第56回 化政文化

○多種多様な芸術に、様々な思想も登場

 今回は化政文化と総称される、江戸時代後期の文化を見ていくことにしましょう。
 この時代は江戸が本格的に発展し、いよいよ京都など上方と並ぶ経済と文化の一大発信基地となったのが特徴です。そして文化の担い手として町人たちが大きな役割を果たし、活発な経済活動や寺社参詣(さんけい)の流行は多くの人の往来を触発し、人々の交流によって全国で様々な文化を生み出していきます。
 ・・・などと、いかにもそれっぽいことを書いてみる。

○文学

1.洒落本・黄表紙

 江戸の遊里を描いた洒落本(しゃれぼん)・風刺の効いた絵入り小説の黄表紙
 代表は山東京伝(さんとうきょうでん 1716〜1816年)です。彼は元々、浮世絵を描いていましたが、次第に作者を兼ねるようになり、そして作品が認められて作家に転向したという人物です。

 黄表紙としての代表作は、江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)。大金持ちの商人の一人息子、艶二郎(えんじろう)が主人公。ブサイクな男なのですが、自分は格好良いと自惚れていて、吉原の遊女などとの色恋で浮名をながそうと、必死に努力する姿を滑稽に描いています。

 洒落本では仕懸文庫などを執筆。しかし、寛政の改革の影響で「不謹慎な作品である!!」と、手鎖50日の刑を受けることに・・・。

2.滑稽本

 滑稽本とは庶民の暮らしなどを平易な言葉で面白可笑しく描いたもので、読みやすさから人気を博しました。代表的な作家は十返舎一九(じっぺんしゃいっく/1765〜1831年)、それから式亭三馬(しきていさんば 1776〜1822年)。

 十返舎一九の代表作が、東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)。
 主人公である弥次郎兵衛と喜多八、あわせて『弥次喜多』のコンビが江戸から大坂まで、東海道をコミカルに様々な騒動を起こしながら旅をしていくもの。今でも読み継がれており、弥次喜多のパロディーも多数登場しています。


 東海道といえば弥次さん、喜多さんが今でも代名詞的な存在。(静岡県静岡市清水区由比にて撮影)

 式亭三馬の代表作は浮世風呂浮世床。両方とも江戸の庶民の生活を面白く描いたもので、それぞれ風呂、床屋を舞台に人々の世間話が展開していきます。

3.人情本

 庶民生活を描いたもので、代表的な作家は為永春水(ためながしゅんすい 1790〜1843年)。代表作は春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)というラブストーリー。しかし、天保の改革によって「風紀を乱す」ということで為永春水は処罰され、人情本は衰退していきます。


4.読本

 挿絵が少なく文章主体の小説で、歴史や伝説をモチーフにしたフィクションが主体。傾向としては弱きを助け、強くをくじくといった勧善懲悪的なもの、因果応報といった教育的な内容が多く、文章も難しめ。代表的な作家は上田秋成(うえだしゅうせい 1734〜1809年)、滝沢馬琴(たきざわばきん 1767〜1843年)。

 上田秋成の代表作が雨月物語。全五巻、九篇の構成で、崇徳上皇の亡霊や豊臣秀次の怨霊が登場するなど、様々な時代を舞台にした怪異小説です。

 それから滝沢馬琴の代表作が、南総里見八犬伝。なんと28年かけて執筆された106冊の大作!! 実際に、室町時代から戦国時代に存在した安房国(現、千葉県)の大名・里見家を舞台に、共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士が里見家のために結集し、苦難を乗り越え里見家を狙う悪い敵を倒していく・・・という創作ストーリーです。大ベストセラーとなり、明治時代になっても人気の作品でした。我々が横山光輝の三国志を見るような感じでしょうか。


5.俳諧

 松永貞徳によって大成され、松尾芭蕉などが好評を博した俳諧。この時代に活躍したのは京都の与謝蕪村(よさぶそん 1716〜83年)、小林一茶(こばやしいっさ 1763〜1827年)です。

 与謝蕪村は画家としても一流の人物で、こうした視点で詠んだ句の中には、「菜の花や月は東に日は西に」など、自然風景を見事に描写したものがあります。また「蘇鉄図」「夜色楼台図」などを描いたほか、画家の池大雅(いけのたいが 1723〜76年)との合作「十便十宜図」も存在。俳人として、画人として共に高い評価を得ています。

 小林一茶は「痩蛙(やせがへる)まけるな一茶是にあり」「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」など、生き物をモチーフにした俳諧も多く呼んだ人物。俳句俳文集「おらが春」が代表作です。


6.狂歌

 狂歌は字数など形のうえでは短歌と同じですが、為政者や世相を皮肉るジャンル。大田南畝(蜀山人 1749〜1823年)、石川雅望(別名:宿屋飯盛=やどやのめしもり 1753〜1830年)が代表です。


 江戸後期の絵草紙屋(江戸東京博物館にて再現したもの)。今で言う本屋のことで、こうした店が多数登場してきたことも、多彩な文学に庶民が親しむことができるようになった理由の1つです。なお、写真の和泉屋市兵衛の店舗では絵草紙や錦絵(これについては後述)、さらには地図や往来物(単純に言えば教科書のようなもの)も扱っていました。

○思想

 元禄時代の頃より、古典の研究が盛んになり始めますが、この時代になると本格的に「古事記」「日本書紀」「万葉集」などの研究が盛んになり、ここから日本古来の道を追求する国学(こくがく)というジャンルが誕生しました。仏教でさえ外国の思想であり、もっと本質的な日本の姿とは何だ!?というのが、その関心の元。

 万葉集の研究では荷田春満(かだのあずまろ 1669〜1736年)と、その弟子である賀茂真淵(1697〜1869年)。さらに古事記伝という44巻の大作を書き上げたのが本居宣長(もとおりのりなが 1730〜1801年)。

 本居宣長は松坂(現、三重県松阪市)の医師でしたが、賀茂真淵の書を読んだことなどから多忙の傍ら、古典の研究を行います。そして、松坂を訪問した賀茂真淵に1夜だけですが講義を受け、その後の研究に大きな影響を受けたのは有名な話。


 上写真は三重県松阪市の松坂城内に移築されて現存する、本居宣長旧居。12歳から72歳に亡くなるまで本居宣長が住んだ家で、1階で町医者として医療活動を行い、本業の傍ら鈴屋(すずのや)と名づけた写真右上に見える2階の書斎で日本古典の研究に取り組みました。

 彼らに続いて登場したのが平田篤胤(ひらたあつたね 1776〜1843年)。仏教を厳しく批判し、日本古来の純粋な信仰として復古神道を唱えました。

 思想の分野ではこのほか、安藤昌益(?〜1762年)は特筆すべき人物。八戸で医者として活躍した人物ですが、「自然真営道」などを著し、武士が農民から年貢を取り立てる封建体制を厳しく批判。万人が耕作をして生活をする世界を理想としました。

 また、頼山陽(らいさんよう  1780〜1832年)は「日本外史」という源氏・平氏の時代から徳川氏に至るまでの22巻に及ぶ歴史書を著します。軍記物語を参考にしていることもあり、歴史書というより実際には小説に近い感じ。幕末の尊王論にも大きな影響を与え、自らの三男である頼三樹三郎(らいみきさぶろう)は幕末に尊王攘夷運動(天皇家を中心とし、外国を追い払おうというもの)を展開した結果、安政の大獄により斬首されています。


 頼山陽が書いた蘇詩帖(そしじょう)。*国立博物館にて撮影


 こちらは広島市中心部にある頼山陽の旧宅(*ただし原爆で焼失し、戦後に復元)。1800(寛政12)年、21歳の頼山陽が脱藩の罪によって幽閉された場所で、ここで彼は日本外史の執筆に着手しました。

 他にも色々と特筆すべき方々もいますが、とりあえず現段階ではこの程度で。


○絵画

 この時代の絵画は、海外でも好評を博した浮世絵(うきよえ)をはじめ、以前に紹介した平賀源内らの洋風画など様々なジャンルの作品が登場しました。今でもお馴染みの作品が多いですね。


▼浮世絵

 まずは庶民に親しまれた浮世絵からですが、そもそも「浮世絵」って、どういう意味?

 それは浮世絵の成立に関係がありまして、元々は1680(延宝8)年前後に、遊里(遊郭)や芝居町といった当時のエンターテイメントスポット、つまり俗世間とは離れた別世界、すなわち浮世へ取材を行い、遊女や役者などを描いた絵画を浮世絵と呼んだことに始まるからです。そして化政文化と総称される時代、浮世絵は色々と分類できます。



1.美人画

 人物をテーマにした浮世絵で、代表は鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽。
 この中では鈴木春信(?〜1770年)が少し知名度が低いかもしれませんが、彼こそ多色刷りの浮世絵を実現した錦絵の創始者的な存在であり(先ほどの和泉屋市兵衛の店舗にも登場した単語ですね)、ここから様々な美しい色で絵を表現する浮世絵が全盛を迎えます。また、鈴木春信自身は、人物を柔らかくロマンティックな雰囲気に描くのが特徴。

 それから喜多川歌麿(1753〜1806年)は、上半身を大きく描く大首絵(おおくびえ)という手法で女性の表情と姿をより印象的に表現。


2.役者絵

 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)が代表でしょう。
 喜多川歌麿と同様に大首絵の手法を用いましたが、こちらは歌舞伎役者がメイン。もちろん歌舞伎役者ですので独特のメークやポーズをしており、これをデフォルメして描いているために、より一層、独特な雰囲気を見る者に与えてくれ、すごく印象に残ります。ちなみに東洲斎写楽は10ヶ月間で140点ほどの作品を描いただけで、歴史の表舞台から姿を消した謎の絵師です。

 彼らはある意味で浮世絵の言葉どおり、浮世の人々を描いた例が多いわけですが、19世紀になると風景をテーマにした、これまた素晴らしい作品が浮世絵の世界に登場していきます。


3.風景画

 その代表は歌川広重と葛飾北斎。

 歌川広重(1797〜1858年)は、美人画や役者絵も描きましたが、何と言っても風景画の分野で、55枚連作の東海道五十三次はあまりにも有名。東海道の風景を西洋から伝わった遠近法を用いながら、さらに雨や風などもを効果的に使用し、動きのある人物を多数登場。

 何より色づかいも非常に美しく、ゴッホやモネなど西洋の画家を中心に影響を与え、ジャポニスムブームの火付け役となりました。この頃から、日本の文化が海外でも大きく注目されるようになったわけですね。


 歌川広重の東海道五拾三次之内・白須賀
 白須賀宿(しらすかじゅく)は、東海道32番目の宿場町で、現在の静岡県湖西市白須賀にあたります。

 葛飾北斎(1760〜1849年)も言わずと知れた、海外でも著名な浮世絵師。何と言っても富士山をいろいろな場所から描いた富嶽三十六景は世界的に有名な作品です。特に「神奈川沖浪裏」という作品に出てくる大きな波の迫力ある描写はあまりにも素晴らしく、ドビュッシーの交響詩「海」というオーケストラ曲にも影響を与えたとか。


 葛飾北斎の富嶽三十六景・相州江ノ島。もちろん、現在の藤沢市の江ノ島を描いたもので、今では自動車が行き交う大きなコンクリート橋が架かる江ノ島への入り口と、現在の姿を比べるのも面白いですね。


 葛飾北斎の仮名手本忠臣蔵・初段。富嶽三十六景が非常に有名な北斎ですが、70年に及ぶ作画の中で、他にも実に色々なものを描いています。


 扇面散図(せんめんちりず)。葛飾北斎、なんと90歳のときの作品。先ほどの作品とまたガラリと雰囲気が異なるもので、しかも御覧の通り立体的。晩年の葛飾北斎は、このように立体的に浮かび上がるように描いたのが特徴だそうで、常に色々な技術をチャレンジしていた姿勢がうかがえます。しかし90歳にして、まだまだ進化するとは凄い!!
 

▼文人画

 先ほど登場した与謝蕪村、それから池大雅によって大成されたもので、画家を専門としない知識人による作品。


 こちらは池大雅による幽遠山水図(国立博物館にて)。

 代表作家としては2人のほか、蛮社の獄の話でも登場した三河国田原藩の家老、渡辺崋山(わたなべかざん)、岡山の戦国大名の浦上家の末裔で、鴨方藩(現、岡山県浅口市)の武士であった浦上玉堂、御三卿の1つである田安家の家臣、谷文晁(たにぶんちょう 1763〜1840)年、豊後国(大分県)岡藩の儒員であった田能村竹田(たのむらちくでん 1777〜1835年)らが挙げられます。


 特に浦上玉堂とか、田能村竹田とかは、テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」にも名前が良く出ますね。


 浦上玉堂の山中結盧図(さんちゅうけつろず)*国重要文化財、国立博物館にて撮影。

 彼は49歳のときに武士を辞めて、翌年に息子2人と脱藩。諸国を漫遊しながら絵を描いていき、数々の名作を残します。で・・・この作品は48歳、つまり武士をやっているときの数少ない作品の1つだそうです。たしかに、これだけの才能があれば、絵の世界に没頭したいですね。


 田能村竹田の風雨渡舟図。にわかにおきた風雨の中を進む舟を描いた大作です。しかし、このサイズだと何をどう描いたのか解り難いと思いますので・・・。


 一部分を拡大させていただきます。


▼洋風画

 平賀源内と小田野直武、銅版画で有名な司馬江漢については第52回 田沼時代で紹介したとおり。

 ここではもう一人、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん 1748〜1822年)を御紹介。彼は陸奥国須賀川(現、福島県須賀川市)の出身で、画家として才能を発揮したのは40歳を過ぎてから。1794(寛政6)年に松平定信に才能を見出されて、谷文晁に師事。さらに定信の命令で司馬江漢に学ぶなど銅版画の技術も習得します。


 亜欧堂田善の代表作が、浅間山図屏風(国立博物館にて撮影)。西洋画の技法をベースとしながらも、細部の表現より平面構成における装飾効果を追及した作品。じっくり見ていると、リアルなようでリアルでないんだけどリアル・・・といった雰囲気に、私は感じます。素晴らしい作品ですね。
 

○その他

 この時代の建築については、次回にたっぷりとご紹介します。で、そのほか色々。


 こちらは染付五十三次図大皿という、19世紀の伊万里焼(国立博物館にて撮影)。
 江戸後期の伊万里焼は、色々と凝ったデザインが多いのが特徴的だそうで、こちらの大皿は東海道五十三次の宿場の風景を日本橋から京都三条まで順番に描いています。何?こんな写真じゃ良くわからない? 


 というわけで、一部分をアップしてみました。たしかに1枚の皿で東海道を歩くのは面白いですね。


 それからこの時代、人々の間でタバコを楽しむ習慣が広がりました。そうすると凝り好きの日本人、タバコを吸うための煙管(キセル)の形にも色々とこだわります。(国立博物館にて撮影)


 海外から日本を見た例として1855年にヘンドリク・フレイリンクが著した世界地図帳。日本の形もほぼしっかりとしており、かつてのような不可思議な形状ではありません。(国立博物館にて撮影)


 そして、1820年から9年間に渡ってオランダ商館員として日本に滞在した、フィスメルによる「日本国の知識に対する寄与」。滞日中に見聞したことをまとめた書物で、こうした本もヨーロッパの人たちが日本に対する知識を得るきっかけとなりました。

参考文献
ビジュワルワイド図説日本史 (東京書籍)
日本史小事典 (山川出版社)
エンカルタ百科事典2007 (マイクロソフト)
詳説日本史(山川出版社)
新詳日本史(浜島書店)
国立博物館、江戸東京博物館における解説
本居宣長記念館ホームページ
頼山陽史跡資料館ホームページ

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