第49回 短命に終わった徳川家宣、家継時代

○今回の年表

1707年 (イギリス)イングランドがスコットランドを併合し、大ブリテン王国が建国。
1708年 イタリア人宣教師のシドッチ、屋久島に漂着
  貝原益軒が大和本草を著す。
1709年 徳川綱吉が死去し、徳川家宣が第6代将軍となる。
  新井白石、シドッチを尋問する。
1713年 徳川家継が第7代将軍となる。
  (北アメリカ)イギリスVSスペインのアン女王戦争の講和条約として、ユトレヒト条約締結。
1714年 絵島事件が起こる。
  慶長金銀の品質に戻した正徳金銀を発行
1716年 徳川吉宗が第8代将軍となる。
  (中国)清で康煕字典が完成。

○引き際は肝心です

 徳川綱吉は結局、いくら動物を保護したところで後継者には恵まれず死去。
 続いて第6代将軍に就任したのが、綱吉の弟である徳川綱重・・・の長男、徳川家宣(とくがわいえのぶ 1662〜1712年)。普通、権力を握っている人間って、トップが替わると追放されて不幸な最期を迎えるものですが、あの柳沢吉保は違う。綱吉の生前に、家宣(当時は徳川綱豊という名前でした)を養子にするよう進め、この縁組を実現。

 そして徳川家宣の将軍になると、あっさりと家督を息子の柳沢吉里に譲って引退しました。こうすれば、徳川家宣とその側近たちにとって、柳沢吉保に感謝こそすれ、わざわざ追い落とす必要が無いわけです。のちに柳沢家は大和郡山藩へ転封されますが、甲府時代の15万石を維持したまま。余談ですが柳沢吉里は学問好きの藩主として知られ、名君と言われることもあります(この他にも柳沢家の藩主は、明治維新に至るまで名君とたたえられる人物を数多く輩出しています)。

 というわけで単純に現在の権力者にしがみつくのではなく、次の権力者を見極め協力し、しかも頃合を見計らって引退して周囲からの警戒心を解く。何事も引き際が肝心ということですね。例えば、徳川家康側近だった本多正純のように、新政権でも発言力を確保しようとすると・・・末路は言わずもがな、になってしまうという2つの対称的な例です。

 さて、徳川家宣は48歳という徳川15代の中で最も高齢で将軍に就任。
 しかし幕府の改革に意欲を燃やし、朱子学者として高名な木下順庵の弟子で、甲府藩主時代から家宣の学問の先生だった新井白石(あらいはくせき 1657〜1725年)と、やはり甲府藩主時代から側近として仕えた間部詮房(まなべあきふさ 1666〜1720年)を信任して政治を行います。まずは生類憐みの令の大半を廃止(捨て子・捨て牛馬の禁令は存続)。また、漢文で書かれた武家諸法度を和文に直し、体系的に整理し直します。

 そして1711(正徳元)年、将軍の代替わりを表敬するためにやってきた第8回目の朝鮮通信使に対しては、応接費用を従来の6割に当たる60万両に削減。大幅なカットですが・・・それでも60万両とは、ものすごい接待費用。朝鮮から将軍に拝謁する使者がやってくるというのは、幕府にとっていかに重要だったか、ということですね。

 また、朝鮮から日本への国書には将軍のことを「日本国大君殿下」と書かれていましたが、これを日本国王と改めさせ、将軍の地位向上を図りました。ただし、これは8代将軍吉宗のころには慣例を重視して、再び従来どおり「大君」にさせています。

 さらに朝幕関係の融和をはかり、1710(宝永7)年に東山天皇の皇子・直仁親王を初代とする、新たな宮家の設立が決定(のちに閑院宮家と名称が決定)。

 従来、伏見宮京極宮(桂宮)有栖川宮の3宮家を継承する場合を除いて、皇子は全て出家することになっていましが、どの宮家にも男子が無く、天皇位を継ぐ者がいないと大変! 実際に困った例も出ていました。そこでもう1つぐらいは宮家があったほうがいいだろうと新井白石は考え、朝廷側との思惑も合致し、幕府として1000石の所領を献上して財政的な支援を行い、新たな宮家の設立に踏み切ったのです。

 その結果、やはり後継者不足に陥ったときに閑院宮家より光格天皇(位1779〜1817年)が即位し、これ以後は光格天皇の子孫が天皇に即位。当然、現在の天皇陛下もこれにつながっており、新井白石の建言が今に生きていることになります。

 このように主に新井白石の儒学思想に基づいた、正徳の治と呼ばれる政治が開始されましたが、家宣は将軍就任から僅か3年で亡くなってしまいました。

○幼い将軍が即位しますが・・・

 そこで次の将軍になったのが、徳川家宣の息子である徳川家継(とくがわいえつぐ 1709年〜1716年)
 クイズで出題されても、なかなかこの名前を即答できる人は少ないでしょう。生没年を見れば解るとおり、数え年で8歳で亡くなってしまいました。間部詮房も新井白石も、幼い将軍であることを良いことに好き放題・・・なんて人物では無かったようですが、彼らにとって見れば逆に将軍の権力が弱すぎて、譜代の大名たちから抵抗に遭い、思うように幕府の改革も行えずに終わる結果になりました。

 特に家宣正妻の天英院と、家継の母・月光院の間で激しい権力闘争が起こり、これに間部詮房らに反対するグループも反・月光院派として、色々と横槍を入れてきます。

 その最大のものが絵島(江島)事件
 月光院の下で絶大な権力を持っていた大奥年寄の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎とのスキャンダルが発覚。 と言っても絵島らが芝居を見た後、生島らと宴会に夢中になって大奥の門限に遅れたという、もちろん褒められた行為ではないものの、要するに単純な遅刻だったわけ。

 ところが「大奥はたるんでいる! 関係者をすべて厳重に処罰せよ!」
 と、これを格好のスキャンダルとした月光院、間部詮房らに反対するグループは、一気に追い落としにかかり、激しい取調べの末、月光院派の女中や、芝居の手配などをした御用商人、さらに歌舞伎役者などを厳しく断罪。流罪はもちろん、中には死罪になる人間も出るなど、なんと約1500名が処罰を受けました。

 そうした中でも、家宣が亡くなる直前に勘定奉行の荻原重秀を追放することに成功した白石は、1714(正徳4)年に正徳金銀を発行し、慶長時代の質の良い貨幣へ順次切り替えていくことにします(ただし、経済政策として効果があったかどうかは評価の分かれるところ)。

 また、海舶互市新例を出して、海外貿易で日本の金銀が決済に使われるばかりで、貨幣が流出することに対し、貿易の制限や国産品の積極的な輸出などで規制をかけます。

○次の後継者は・・・?

 さて、家継は利発だったと言われていますが体は弱く、既に生前から「どこから養子をもらうか」で、家宣正妻の天英院と家継の母・月光院の間で争いが発生しました。まず後継者候補として注目される、直近の血筋では徳川家宣の弟で、松平清武(館林藩主)という人物がいましたが、 一度越智氏として甲府徳川家の家臣になっているという経歴、さらに54歳という年齢にもかかわらず、息子がいないとのことで、これは候補からはずされます。
 ところが、他に近い血筋はいない。ならば、とうとう御三家を活用するしかないですね!
 そこで天英院側は尾張家の徳川継友(1692〜1731年)を後継者に推し、月光院は紀州家の徳川吉宗(1684〜1751年)を推しました。最終的に、幕閣に根回しを行うことに成功し、何より紀州藩の財政再建成功で名高い徳川吉宗に白羽の矢が立てられ、1716年に家継が亡くなると第8代将軍となりました。

 そして、間部詮房や新井白石らはお役御免。

 このうち間部詮房は領地は削減されませんでしたが、江戸の北方を守る要所である高崎から、一気に越後村上にまで転封され、1720年、詮房は失意のうちに病死します。すると間部家はさらに越前鯖江藩(福井県)に移封されるという、何とも可哀想な仕打ちを受ける羽目になりますが、それでも幕末には間部詮勝が老中となり、井伊直弼と共に安政の大獄を行うという、歴史の表舞台に再び立つことになります。まあ、それはまた後の話。

 一方、新井白石の方は幕府を去った後、それまでの体験を元に執筆活動に入り、1725年に亡くなりました。自叙伝「折たく柴の記」は当時の政治史料として大変貴重。また、1708年に屋久島に漂着したイタリア人宣教師のシドッチを、家宣の命で4回にわたって尋問し、ヨーロッパをはじめとする西洋の事情や宗教など、様々な内容を通訳を通じて聞き取り、海外事情を記した「西洋紀聞」、海外の地理を紹介した「采覧異言」を執筆しました。

 ちなみにシドッチは、牢の世話に来ていた夫婦にキリスト教の洗礼を与えていたことが発覚し、そのまま留め置かれ、1714(正徳4)年に獄死しています。

参考文献
ビジュアル版日本の歴史を見る7 天下泰平と江戸の賑わい (小和田哲男監修/世界文化社)
徳川十五代 知れば知るほど (大石慎三郎監修/実業之日本社)
合戦の日本史 (安田元久監修/主婦と生活社)
ビジュワルワイド図説日本史 (東京書籍)
日本史小事典 (山川出版社)
エンカルタ百科事典2007 (マイクロソフト)
詳説日本史(山川出版社)
マンガ日本の歴史33 満ちる社会と新井白石 (石ノ森章太郎画/中央公論社)

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