで及びました。

 捨て子を町村に養育を義務付けるとか、「みだりに鳥を撃ってはならぬ」など、その理念は立派ですが、これに違反した者の処罰が過激すぎました。そして、犬公方と言われるほど江戸の犬を大切にし、武蔵国喜多見村(現在の東京都世田谷区)や、四谷、大久保、中野に施設を造って野良犬を保護し、エサを与えました。

 当然「俺たちの生活が苦しいのに、犬にエサを与えるのかよ」と庶民に不評でしたが、これは野良犬対策には有効だったと私は思います。ただ・・・犬の保護に多額の出費を行ったのは、幕府の財政にまたまた打撃を与えました。なにしろ、中野の施設では10万匹が保護できるものだったとか。それでも場所が足りずに、周辺の村に養育金を支払ってまで預けたほど。

 一般には綱吉の風変わりな政策に誤解されがちですし、もちろん多少はそうだとは思いますが、実は生物を全て幕府の管理下に置いてしまおうという、深読みすればするほど、凄まじい法律です。深読みしなくても、特に農民からは鳥獣保護を名目に、農作物を荒らす動物を追い払うための鉄砲を取り上げたそうで、幕府に反抗するための道具を奪うという、幕府にとって現実的な面もありました。

 そのため、綱吉の死後も鉄砲所持の規制など一部制度は存続しました。

 またこれに併せて、1684(貞享元)年に服忌令(ぶっきれい)というのを発布します。服忌とは、近親者の喪に服すこと(服喪)と、穢れ(ケガレ)を忌む忌引(きびき)の2つで、誰かが亡くなったときに、喪に服する日数や自宅謹慎の日数を、死者との関係によって色々と細かく規定したものです。

 殺すか殺されるかが当たり前のような戦国時代、そしてその影響が残っていた江戸時代初期。
 生類憐れみの令や、この服忌令は、血や死を穢れとすることで、忌み嫌うにし、人々の価値観を大きく転換させていくもので、徳川綱吉が何を理想としていたか、その一端を垣間見ることが出来ます。

○どこまで本当? 忠臣蔵の世界

 徳川綱吉政権の末期にあたる1702年には、改易された赤穂藩浅野家の浪人たちが、吉良義央の屋敷を襲って彼を殺害するという、赤穂浪士の討ち入りが発生し、世間の注目を集めます。ことの発端は、次のような事情です。

 すなわち1701(元禄14)年、赤穂藩第3代藩主の浅野長矩(あさのながのり/通称は浅野内匠頭=たくみのかみ)が江戸城の松ノ廊下にて、旗本(高家吉良義央(きらよしなか/通称は吉良上野介=こうずけのすけ)に斬りつけるという事件が発生。吉良義央は一命を取り留めましたが・・・。

 浅野長矩はこのとき、天皇・上皇の使いとして新年の賀礼に徳川綱吉を訪ねる予定の勅使・院使の饗応役に任じられており、その指南役が吉良義央でした。つまり、朝廷から大事なお客様がやってくるというのに、あろうことか接待の責任者が、礼儀作法の先生を殺そうとしたという、なんとも幕府にとって面子の悪い事件を起こしてしまったわけです。しかも、大切な場所を血で汚してしまった。先ほどの服忌令に象徴されるように、綱吉にとって最も忌むべき出来事です。


 諸大名が将軍に拝謁する大広間や、勅使との対面に用いられた白書院に続く江戸城の松ノ廊下。
(江戸東京博物館 復元模型)


 当然のことながら綱吉は「余の顔に泥を塗る気か!」と激怒し、なんと事件当日のうちに切腹と赤穂藩浅野家の改易を決定。おかげで、浅野の殺人未遂の動機は未だに不明ですし、おそらく永久に解明することは無いでしょう。

 こうして赤穂藩は取り潰されてしまい、家老の大石良雄(おおいしよしお 1659〜1703年/通称は内蔵助=くらのすけ)。吉良上野介を討つべし!という強硬論を抑えつつ、浅野長矩の弟である浅野長広による御家再興の機会を待ちます。うかつに幕府に反抗して、全てが台無しになっては困ると冷静に考えたのでしょう。

 ところが、浅野長広は広島藩浅野家永預かりとする!、つまり「赤穂藩浅野家の再興は無いぞ」と処分が決まったことで、いよいよ主君の敵討ちとして吉良義央を暗殺する計画を実行に移します。

 別に赤穂藩の人たち全員が計画に乗ったわけではなく、むしろ一部であり、さらに次第に計画から離れるものも出ましたが、最終的に大石ら47名が1702年12月15日未明、吉良邸に討ち入りを行い吉良義央を殺害。その首を泉岳寺の長矩の墓前に捧げ目的を達成しました。


 現在の墨田区両国三丁目にあった吉良家の屋敷跡は、その一部が本所松坂公園として整備。当時は江戸のはずれといった雰囲気で、その代わり広々とした屋敷だったようですが、人気が少なく討ち入りには絶好の場所となってしまいました。元々は吉良上野介が持っていた土地ではなく、松ノ廊下での事件後に幕府が「引っ越せ!」と江戸中心部の呉服橋から退去させたことに伴い、移住したもの。
 既に幕府でも「吉良上野介を暗殺するなら、江戸の外でやってね」と、赤穂浪士たちにメッセージを送っていたのでは?という疑惑も・・・。吉良上野介も薄々感じていたのか、妻の富子を実家の上杉家に返し、自らは隠居しました。そして、自らも妻の実家で、息子が養子になって当主になっていた上杉家の領地、米沢に行こうとした矢先・・・の暗殺だったようです。
 さて、この行為をどう評価するべきか幕府内でも論争となりましたが、討ち入りに参加した46名を切腹とし、さらに「何故か」吉良家の領地を召し上げ吉良家は断絶、これにて一件落着・・・としました。



大石内蔵助銅像
 泉岳寺(東京都港区高輪2丁目)は浅野内匠頭が切腹後に葬られた寺院。大石ら赤穂浪士たちも切腹後に一緒に葬られました。

浅野内匠頭の墓(泉岳寺)


首洗いの井戸
 泉岳寺に残る、討ち取った吉良上野介の首を洗ったと伝えられる井戸。この後、主君である浅野内匠頭の墓前に敵討ちを報告したといわれています。

赤穂浪士の墓
 切腹が決定した後、果たして赤穂浪士たちはどう思ったことでしょうか。「本望である」と思ったか、「まさか!」と驚いたか。主君と共に泉岳寺で眠っています。なお、奥の屋根がついた墓が大石内蔵助のものです。

 庶民は何と忠義に厚い赤穂浪士!として、現代に至るまで拍手喝さい。さらに江戸時代から現在まで、古くは人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」(1748年初演)に始まり、正月時代劇やNHK大河ドラマに至るまで、着色を加えて何度もドラマ化されています。

 しかし非常に謎の多い事件で、まず討ち入りに参加したのがその大半が給料の少なかった家臣たち。家老の大石良雄が1500石、他2名が300石なのがせいぜいでした。要するに、再就職できた人や当面は生活に困らない人たちは参加しなかったわけで、おそらく大石良雄は下級武士の再就職デモンストレーションを行ったのでは?と思います。

 さらに、討ち入りに参加したのが47人なのに切腹が46人。この1名の差は、実は浅野家の直接の家臣(直臣)ではなく、同志の吉田忠左衛門の足軽だった寺坂吉右衛門は幕府に討ち入りに参加した人間として、届けられていません。何らかの連絡役として残したと思われる一方で、当時の武士の感情とすれば、「あいつは直臣ではなく、陪臣であり我ら46人と格が違う」と差別された可能性も強い。

 吉良上野介の実像も良く解らない面があります。
 1686(貞享3)年に、領地の三河国幡豆郡吉良荘(現在の愛知県吉良町)造らせた黄金堤などの治水事業や新田開発は地元で高く評価され、名君であるとされています。もっとも、本人がどこまでかかわったかどうかは不明。色々な人にイジメを行っていたという逸話もあるようで・・・。

 浅野内匠頭についても、ずっと1人の妻だけを愛していたという話もあれば、とにかく女好きで政治を省みず、全てを大石良雄に任せっきり、大石も忠告しなかった不忠の臣であるという正反対の話しもあり良く解らない・・・上に、こんな大事件が起こって初めて注目されたため、事件前の彼らの記録については、あまり残っていないようで、その実態は良く解っていません。

 さて、徳川綱吉は1709年に死去。結局、後継者には恵まれずに甥の徳川家宣が第6代将軍になります。
 良くも悪くも見るべき出来事が非常に多かった徳川綱吉の時代。他にも越後国高田藩(現在の新潟県上越市)で起こった越後騒動と言う御家騒動に対する裁決など、色々と取り上げるべきことも多いのですが、とりあえずはこのぐらいにして、次回は寛永文化と、元禄文化についてみていきます。

参考文献
ビジュアル版日本の歴史を見る7 天下泰平と江戸の賑わい (小和田哲男監修/世界文化社)
徳川十五代 知れば知るほど (大石慎三郎監修/実業之日本社)
合戦の日本史 (安田元久監修/主婦と生活社)
ビジュワルワイド図説日本史 (東京書籍)
日本史小事典 (山川出版社)
殿様の通信簿 (磯田道史著 朝日新聞社)
人物叢書 徳川綱吉 (塚本学著 吉川弘文館)
東京都の歴史散歩(中) 山手 (山川出版社)
エンカルタ百科事典2007 (マイクロソフト)
詳説日本史(山川出版社)
マンガ日本の歴史32 忠臣蔵と生類憐み (石ノ森章太郎画/中央公論社)

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