第55回 天保の改革

○今回の年表

1834年 水野忠邦、老中に就任。
1837年 大坂で大塩平八郎の乱が起こる。
  モリソン号事件。漂流民を載せたアメリカ船のモリソン号を浦賀奉行が砲撃し、追い返す。
  (イギリス)ヴィクトリア女王が即位する。
1838年 長州藩の村田清風、藩政改革に着手。
1839年 蛮社の獄。渡辺崋山、高野長英らが処罰される。
1840年 (中国)アヘン戦争が起こり、清がイギリスに敗北する。
1841年 水野忠邦、天保の改革を開始し、奢侈禁止令や株仲間の解散令を出す。
1843年 水野忠邦、人返しの法、上知令などを出すが、失脚する。

○衝撃!大塩平八郎の乱

 1833〜1836(天保4〜7)年は、天保の飢饉と呼ばれるほど農作物が不作の年でした。特に1833年の東北地方の収穫量は例年の約3割と悲惨なもの。餓死者が続出し、農村を捨てるもの、さらには1836年の甲州郡内騒動三河加茂一揆(かもいっき)など、大規模な百姓一揆により農地は荒廃していきました。そんなわけで、都市部に流通する米の量も大幅に減少し、米価の高騰が起こり人々の暮らしを圧迫します。

 そんな状況にもかかわらず、大坂では大坂町奉行は何の手もうたず、市中の豪商は「今がチャンス」と米の買い占めを行い、むしろ米価を上げる始末。そこで、元は大坂東町奉行所与力で、隠居して陽明学者として私塾「洗心洞」(せんしんどう)を開いていた大塩平八郎(1793〜1837年)は、元の自分の職場に行き「何らかの対策を打って欲しい」と申し入れました。

 しかし、この願いは却下。そこで彼は自らが所蔵していた蔵書を売り払い、その売却利益を貧民たちに分け与えます。このときに「もし天満(てんま/大坂の地名)で火の手が上がったら、集まって欲しい」と言い含め、1837(天保8)年に武装蜂起します。そして300人ほどの集団になり、豪商の店や屋敷を中心に、大坂市中の5分の1ほど焼き尽くしたところで、その日の夕方のうちに大坂町奉行によって鎮圧。大塩平八郎は自害しました。これを、大塩平八郎の乱といいます。

 これまでと異なり、農民や町人たちの反乱ではなく、「元」とは言え、身内の人間が主導した反乱であっただけに、幕府や諸藩への衝撃は大きく、さらにこの反乱に触発されて、同じ年に越後の柏崎にて国学者の生田万(いくたよろず 1801〜37年)が、「私は大塩平八郎の弟子である」と称して代官所を襲撃(生田万の乱)や、摂津の能勢(のせ)で山田屋大助の騒動が起きるなど、しばらく大塩平八郎の乱の影響は続きました。

○幕政批判には断固として対抗

 さらに以前にも紹介しましたが、日本の周辺に外国船が多数出没。幕府は1825(文政8)年、これまでの方針を転換して、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)、またの名を「無二念打払令」を出して、沿岸に近づく外国船を二念無く(ためらわず)、打ち払うよう、諸国の大名たちに命じていました。

 随分と強気に出たものですが、なんとバツの悪いことに1837(天保8)年、アメリカの商船モリソン号が、日本から漂流してマカオで保護した日本人の送還と貿易開始の交渉を求めて来航して来たのに対し、浦賀奉行所と薩摩藩は忠実に方針に従い、砲撃して追い返してしまいます。

 翌年にオランダから「実はあの船は漂流者を保護してきたんですけど・・・」と教えられ、「ゲッ!」となりますが後の祭り。しかも知識人の間にも真相が漏れて、尚歯会(しょうしかい)という西洋を研究する勉強会のメンバーであった渡辺崋山(わたなべかざん 1793〜1841年)は慎機論(しんきろん)、高野長英(たかのちょうえい 1804〜50年)は「戊戌夢物語」(ぼじゅつゆめものがたり)を著して幕府の対応を密かに批判します。

 この尚歯会という研究会には、川路聖謨江川太郎左衛門など、後に歴史に名を残すほどの幕府の官僚も参加していたのですが、目付の鳥居耀蔵(とりいようぞう 1796〜1873年)は保守的な人物で、幕府内部にまで、こうした西洋の学問を研究する洋学者たちの動きが気に食わない。実父が大学頭を務めた幕府儒者の林衡(はやしたいら)であることも影響しているのでしょう。

 しかも、老中の水野忠邦が江戸の防備のため、江戸湾の調査を江川と鳥居に命じた際、江川は渡辺崋山に依頼して「外国事情書」という報告書まで書いてもらって詳細なレポートを用意していると知るや、「これは幕府のためにはならん!」と今の目で見れば妙な正義感に燃えて、彼らを告発。

 こうして取調べの結果、渡辺崋山らが密かに幕府を批判していることが確認され、渡辺崋山は故郷である三河の田原で蟄居(ちっきょ)、高野長英は永牢(えいろう)と厳しい処分が下されました。これを、蛮社の獄といいます。

 ちなみに渡辺崋山は翌年に自殺しますが、高野長英は伝馬町牢屋敷(現在の東京メトロ日比谷線小伝馬町駅周辺)に入れられた後、医療の知識と親分肌の性格から牢名主として祭り上げられるほど。さらに火災に乗じて脱獄に成功し、ついには、共にシーボルトの鳴滝塾で学んだ二宮敬作の紹介で宇和島藩主伊達宗城に庇護され、兵法書など蘭学書の翻訳や、さらには砲台の築造まで行っています。
*ただし、「もっと大きな仕事が出来るはずだ」と感じた彼は、酒の量が増えていたそうです。

 もちろん幕府に脱獄が許されるはずも無く、潜伏がバレたようで、薬品で顔を焼いて人相を変え、なんと江戸へ戻って沢三伯の偽名を使って町医者を開業します。しかし、1850(嘉永3)年に潜伏がばれて逮捕され、護送中に絶命しました。

 優れた西洋の知識を会得し、さらには大脱獄劇まで繰り広げた高野長英。故郷の奥州市水沢区では郷土の偉人として尊敬されており、高野長英記念館も建設されています。そして高野長英が亡くなって4年後、アメリカからペリー率いる黒船が来航し、いよいよ激動の幕末が始まるのです。

○あの大国、清が・・・アヘン戦争

 先にペリー来航の話を出してしまいましたが、モリソン号事件から3年後の1840年、中国(清)でアヘン戦争が勃発しました。これは簡単に言うと、イギリスから清へ輸出されていたアヘンという麻薬を、清が取り締まったことを発端とし、イギリスが清に対し戦争を仕掛けたものです。

 そしてイギリスは清の軍隊を打ち破り、その軍艦は首都の北京から目と鼻の先である天津へ迫ります。震え上がった清の政府は、最終的に上海を開港し、外国人の居住を自由とすることや、関税自主権の喪失、治外法権を認めることなど、屈辱的な不平等条約を結ばざるを得ませんでした。

 幕府に対する批判は取り締まったものの、現実に迫り来る諸外国の脅威にどう対応するか、これが幕府にとって最重要課題となりました。そして1841年5月、現在の東京都板橋区の武蔵徳丸ヶ原にて、幕府は西洋式の軍事演習を決行。こうして、当日はオランダ語による合図と大砲の音が鳴り響き、さらに6日後に天保の改革を行うことが宣言されました。意気揚々、といった感じですね〜。

○天保の改革

 この天保の改革の宣言は、1841(天保12)年に大御所として絶大な権力を持っていた徳川家斉が亡くなったことから、将軍の徳川家慶と、老中首座の水野忠邦がようやく思い通りに政治を進める状況が整ったことを意味していました。

 先の享保の改革、寛政の改革と並んで三大改革と後に呼ばれますが・・・、まあ改革と呼ばれるような内容か。個人的には田沼時代の方が見所があるような気がするのですが、簡単に見ておきましょう。


 水野忠邦が藩主を務めた浜松藩(静岡県浜松市)。忠邦は現在の佐賀県にある唐津藩主でしたが、この藩は長崎警固役を務めるしきたりになっていたので、「これでは出世できない」と考えます。そこで、領地の一部を幕府に差し出してまで浜松への転封を実現させます。浜松は家康ゆかりの場所であり、出世に有利な場所でした。事実、その狙い通りに寺社奉行、大坂城代などを次々と歴任し、老中首座へ上り詰めます。

1.倹約令の徹底(奢侈の禁止)
 江戸の武士たちは、年貢を支給され、それを米屋で売却することによって貨幣を得ていました。
 そこで物価の高騰は、ある意味で庶民以上に深刻な問題でした。

 そこで、まずは徳川吉宗の頃より、何かあるとお決まりの倹約令を徹底します。当時、物価が高騰した理由の1つは、贅沢品が流通しているせいだ!と水野忠邦は考えました。というわけで、天保の改革では特に徹底して贅沢品の取り締まりが行われ、町の中に役人の目が光り、高価な料理、食材や菓子、衣類、装飾品の取引を禁止。販売したら処罰が実行されました。

2.株仲間の解散
 田沼時代に公認されたように、それまで幕府は商人たちによる流通組合、株仲間を公認することによって、そこに税金をかけて税収をアップし、安定した流通機構の整備により物価を安定させる役割を期待していました。しかし水野忠邦らは、「彼らは不当に物価を吊り上げている! これが物価高騰のもう1つの原因だ!!」と考え、株仲間の解散へ踏み切りました。

 ところが既に、株仲間とは別の流通も数多く発生しており、必ずしも一部の商人たちが値段を好き勝手に決めるような時代ではありませんでした。この結果、物価の下落にはつながらず、かえって突然「解散しろ!」と言われてしまい、流通システムの混乱を招く結果となりました。

3.芸術、思想の統制
 さらには今では日本の伝統文化として尊重される、歌舞伎や寄席まで、「風俗を乱す!」として弾圧。市川團十郎の江戸追放や、多くの公演が禁止されたり、公演の場所を移転させられたり、さらにその内容も勧善懲悪ものに変えさせられます。また、絵草紙、錦絵、人情本、合巻など出版の統制を実施。人情本作家の為永春水、合巻作家の柳亭種彦らが処罰されました。

 これまでも思想の統制は度々行われ、幕府批判を封じてきましたが、天保の改革では既に蛮社の獄で見たように一層厳しいもので、出版前に幕府へ見本を提出するよう義務付け、全ての出版物を検閲する仕組みがとられました。

4.人返しの法
 寛政の改革でも旧里帰農令が出されましたが、水野忠邦も似たようなことをやります。忠邦の場合、農村などから出てきて、その日暮らしで生計を立てている者は、飢饉が起こると生活保護の必要性があり、財政の悪影響である。しかも、農村から人がいなくなってしまう。だから、江戸から追放してしまえ!というものでした。

 しかし、これはさすがに
「そもそも農村で生活する手段が無いから、江戸で働いているのに、これを追い返してどうするんだ!」
 と反対論が起こり、結局のところは、むしろ江戸へ出稼ぎに来ることの制限などの処置にとどまりました。

5.上知令
 先に見たように、迫り来る外国船への対策は必須。取りあえずは異国船打払令は撤回し、薪や水など必要な物資を与えて、穏便に返す薪水給与令を1842(天保13)年に出しますが、根本的には海防の強化が必須です。ところが、実は江戸時代は、各大名家の領土が江戸や大坂にちょっとずつ入り混じっていました。

 これでは何かをやろうにも、権利関係で手続きが煩雑になります。そこで水野忠邦らは1843(天保14)年、江戸・大坂10里四方内を、幕府の領地=天領に組み入れようとする上知令(あげちれい)を出します。ところが、これが大名家、さらには領民からも猛反対。

 しかも水野忠邦の腹心であった鳥居耀蔵(とりいようぞう)は、「このまま一緒に失脚してなるものか」と、なんと上知令反対派の老中・土井利位に寝返り、色々な機密資料まで渡して水野忠邦の追い落としに一役買ったとか。こうして水野忠邦は窮地に追い込まれ、将軍の徳川家慶の信任を失い、間もなく辞任しました。

 翌年の1844(天保15)年、土井利位の働きに不満を持った徳川家慶は、水野忠邦を再び老中首座に復帰させますが、自分を裏切った鳥居耀蔵を讃岐の丸亀(現、香川県丸亀市)へ軟禁させるなど報復を加えたぐらいで、既にやる気は無く、周りからのパッシングにあって直ぐに再び失脚。

 今度は強制的に隠居まで命じられ、水野家は浜松から山形へ領地を減らされ、移封されました。

 このように天保の改革は、噴出する様々な諸問題に対し、現実に即さない政策で応えようとし、失敗に終わりました。そして、幕府が衰退していく中、更なる激動の時代が待ち受けているのでした。しかし・・・天保の改革って、本当に江戸の三大改革の1つとしてカウントするほどのものでしょうか??

参考文献
近世の三大改革 (山川出版社)
江戸大名 知れば知るほど (大石慎三郎監修/実業之日本社)
ビジュワルワイド図説日本史 (東京書籍)
日本史小事典 (山川出版社)
エンカルタ百科事典2007 (マイクロソフト)
詳説日本史(山川出版社)
新詳日本史(浜島書店)
読める年表日本史(自由国民社)
ジャパンクロニック 日本全史(講談社)
江戸三〇〇藩バカ殿と名君 (八幡和郎著/光文社新書)
結論!日本史 2近現代&テーマ史編 (石川晶康著/学研)
高野長英記念館ホームページ

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