第57回 江戸時代の住居&商家を見る!

○今も現存する建物が多数

 前回は化政文化について見ていきました。今回は主に江戸時代後期の建築を中心に、個人的なベストセレクションを交えて・・・と思っていたら、色々な形の住居や商家を紹介しているだけで1コーナー出来上がってしまいました。そんなわけで、東北から九州まで、民家から本丸御殿まで見ていきましょう〜。

○多様化する民家

 寺社仏閣と異なり、なかなか江戸時代より前の民家というのは残っていないもの。というのも、江戸時代は従来の粗末な民家から、礎石に建つ堅固なものへ変わった時代。それより少しさかのぼること16世紀に近畿で成立した近世民家は、17世紀以降に全国へ広がっていきます。戦乱で燃えるようなことが無くなり、しっかりとした民家を建てる余裕もできた、ということでしょうか。

 そして江戸時代中期・後期になると、地域によってその特性に応じた色々な形が登場します。



南部の曲がり屋(旧工藤家住宅)  L字型が特徴的な「曲がり屋」は、主屋の前角に馬屋を突出させたもの。岩手県北部(南部藩領)で見られるタイプで、これはこの地方が生業として馬の飼育が盛んであり、そのための広いスペースが必要であったため。だったら広い馬屋を離れた場所に造ったらいいじゃん、と思うかもしれませんが、これは馬屋を豪雪で寒冷な気候から守るための、この地方の人たちの知恵なのです。
 写真の工藤家住宅は18世紀中期の建築で、国の重要文化財。

ハッポウ造り(旧菅原家住宅)  出羽三山の麓にあった、つまり厳しい環境下にあった農家の古民家で、豪雪に備えて周囲を板壁にしたり、屋根の途中にハッポウと呼ぶ曲線の美しい高窓を備えています。このハッポウは、豪雪で1階から入れなくなった場合の出入り口としての役割も果たしていました。

常陸の分棟型民家(旧太田家住宅)  平面上は普通の民家ですが、煮炊きをする竈を置く釜屋(土間)と居住部分に、別々に屋根をかけたもの。まるで2棟の建物が接しているような、この形式を分棟型といいます。この建物は江戸時代中期の建物で、国重要文化財。
 なお、この形式の建物は九州と沖縄によく見られ、当初は南方の特徴と思われていたもの。しかし茨城県や栃木県でも見られることから、どのような影響があったのか気になるところです・・・。

上総の農家  江戸時代の名主クラスの農家の例。長屋門、主屋、土蔵、馬小屋、納屋、木小屋、作業小屋の7棟があり、立派な構えなのが特徴。主屋の形状は今までの例と異なり、標準的な感じ。なお上写真は「千葉県立房総のむら」にて再現されたものです。

八王子千人同心組頭の家  東京都西部、多摩地方の八王子に置かれた徳川家の家臣団、八王子千人同心。決して大きくはありませんが、式台つきの玄関が格式の高さを表しています。

天明家  現在の東京都大田区にあった名主の家。主屋の前には長屋門があるほか、最大の特徴は主屋正面の千鳥破風。さらに枯山水庭園もあり、なんとも豪勢な造りになっています。

合掌造りの家(岩瀬家住宅)  岐阜県北部と富山県南部に分布する合掌造り。急な角度の屋根は豪雪地域ならではの工夫。さらに屋根では養蚕(ようさん)を行っており、屋根裏を何層にも別け、さらに大きな妻面(写真でいうと側面のこと)から採光しました。

○町屋〜都市型住居〜

 これまで見た農村を中心とした民家に対し、いわゆる町屋というのは都市部の住居。その特徴は主屋が道路に面しており、さらに建物が隣接して建っていることにあります。かなり数を減らしてきましたが、現在でも京都を中心に日本各地に残っており、古い町並みとして保存されています。なお、ここでは紹介しませんが明治時代になると町屋の装飾も派手になってきます。しかし、その後は次第に近代的な住宅に取って代わられるようになりました。



日本橋の町並み(復元模型)  江戸時代初期、寛永年間(1624〜1643)年の江戸日本橋の町並み(復元模型/江戸東京博物館)。板葺の町屋もありますが、特に地方において本格的に板葺から瓦葺になっていくのは江戸時代後期になってからのようです。

京都・祇園新橋の町並み  随所に古い町屋が残る京都ですが、その中でも祇園の町並みは江戸時代からの繁華街としての風情を今に伝えています。果たしてどれだけの人が、ここを訪問したことでしょう。

高山の町並み  幕府の天領として栄えた岐阜県高山市の中心部。高山陣屋前に形成された町並みは、今も昔も活気に満ち溢れているのが特徴。

橿原市今井町の町並み(今西家住宅)  奈良県橿原市の今井町は、環濠に囲まれたいったい全てが江戸時代にタイムスリップしたような空間。写真の今西家住宅(国重要文化財)は1650(慶安3)年築。今井町の西出口にある城郭風の壮大な建築で、入母屋造の破風を前後喰違いに見せています。なお、今西家は惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担っていました。

倉敷の町並み  白壁が美しい岡山県倉敷市の町並み。水運を生かした構造になっているのが特徴です。

内子の町並み(大村家住宅)  愛媛県内子町に残る古い町並み。写真中央の大村家住宅(国重要文化財)は、寛政年間(1789〜1801年)に建築されたもので、2階の虫籠窓の形が非常に特徴的です。

二川宿本陣  街道に設置された宿場町。その中心的存在が本陣であり、参勤交代などで大名らが宿泊先として利用しました。そのため、他の建物とは群を抜いて格式が高く、立派な構造であることも多いです。上写真は東海道の宿場町、二川宿本陣(愛知県豊橋市)。

○武家屋敷

 続いては武家屋敷を見ていきましょう。身分の違い、もちろん実収入の違い、さらには場所の違いによって色々な形があります。



旧新発田藩足軽長屋   現在の新潟県新発田市にあった新発田藩。写真の建物は足軽が住んだ長屋、つまり現在でいうアパートみたいなもの。木造茅葺き造の八軒長屋で、1つ1つが狭く、生活は大変そうです。また、全国的には極めて珍しい遺構。

松坂藩御城番屋敷  一方、現在の三重県松阪市の御城番屋敷。旧紀州藩士が松阪城警護のため移り住んだ武家屋敷で、こちらも長屋形式ではありますが瓦葺で広さもそこそこ。

金沢藩足軽屋敷高西家  新発田藩で見たように足軽のように身分が低い者たちは長屋に住むのが一般的でしたが、加賀100万石の前田家の足軽の場合、なんと庭付きの一戸建てが与えられていました。

館林藩の武家屋敷  群馬県館林市の武家屋敷の例。中級武士ともなると、このように主屋の前に立派な長屋門を兼ね備えている例も多くなります。藩によって色々ではありますが・・・。

館林藩の武家屋敷  では長屋門をくぐると立派な屋敷が・・・と思いきや、必ずしもそういうわけではありません。ちょっと裕福な農家といった感じの建物もあるわけです。

片倉家中武家屋敷 旧小関家住宅  先ほどの館林藩と同様の例で、今度は宮城県白石市の白石城下にあった武家屋敷の内部。

細川刑部邸  そして上級武士ともなると、こんな立派な屋敷がある場合も。・・・もちろん、石高の低い藩の上級武士の場合、こんな立派な屋敷があるわけではありませんが、熊本藩細川家の一族の場合は、こんな感じ。建坪300坪(約990平方メートル)で、蔵つきの長屋門をくぐると、このように立派な唐破風(からはふ)の大玄関が現れます。

細川刑部邸
その内部はこの通り。片倉家中武家屋敷との違いを見よ・・・!?

掛川城二の丸御殿
藩主が生活した御殿建築は意外にも現存例が少なく、静岡県掛川市の掛川城二の丸御殿は貴重な例。

掛川城二の丸御殿
仕事場を兼ねており、謁見者も多いことからもちろん広々としており、藩主に会う前に控える場所もあります。

熊本城本丸御殿  そして極めつけは、最近復元された熊本城の本丸御殿。煌びやかな「若松之間」と続く「昭君之間(しょうくんのま)」です。大大名ともなると、襖絵なども素晴らしい・・・!!
 というわけで、江戸時代の建築はこれで全部終了にするはずが、この時代の寺社建築や城郭建築などを紹介できませんでした。いい加減に幕末の時代へ行きたいとは思うのですが、もう1回だけお付き合いください。

参考文献
日本建築史(藤岡勝也・古賀秀策著/昭和堂)
国立博物館、江戸東京博物館における解説
江戸東京たてもの園ホームページ
川崎市立日本民家園ホームページ
各地のガイドマップ・パンフレット等

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