第58回 江戸時代の建築:城と寺社仏閣など

○建物シリーズ第2弾

 個人的な興味もあって、まだ続く建物シリーズ。第2回にして最終回の今回は、これまでに紹介できなかった江戸時代の建築のうち、江戸時代後期を中心に城と寺社仏閣「こんなのがあるんだよ〜」的に、簡単に色々と紹介していきます。最後に庭園についても見ていきます。

○城


松山城大天守(愛媛県)  大天守は1864(安政元)年に再建されたもので、国重要文化財。さらに小天守、南隅櫓、北隅櫓を多門櫓や廊下で連結した連立式天守です。江戸時代初期には権力のシンボルであった各地の天守閣ですが、火災で焼失することが多く、財政難で再建できない例も多いもの。松山の場合は規模は縮小しましたが、随分立派なものを幕末に再建しました。

金沢城石川門(石川県金沢市)  兼六園と対になった位置にある金沢城の石川門。1787(天明7)年に再建されたもので、外側に高麗門、内側に櫓門、そして二重櫓を配置しています。さすがは加賀100万石、江戸時代後期になっても非常に優美で壮大な城門を建築しています。もちろん国重要文化財。

佐賀城鯱の門(佐賀県佐賀市)  佐賀城本丸御殿の正門で1838(天保9)年に造られたもの。金沢城と異なり質実剛健といった感じでしょうか。

○寺社仏閣

 戦国時代に戦乱で荒れ果てた寺や神社も、平和な時代になると様々な大名家の庇護を受けて立派な建物が再建。特に大名家の菩提寺(要するに大名が自分の家の墓を置いた寺)は特に繁栄を極めました。また、地域の人々の中心となった寺や神社も、地元の大工さんを中心に立派な装飾を施したものが建てられています。


円覚寺山門(神奈川県鎌倉市)  鎌倉時代に北条時宗が建立したことに始まる臨済宗円覚寺派の総本山である鎌倉市の円覚寺。円覚寺に入ると、直ぐに見えてくる巨大な門は、1783(天明3)年の建築です。

建長寺法堂  鎌倉時代に北条時頼が建立したことに始まる臨済宗建長寺派の総本山。1814(文化11)年築。法堂は禅宗で最も重要な建物で、仏の教えを説く場所です。

勝興寺本堂(富山県高岡市)  1795(寛政7)年、加賀藩第11代藩主の前田治脩の援助によって完成。彼は若い頃、この勝興寺に預けられていたのですが、還俗して加賀藩主を継いだという経緯があります。
 西本願寺本堂をモデルに設計されたといわれ、約40m四方という大きさは破格。国の重要文化財。

建中寺本堂(愛知県名古屋市)  尾張藩第2代藩主の徳川光友が、父親で初代藩主の徳川義直を弔うため、1651(慶安4)年に建立した浄土宗の寺院。以後、尾張徳川家の菩提寺となりました。写真の本堂は1787(天明7)年の再建。このほか、大半の建物が江戸時代の建立であり必見です。

三嶋大社本殿・弊殿・拝殿(静岡県三島市)  源頼朝が深く帰依した伊豆国の一宮(いちのみや)であり、江戸時代は東海道の三島宿に面したこともあり全国的にその名を知られた三嶋大社。この社殿は1867(慶応3)年に完成したもので、1854(安政元)年の東海大地震後に再建されたもの。流造の本殿と、入母屋造の拝殿を、両流造の幣殿で繋いだ複合社殿の形式です。

出雲大社  島根県随一の観光名所で、非常に古い歴史を持つ出雲大社。本殿は1744(延享元)年築で国宝。それを取り囲む楼門(1667=寛文7年築)、八足門、東回廊、西回廊(以上、1744=延享元年築)、観祭楼(かんさいろう)のいずれも国の重要文化財とすごい光景。

霧島神宮社殿(鹿児島県霧島市)  こちらも古い歴史を持つ神社で、古来より島津家(江戸時代には薩摩藩主)の尊崇を受けた神社。現在の社殿は1715(正徳5)年に島津吉貴の奉納により再建したものです。この極彩色に塗られた姿は、出雲大社とはまたぜんぜん違った雰囲気ですね。

木烏神社千歳座  さて、ここまでは立派な寺社仏閣を見ましたが、こちらは香川県丸亀市の笠島という島にある木烏神社という小さな地元の神社。この中で興味深いのは境内に建てられた千歳座は1862(文久2)年築。当時、幕府によって(娯楽の1つである)芝居小屋は禁止されていたため、神社の納屋・道具入れの名目で建設されました。
 芝居が上演される際には、右側の戸が外され舞台となり、観客は広場に座って見ることになります。

○庭園

 江戸時代はまた、大名が優美な庭園を競い合って造営した時代でした。こちらも特に西日本を中心に日本全国の城下町に数多く残っており、今でも多くの人たちが訪れます。


旧芝離宮恩賜庭園(東京都)  1686(上京)年に老中の大久保忠朝が上屋敷に造った庭園楽寿園が起源。大名たちは自分の領地にはもちろん、江戸にある屋敷にも庭園を構えました。


兼六園(石川県金沢市)  元々、金沢城の外郭の中にあった庭で、1676(延宝4)年、5代加賀藩主前田綱紀が蓮池御亭(れんちおちん)を建て、周辺を作庭したのが始まりです。これは、1759年にこの地を襲った金沢大火により消失してしまったものの、11代藩主前田治脩(はるなが)が再建。
 「兼六園」という名前が付いたのは12代藩主前田斉広(なりなが)の時。奥州白河藩主・松平定信、またの名を白河楽翁に依頼して、中国・宋の時代の詩人、李格非の作である「洛陽名園記」の文中にあった6つの景勝を兼備するという意味から、この名前を名付けてもらいました。


後楽園(岡山県岡山市)  岡山藩主池田綱政が家臣の津田永忠に命じ、1687(貞享4)年より着工させ、1700(元禄13)年に一応の完成をみた庭園。岡山城本丸の北側に川を隔てて立地しています。

縮景園(広島県広島市)  広島藩主浅野長晟(ながあきら)が、1620(元和6)年から別邸の庭園として築成させたもの。作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇と言われています。 園の名称の由来は、幾多の景勝を聚め縮めて表現したことによりますが、特に中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられています。


天赦園(てんしゃえん/愛媛県宇和島市)  1672(寛文12)年に宇和島藩2代藩主の伊達宗利が海を埋め立て造成した浜御殿の南東部分を、7代藩主の伊達宗紀(むねただ)が隠居の場所として大改造を行って、1866(慶応2)年に竣工したもの。庭園の名前は、あの伊達政宗が隠居した後に家臣たちに示した
「馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し 残躯は天の赦す所 楽しまずして是を如何せん」
 という詩からとったものです。

 というわけで、江戸時代の様々な建築を2回にわたってご紹介しました。すっかり寄り道(?)をしてしまいましたが、いよいよ次回から幕末の激動期を見ていきます。

参考文献
日本建築史(藤岡勝也・古賀秀策著/昭和堂)
各地のガイドマップ・パンフレット等

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