第51回 江戸と大坂

○ちょっと話は脇道にそれて

 さて、次の時代に進む前に少し時代背景等もお話しましょう。
 この時代の大都市といえば、江戸(18世紀前半の人口は約100万人)、大坂(18世紀前半の人口は約35万)、京都(18世紀前半の人口は約40万人)で、それぞれ政治の中心、商業の中心、宗教の中心という性格を持っていました。もちろん、大雑把に言ってですが。その中でもまずは、江戸と大坂に注目してみたいと思います。

○江戸〜全ての道は日本橋に通ず?〜

 
 江戸を整備したのは、もちろん徳川家康。1590(天正18)年に北条氏が豊臣秀吉によって滅亡させられると、関東8カ国は徳川家康に与えられます。そこで家康が本拠地として白羽の矢を立てたのが、江戸という場所だったのです。早速、城下町の整備を始め、埋め立てなども行っていき、さらに1603(慶長8)年、幕府を開いた家康は諸大名に天下普請を命じます。

 こうして益々土木工事が各所で進められ、今の東京につながる大都市を次第に整備していきます。ちょっとグーグルの地図に色々と書き込んでみましたが、これを元に江戸の施設などを解説していきましょう。

 なんと言っても大名屋敷が数多く設置されたその光景は圧巻だったことでしょう。財力が豊かだった江戸時代初期は、諸大名は豪勢な屋敷を次々と建設。ところが、江戸は火事が多くて屋敷は焼失することが多く、次第に再建費用も出しにくくなり、だんだんと簡素なものになっていきます。

 それから、幕府を開いた翌年に架けられたのが日本橋(上写真/江戸東京博物館にて復元模型)。翌年、東海道や中山道、奥州街道などの諸街道の起点として定められ、日本橋周辺は商業の中心として発展していきます。今は日本橋に買い物に行くのは、それほど一般的ではなくなりましたが、当時はここが繁華街。

 こちらは寛永年間(1624〜29年)の、日本橋北詰付近を再現した模型(江戸東京博物館にて撮影)。カゴを前後に持って運んでいる人形が沢山ありますが、これは魚を運んでいるシーン。実はこの一帯、日本橋川の水運を生かして江戸の中でも一大魚市場として栄えた場所。1923(大正12)年の関東大震災に伴い、築地へ魚市場が移りました。

 それから後で紹介しますが、左手には後に呉服店の「越後屋」(後の三越百貨店)が移転し、今でも三越百貨店や三井本館、三井タワーなどがあります。

 先ほどの模型と、大体同じ方向を見ますと、こんな感じになっています。

 先ほどの写真から体を反対方向に向けて撮影。
 こちらは現在の日本橋。東京オリンピック開催に伴い、日本橋川の上に首都高速を通してしまったため、かつての街道の起点、水運で栄えた場所としての雰囲気は大きく損なわれてしまいました。しかし、現在でも各地に道路で見られる東京まで○kmという案内は、この日本橋が起点になっています。

 また、現在見られる石造りの日本橋は1911(明治44)年に建設された歴史的建造物で国の重要文化財。20代目となる橋だそうで、約100年にわたり人々の生活を支え、このように車も数多く行き交っているのは凄いですね。

 さて、この日本橋周辺を代表する店が、この越後屋(復元模型/江戸東京博物館にて)。現在の三越百貨店であり、有名すぎたがゆえに「越後屋、お主も悪よのう・・・」「いえいえ、お代官様ほどでは」と、すっかり悪徳店舗に仕立て上げられてしまいましたが、もちろんフィクション。

 1673年に、三井高利が江戸本町1丁目、現在の日本銀行のあたりで呉服店「越後屋」として小さな店舗を開設。
 そして1683年に現在も本店がある駿河町(現、中央区日本橋室町1丁目)に移転し、世界で初めて「正札販売」を開始。従来の商売のやり方というのは、値札が無くて店員さんと値段を交渉するのが当たり前。もちろんツケもOKで、店側は年末に集金に苦労し、お客さんも人によって値段が違うので、特に庶民は困ったものですが・・・。

 「現銀掛け値なし」
 というのを越後屋はスローガンに掲げ(現金じゃなくて、現銀というのが当時らしい表現ですね)、越後屋は値段を明示し値引きはしない、しかしお支払いはその場でという、今では当たり前の商売を世界で初めて採用したのでした。

 ところで、この移転時に越後屋は両替商を併設しました。江戸幕府は金・銀・銭の三貨制度を定めました。大坂など西日本では銀貨が、江戸など東日本では金貨で取引が行われるようになり、そうすると手数料を取って、貨幣を両替する商売が始まります。

 この商売、大規模なものと小規模なものの2種類に別れ
 本両替・・・金銀の交換のみならず、公金の出納、為替や貸付など高度な業務を行う。
 銭両替・・・一般的な両替商
 というのがありました。特に本両替は、幕府や各藩の財政を支えるようになり必須の機関となり、また本両替も権力をバックに仕事が出来ますので、互いに無くてはならない存在となりました。ちなみに17世紀後半、幕府は大坂を代表する本両替業者を十人両替に任命し、幕府の御用を担当させました。今は江戸を解説していますが、本両替が最も栄えたのは大坂だったんです。

 後に両替商は、銀行へと発展していきます。

 ちなみに、江戸には幕府の貨幣鋳造機関である金座銀座が設置されました。金座は日本橋に設置され、これが越後屋が両替商を併設したきっかけになったと思いますが、銀座は当初は徳川家康がいた駿府(静岡市)に設置。1612(慶長17)年に、現在の銀座二丁目に移転してきます。

 1800年に銀座も日本橋に移転しますが、地名は引き続き「銀座」を採用。明治になると、大火で焼失したのがきっかけで、レンガ造りの街並みやガス灯などが整備され、文明開化の象徴へ。これにすっかり、見に来た人が感動して、全国に「銀座」地名が広がっていったのでしょうね。

 なお、金座は江戸ほか京都にもあって小判が鋳造されました。 

○江戸〜大岡越前でお馴染み町奉行とは〜

 さて時代劇でもお馴染みの町奉行。前回も少し紹介しましたが、老中の下に配属され、江戸の町奉行は江戸の行政、司法、警察を担当しました。今の感覚でいえば、都知事が政策を実行しながら、犯人を逮捕しそのまんま裁くという、ある意味ですさまじい組織です(笑)。

 江戸町奉行は旗本から選ばれ、定員は2名。1年間ずっと同じ人と組織で仕事をするのではなく、北町奉行所、南町奉行所に分かれて月番交代で仕事を行いました(例外はあります)。北町、南町というのは、単純に設置された事務所が北と南に分かれていただけのことで、特に担当エリアが違うわけではありません。

 ちなみにこっちで紹介しちゃいますが、大坂の町奉行、京都の町奉行も、旗本から2名選ばれ、こっちは東町奉行所、西町奉行所に分かれ、やはり月番交代で仕事をしました。ワークシェアリングですねえ。

 なお、北町奉行所、南町奉行所の場所は何度か引っ越しています。しかし南町奉行所が数寄屋橋、北町奉行所が呉服橋に設置されると、明治維新までそのままになりました。・・・と言っても、どこよそれ?となるでしょうから、地図にも記載しておきましたが、写真で見た方が解りやすいかも、ハイ。

 そうです、現在の有楽町イトシアが南町奉行所でした。1707(宝永4)年に常盤橋門内から、こちらへ移転。前回紹介しました大岡忠相は、1717(享保2)年から1736(元文元)年にここで執務をとっていました。

 有楽町イトシアとJR有楽町駅前の間には、南町奉行所で使用されいた石材を利用したモニュメントがあります。

 それから地下通路には、南町奉行所の穴蔵を立てて展示してあります。ぜひ、この付近を歩かれるときには注目してみてください。ついでに奉行所を復元してくれたらよかったのに・・・(笑)。

○江戸〜上水道の整備〜

 もっと簡単に済ませるはずが、随分と長くなってしまいました。江戸についてはもう少しで終わりますので、あと少しだけ付き合ってください。・・・というのは、現在進行形で書いている自分にも当てはまるわけですが(笑)。

 さて、江戸が凄かったのは上水道をしっかりと整備したこと。上水道という発想は古代ローマからありますが、日本では戦国時代に北条氏康が小田原早川上水を整備したのがスタートと言われています。おそらく、豊臣秀吉の小田原攻めで皆さん、これを見学して「うちの領地でも整備しよう」と考えたのでしょう。徳川家康もその一人で、飲料水の確保に目を向けました。

 何しろ、当時の江戸は城のすぐ近くまでが海岸線。当然、近くを掘っても塩水だったり、そもそも沼地だったり・・・と、とても安心して水を使える状況ではありませんでした。そこで、遠くから水を持ってくる必要があったのです。

 そこで最初に造られたのが小石川上水(詳細は不明だそうです)。徳川家光の時代に大規模な工事が行われて神田上水へと発展し、井之頭(井ノ頭)を水源として、関口村(現在の文京区)に築いた大洗堰でせき上げ、これを水戸藩邸(現在の後楽園周辺)まで開削路で導水。さらに神田川を掛樋(かけひ)で渡して、江戸城はもちろん神田、日本橋、両国、永代のあたりまで上水を引きました。上写真は当時の水道管。木造だったんですね。

 こちらが水源となった井之頭池。もちろん、現在の井の頭恩賜公園にある大きな池のことで、「井之頭」と命名したのは徳川家光だそうです。1898(明治31)年まで重要な水源として利用されました。

 神田川の上を渡すときには、前述のとおり掛樋(かけひ)を利用。このような立派な施設が造られました。
 これが後に、今も駅名でお馴染み「水道橋」という名前につながります。

 もちろん、水源が1つだけでは大都市江戸の水を全てまかなうことは不可能です。他にもいくつか設けられましたが、その中でも1653(承応2)年、江戸幕府が町人の玉川庄右衛門玉川清右衛門の兄弟に工事を請け負わせた玉川上水は、日本の土木史上でも屈指のもの。

 その水源は遠く、多摩川上流の羽村(現在の東京都羽村市)であり、現在の新宿区の四谷大木戸に至る総距離約43kmの上水路。標高差はわずか約92mと、頑張らないと水はスムーズに流れてくれません。大変な難事業でしたが、これをなんと1年で完成させ、江戸の飲料水の確保はもちろん、玉川上水近隣の村々にも生活・灌漑用水として分水され、農業の発展にも貢献しています。ちなみに現在も上流では現役。2003(平成15)年には国の史跡に指定されています。

 こちらは玉川上水羽村陣屋跡。ご覧のとおり、現在も陣屋門が残っているこの施設は、要するに現在の東京都水道局。玉川上水の管理は、その起点である羽村に設置された役所に任されました。


 そしてこちら、現在の羽村堰。近代的なものへ進化して都民の貴重な水資源の1つになっていますが、これも玉川兄弟が頑張った成果を受け継いだものですね。


 今でも玉川上水は広範囲で見られるほか、都心部でもゲームメーカー「スクウェア・エニックス」本社付近(京王新線初台駅付近)には、かつての玉川上水を利用した遊歩道があります。







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