第62回 日本大変革!明治新政府の始動

○今回の年表

1868年 (4月)江戸城が開城し、徳川慶喜は水戸に退去。
  (7月)江戸を東京と改称する。
  (9月)明治と改元、一世一元の制。
  (9月)会津藩が降伏する。
1869年 (3月)東京奠都(せんと)。実質的に首都が東京となる。
  (5月)五稜郭の戦い。榎本武揚らが降伏し、戊辰戦争が終結。
  (6月)版籍奉還を許し、藩主を知藩事に任命する。
  (7月)官制改革、二官六省制へ移行。また、蝦夷地へ開拓使を設置する。
  (8月)蝦夷地を北海道と改称。
  (12月)長州藩脱隊騒動
  アメリカ横断鉄道開通、スエズ運河開通。
1870年 (7月)普仏戦争(〜71年まで)。フランスとプロイセン王国(後のドイツ帝国)が戦う。
(9月)これによりナポレオン3世が敗北し捕虜となり、第二帝政が崩壊。
  (9月)平民の苗字使用を許可する。
  (10月)岩崎弥太郎、九十九商会(三菱商会の前身)を設立。
1871年 (1月)前島密、郵便制度を創始。
1871年 (1月)プロイセン王国がフランスに進撃。ヴェルサイユ宮殿にて、ドイツ帝国樹立。
  (4月)薩摩・長州・土佐より御親兵を徴収。
  (4月)戸籍法(壬申戸籍)を制定。
  (5月)新貨条例が出され、金本位制と円銭厘の10進法へ。
  (7月)廃藩置県が行われ、開拓使と3府302県が設置。以後、統合が進む。
  (7月)太政官制が改められ、正院・左院・右院を置く。
  (7月)最初の対等条約として日清修好条規が結ばれる。
  (8月)散髪と廃刀を許可。華族、士族、平民相互の結婚を許可。さらに「えた・非人」名称廃止。
  (10月)岩倉遣外使節団が欧米へ出発。

○アレも変わる、コレも変わる

 とにかく色々なことが起こった明治初期。
 テーマ別に見ていく方がいいのか、実際に行われた順番に見ていく方がいいのか迷いましたが、当時の人たちの勢いを感じてもらうために、実際に政策が実行に移された順番に見ていくことにしましょう。その前に、まずはちょっとこの時代の背景を書いておきます。


○急速に進む西洋化と社会の変化

 幕末はあれほど「尊皇攘夷!」という嵐が吹き荒れ、そして江戸幕府滅亡という流れになりましたが、いざ新政府が発足してみると、まさか諸外国に戦争を挑むなんて自殺行為が出来ないことは明白。それ以前に、ほかのアジア諸国のように西洋の植民地にならないよう、国のあり方を抜本的に変え、一気に近代化を進めることが至上命題となります。

 その手段が西洋化、つまり西洋の制度や技術、文化を受容していくことでした。

 もちろん反発はありましたが、西洋化を正当するために、例えば「300年前には無かった慣習」とか、「神武天皇の頃には無かった風習」「中国の真似を止めるだけだ」、さらには「そもそも日本は色々な文化を取り入れてきた」と居直ってしまう。

 これにより、お公家さんたちは外国人から評判の悪かった、お歯黒を止めたり、人々は髷(まげ)を結うのを止めて散髪したり、洋服を着たり、そして忘れてはいけないのが肉食を中心とした、西洋料理が地方も含めて一気に普及と、生活様式が一変していきます。

 また、歴代の天皇陛下は京都の御所の中にいて、一般の人々とは隔絶されていましたが、西洋風の君主を目指し、各地を巡幸して存在感をPR。皇后も積極的に行事に顔を出すようになっていきます。そんなわけで、全国各地に明治天皇が滞在したことを記念した碑が立っているわけですね。もっとも、全国各地で天皇陛下に平伏・・・と思いきや、どちらかと言えば「珍しいものが見られるらしい」という雰囲気が大勢を占めていたようです。

 さらに1871(明治4)年7月に廃藩置県が行われ、なんと藩が消えます。明治維新は武士が起こした革命であったにもかかわらず、武士が消えてしまったのです。西洋化と廃藩置県による国家体制の大きな変革。大久保利通を中心とする明治政府は、一気に江戸時代の体制を変えてしまうのです。

 そして街並みも変容します。外国人居留地では西洋風の建築が次々と誕生しますが、1872(明治5)年の火事をきっかけに、銀座にはロンドン、パリを真似たレンガ街の街並みが誕生し(上模型/江戸東京博物館にて)、まさに文明開化の象徴として人々を驚かせます。そして、今度は地方都市でも西洋風の建築や、西洋と日本の建築をミックスした擬洋風建築が誕生。

 その一方で、江戸時代を通じて存在した城は次々と壊され、堀も埋め立てられ、敷地は一等地を県庁など役所が使い。その他は民間に払い下げられて、商業施設や民家などの敷地に転用。姫路城のように、あれだけの規模が残ったのは奇跡に近く、価値を見出して保存運動を展開しないと、中には新潟県長岡市の長岡城のように、跡形も残らない例もあります。

 こちらは福井城。ここは凄い状態で、なんと城の中心である本丸に福井県庁、県会議事堂、県警察本部が建ち並んでいます。通常は本丸は避けて、二の丸や三の丸など、周辺部に公共施設を置くものですが・・・。

 それから長らく日本では仏教と神道が融合し、寺の中に神社、神社の中に寺があるような例も珍しくありませんでしたが、神道国教化を目指した明治政府は神仏分離令を出して、はっきりと分離することにしました。これが一部の過激な人々に火をつけてしまったようで、全国各地で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が発生し、仏教への迫害が実施。各地の寺院や仏具の破壊が行なわてしまいます。

 特に被害が酷かったのが奈良市の興福寺。有名な寺院ですが、敷地の大半が奈良公園とされてしまい、樹木が植えられ、興福寺の塀は撤去され、さらに無住の寺となってしまい、一時は廃寺同然に。1881(明治14)年に再興が許され、破却や売却を免れた貴重な建造物が今に残りますが、奈良公園の中にポツンとあるような状況は、現在も変わらず。

 さて、それでは順を追って詳しく政策を見ていきましょう。
 ちなみに1872年までは太陰暦、1873年からは太陽暦としています。

○版籍奉還〜1869(明治2)年1月・6月〜

 明治政府が内政面において本格始動を開始したのは、明治2年からでしょう。1月の段階では東北は新政府の支配下に置くも、箱館にて榎本武揚らが政権を樹立していました。

 そんな中で、大久保利通や木戸孝允の根回しによって、幕府打倒の原動力となった薩摩、長州、土佐、肥前の薩長土肥の4藩主が朝廷に対して、版籍奉還を願います。すなわち版図(領地)と、戸籍(人民)を朝廷に返上するというもの。この動きに、「乗り遅れるな!」と各地の藩主も次々と追随しました。

 そして5月に箱館での戦争が終結したため、6月に朝廷はこれを勅許します。この時点では旧幕府領のうち重要な場所に、それ以外にという明治政府の直轄地となっていたものの、それ以外は実質的には大きな変化はなく、藩主は新たに「知藩事」とされ、家禄を支給するという形式になりました。

 一応は藩の財政と、藩主の個人的な収入の分離が図られますが、この段階では劇的な国家の変化には至りません。

○二官六省制〜1869(明治2)年7月〜

 続いて政府の仕組みについても7月8日に、中央に神祇官(じんぎかん/祭祀や神道の宣教を管轄)と太政官(だじょうかん/イメージとしては国内の行政全般を管轄)の2官を置き、太政官の下に
1.民部省・・・国内行政を管轄。8月11日に大蔵省と合併。
2.大蔵省・・・政府の財務を管轄。
3.刑部省・・・裁判や刑罰の執行、欧米の法令の翻訳などを管轄。
4.宮内省・・・宮廷に関する事項を管轄。
5.兵部省・・・防衛と治安維持を管轄。
6.外務省・・・外交を管轄。
 の6つを置く、二官六省体制とされました。明治政府の組織は、実力者達の駆け引き、試行錯誤もあって、この後もめまぐるしく変化します。


○開拓使と北海道の誕生〜1869(明治2)年7月など〜

 蝦夷地を占領した政府は、7月の改革で開拓使という官庁を置き、8月に蝦夷地を北海道と改めます。本格稼動を開始したのは1871(明治4)年からなので、これについてはまた後ほど紹介しますが、まずは政府が本格的に北海道の開発に取り組む姿勢を出したことに注目してください。

○東京〜横浜電信開通〜1869(明治2)年12月〜

 近代国家として、迅速な情報伝達の実現は至上命題でした。既に欧米では電信が実用化されており、1854年にはペリーによって日本にも技術が披露されています。明治政府はイギリス人のギルバートを雇い入れて、東京と外国人居留地があった横浜との間での電信を実用化を契機として、全国に電信網を展開していきます。

 ちなみに、電信と郵送を勘違いしたのか、弁当箱を結びつける人もいたとか。
 あくまで電気信号によって、相手に文字を送るシステムですので、配達はしてくれませんよ〜。

○日刊の新聞の登場〜1869(明治2)年12月〜

 1870(明治3)年12月8日、日本初の、日本語による日刊新聞として横浜毎日新聞が創刊されます(現在の毎日新聞とは全く関係ありません)。もちろん、江戸時代にも「かわら版」が存在し、新聞のような役割を果たしてはいましたが、現在我々が読むような日刊紙としては、この横浜毎日新聞が初。

 この後、各地で新聞社が設立されていき、様々な情報を読者に提供していきます。

○長州藩脱隊騒動〜1869(明治2)年12月〜翌年2月〜

 明治維新の原動力となった長州藩。特に高杉晋作が組織した奇兵隊や、遊撃隊、御楯隊など身分にとらわれずに構成された長州藩の新しい軍隊は強い力を発揮しました。ところが、戦争が終結すると、5000人を超えていた兵力を維持することは長州藩(山口藩)には不可能でした。

 そこで1500人を残して他は解雇というリストラ案を出したものですから、当然「ふざけんな!」と約2000人による反乱が起き、山口藩庁が包囲される事態に。これに、木戸孝允が山口へ帰還して大弾圧を開始。反乱軍は統一した指導者がいないため、追い詰められて敗北。133名が死刑にされ、鎮圧されました。


山口藩庁門  現在も山口に残る山口藩の藩庁門。長州藩は本拠地を、幕末に交通の便の不便な萩から、藩の中心に位置し、かつて戦国大名の大内氏の本拠地であった山口に本拠を移転(第一時長州征伐後は、一時的に萩に戻る)。そのため、この時代は長州藩という名称とは別に、山口藩とも呼ばれました。

○平民苗字許可令〜1870(明治3)年9月〜

 1870年9月、平民が名字(苗字)を名乗ることが「公式に」許可され、これによって全国民が名字を名乗ることができるようになりました。公式に、と書いたのは江戸時代でも非公式に名乗っているケースは多かったから。特に農民であっても、先祖が武家の場合はなおさら名字を持っている例があります。

○郵便制度の誕生〜1871(明治4)3月〜

 現在に近い郵便物の集配制度は17世紀にイギリスで始まり、さらに1840年にローランド・ヒルの案により、
1.料金は距離制ではなく重量による累加とする、
2.重さ半オンスで1ペニーの全国均一料金とする
3.料金は切手を使用し、前払いとする。
という、今に見られる郵便制度が整うと、各国で制度の導入が相次ぎました。

 一方の日本では、江戸時代には飛脚が郵便物を運んでいましたが、「飛脚負け」という言葉があるほど、料金が高いのが悩みの種で、政府でも東京〜京都の1ヶ月の郵便料金が1500両もかかっていたとか。そこで、前島密(まえじまひそか 1835〜1919年)はイギリス留学を経て、官営、つまり国で郵便事業をやった方が安くて便利になる、と考えます。

 こうして郵便制度を日本も導入することになり、まず「郵便」という言葉自体を前島密が選びます(一部の学者が使っていた言葉で、一般には馴染みが無い言葉でした)。そして1871(明治4)年3月から東京〜大阪間で郵便事業開始。それから次々と全国へ展開していきます。飛脚との違いは

1.国営であること *1873年からは国が独占
2.料金は切手を使用し、前払いとする
3.各地に郵便ポストを設置し、ここに手紙を出す
4.宛所(あてどころ)配達をおこなうこと、
5.料金は全国均一とする *1873年から

 というもの。当然のことながら飛脚は仕事を失うことになりますが、郵便局員へ転じたり、前島密の説得により陸運元会社という組織に再編され、小荷物輸送や現金輸送を担当。現在の日本通運へと姿を変えています。


郵便制度開始当時の郵便ポスト(複製)  *広島県竹原市にて

郵便制度開始当時の郵便局の一例   広島県竹原市に残る初代郵便局。地方において、郵便局(郵便取扱所)には地方の有力者などが任命され、任命された者は、局舎を無償提供し、職員も雇っていました。これにより、少ない財政負担で政府は郵便制度を全国に展開していくのでした。なお、こうした郵便局は後に特定郵便局とされ、制度としては郵政民営化まで存在しました。

○新貨条例と貨幣制度の確立〜1871(明治4)5月〜

 当初の日本経済は江戸時代の貨幣制度や、各藩が独自に発行していた藩札と、それを受け継いだ府県札、さらには太政官札、おまけに貨幣の偽造が容易だったため偽金まで色々な貨幣、紙幣が流通しており、特に諸外国から見ると信用のない通貨制度でした。そこで大隈重信(おおくましげのぶ 1838〜1922年)の主導によって、この改善が進められます。

 まずは1871(明治4)年2月、大阪に造られた造幣局によって、偽造が難しい、新たな貨幣の鋳造が開始されます。

 そして5月、新貨条例の制定により
1.貨幣の基準単位を「両」から「圓(円)」に切り替え、10進法とする。
2.円の下に、「銭」と「厘」を導入。100銭=1円、10厘=1銭。
3.金本位制とし、本位貨幣を金貨とし、1円金貨を原貨とする。
4.旧貨幣の1両を、新貨幣の1円とする。
 ことが決定され、新しい通貨制度がスタートしました。なお、紙幣については国立銀行のところで御紹介します。

○御親兵の組織と廃藩置県〜1871(明治4)7月〜

 版籍奉還では国家の仕組みは大きく変わりませんでした。そして、このままでは近代国家としては不十分である、というのが国政を主導していた岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの考えでした。ですが、藩を無くすとなると大反乱が起きる可能性もあります。そこで3人は、幕府崩壊後は鹿児島に引きこもっていた、西郷隆盛を呼び出すことにします。

 そして西郷隆盛を中心として、薩摩、長州、土佐より天皇直属の兵士を集め、御親兵として組織。実はこれによって、ようやく政府は独自の兵力を持つことになります。そして木戸孝允と西郷隆盛などは、不測の事態に備えた打ち合わせが何度も行ったそうで、大久保利通の日記の中には
「藩を存続させたまま近代化を進めても、いずれ政治が瓦解する。同じ瓦解をするなら、廃藩という大英断に出て潰れる方がまだよいではないか」
 という議論が掲載されているそうです。

 同年7月、知藩事たちを東京に集めて廃藩置県(はいはんちけん)を宣言。長らく続いてきた藩は廃止され、知藩事は東京移住が決定。全国は府、及び県で組織され、そのトップとして明治政府から任命された府知事県令が地方を統治することになります。

 版籍奉還と異なり根回しは一切無し。軍事力を背景に上から行ったクーデターでした。全国で反乱が起きないか、政府では戦々恐々としていたのですが、反乱の兆しは一切無し。薩摩藩主の父である島津久光が「大久保利通に騙された!」と激怒し、一日中花火を上げていたそうですが、意外にも反対はその程度で、僅か1日で地方統治の仕組みが大転換しました。

 実際のところ、どの藩も財政が厳しく、旧藩主も領土に固執するつもりはなかった、ということでしょう。面倒な藩の経営から解放され、華族として東京で面倒を見てくれる。藩士も士族という特権身分で、家禄を保障してくれるので、当面の生活には困らない。たしかに、わざわざ政府にケンカを売って血を流す必要は無さそうです。

 むしろ農民側のほうが「新政府が発足しても、暮らしぶりは悪化するだけで何も変わらないじゃないか!」と次々と一揆を起こし、この鎮圧に新政府は非常に手間取ります。

 ともあれ、廃藩置県により全国は3府302県へ。さらに11月には3府72県に改められ、統合が進められます。ちなみに県の幹部クラスは中央から派遣されてきて、その出身は旧江戸幕府の出身者を含む全国各地から集められた人材でしたが、一般の職員は地元の藩からそのまま登用された例が多かったようです。

 また、これによって藩が独自に抱えていた軍事力は明治政府に一本化。いよいよ近代的な軍隊の整備に着手します。さらに、江戸の大名屋敷も次々と不要になり、多くが陸軍の敷地や公共施設等の用地に転用されていきます。


○三院八省制〜1871(明治4)7月〜

 廃藩置県を無事に終了したことから、今度は太政官を正院、左院、右院の3つに分割し、その下にを配置した三院八省制に政府組織を変更し、教育を所管する文部省の新設も行われます。

 正院・・・天皇も臨席する政府最高機関で、太政大臣、左大臣、右大臣、参議で構成
 右院・・・各省の高官が行政実務を協議
 左院・・・立法を担当。のち元老院へ改組

 このときのメンバーを見ておきましょう。
1.正院
 太政大臣・・・三条実美
 参議・・・木戸孝允(長州)、西郷隆盛(薩摩)、板垣退助(土佐)、大隈重信(肥前)
2.左院
 議長・・・欠員   副議長・・・江藤新平(肥前)
3.右院
 神祇卿・・・欠員   神祇大輔・・福羽美静(津和野藩)  *津和野藩は現在の島根県津和野町。
 外務卿・・・岩倉具視(公家)   外務大輔・・・寺島宗徳(薩摩)
 大蔵卿・・・大久保利通(薩摩)  大蔵大輔・・・井上馨(長州)
 兵部卿・・・欠員   兵部大輔・・・山懸有朋(長州)
 文部卿・・・大木喬任(たかとう/肥前)  文部大輔・・・欠員
 工部卿・・・欠員   工部大輔・・・後藤象二郎(土佐)
 司法卿・・・欠員   司法大輔・・・佐々木高行(土佐)
 宮内卿・・・欠員   宮内大輔・・・万里小路博房(公家)
 開拓長官・・・東久世通禧   開拓次官・・・黒田清隆(薩摩)

 ご覧いただければ解りますが、大半を薩摩(現在の鹿児島県)、長州(現在の山口県)、土佐(現在の高知県)、肥前(現在の佐賀県)の出身者が占めており、藩閥政府(はんばつせいふ)ともいわれる基礎になりました。これも次第に、土佐と肥前が脱落していき、薩長出身者が政府の中枢を占めるようになります。

 政府組織については、この後も、翌月に神祇官を神祇省へ格下げするなど、細かく組織は次々と変化していき、色々と試行錯誤の跡が偲ばれます。しかし、受験等で覚える人は大変ですね、これは。一応、他も書いておきますと、翌年には神祇省が教部省となり、兵部省が陸軍省、海軍省に分割。1873年には内務省、1881年には農商務省の新設も行われています。


○日清修好条規の調印〜1871(明治4)7月

 不平等条約に苦しむ日本として、初の対等な条約を結んだのが日清修好条規。日本側の全権は、旧宇和島藩主(愛媛県)の伊達宗城(だてむねなり 1818〜92年)、清側の全権は李鴻章(りこうしょう/ リ・ホンチャン 1823〜1901年)です。対等な条約ではありましたが、お互いに欧米との不平等条約の内容を認め合うような形でして・・・。

 1.相互に開港を行う
 2.領事裁判権をお互いに認める
 3.協定関税をお互いに認める

 などが具体的な内容。日本側としては不満もあったらしく、批准書が交換されたのは1873年になってからです。ちなみに、通商条約じゃなく、修好条規としたのは、通商よりも修好を重んじるという、東洋的な発想から来たものだそうです。 

○身分制度の変容〜1871(明治4)8月

  8月、散髪廃刀の自由が許可され(散髪・脱刀令)、ちょんまげ姿をやめ、さらに刀を差さないことが自由化されました。また、華族、士族、平民相互の結婚が許可され、身分を越えた結婚も可能になります。

 また解放令が出され、それまで「えた」や「非人」として差別されていた身分を廃止し、平民と同じとすることにします。しかし、そう宣言しただけで、これといった対策は行われず、生活水準が低いまま、課税等もすべて平民同様、彼らが担当していた職業は自由化、という結果となり、人によってはますます困窮していきます。

 人々の意識面もそうそう変化するわけでもなく、根強い差別意識は長らく残るのでした。いわゆる部落差別ですね。最近では、これだけ人間が全国で移動している世の中、さすがにだいぶ解決したと思うんですけどね(・・・と書くと、そっち系の団体から反発くらいそうですけど)。

 さて、まだまだ書くべきこと満載の明治時代。次回は欧米に派遣された岩倉使節団と留守政府について見ていきます。

参考文献
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社)
マイクロソフト エンカルタ百科事典
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
マンガ日本の歴史43 (石ノ森章太郎画 中公文庫)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店) CG日本史シリーズ22 明治と文明開化(双葉社)
幕末・維新 知れば知るほど(勝部真長 監修 実業之日本社)
幕末百人オールキャスト(実業之日本社)

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