第63回 岩倉使節団の派遣と留守政府

○今回の年表

1871年 (10月)岩倉遣外使節団が欧米へ出発。
1872年 (2月)陸軍省、海軍省を設置。
  (5月)田畑永代売買が解禁される。
  (9月)琉球王国を琉球藩とする。
  (9月)横浜〜新橋間で鉄道が開業。横浜にガス灯が出来る。
  (10月)人身売買の禁止。
  (10月)官営富岡製糸場が開業する。
  (11月)徴兵告諭。
  (11月)国立銀行条例が施行される。
  (12月)太陽暦を採用。
1873年 (1月)全国に六鎮台を設置。徴兵令が出される。
  (7月)地租改正条例が出る。
  (9月)岩倉具視らが帰国する。
  (10月)明治六年の政変。征韓論を唱えた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが参議を辞職。
  (10月)ドイツ帝国、ロシア、オーストリア両帝国と三帝同盟を結ぶ。
  (11月)内務省を設置する。

○岩倉使節団の出発

 さて、次第に政府の仕組みや制度を整えつつある中、岩倉具視ら政府首脳の悲願は幕末に結んだ不平等条約の改定でした。そこで幕末期に通商条約をむすんだ各国に、新政府の国書をわ渡すと共に、条約改正の時期が迫っていたことから、条約改定への期待をこめながら、欧米歴訪の旅に出発することになりました。

 もちろんこれを機会に、欧米の制度をしっかり学ぼうということになり、岩倉具視を全権大使に、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳(なおよし)を副使とし、陸軍少将の山田顕義、司法大輔の佐々木高行など政府高官に、約60名の留学生が同行。当時の岩倉具視は46歳、大久保利通は41歳、木戸孝允は38歳、伊藤博文は30歳。

 ・・・現在の政府の内閣の年齢層を考えると、岩倉具視でさえ若い部類に入りますね。

 そして岩倉使節団は太平洋を横断し、サンフランシスコからアメリカに入国します。そして大陸横断鉄道に乗って、1872年1月にワシントンに到着。国書を渡した後で条約改正交渉に入ろうとしますが、準備不足もあって門前払い状態。そこで、彼らは目的を欧米各国の各種制度や、文化の研究など、見聞を深めることを目的にします。

 当時のアメリカはグラント大統領の時代。あの南北戦争が終結し、離反していた南部諸州もアメリカ合衆国に復帰。戦争時の軍需で景気が刺激され、その後も戦争特需が発展していたころです。条約改正に淡い期待をしていたことや、見るものも多かったのか、なんと1872(明治4)年7月まで滞在。

 そしてボストンを出発し、イギリスへ到着。大英博物館を見学したほか、11月15日にはヴィクトリア女王(1819〜1901年)にも謁見します。さらに、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスと、ヨーロッパ各国を次々と訪問。大久保利通、木戸孝允は一足先に帰国し、岩倉らは1873(明治5)年7月にフランスのマルセイユを出発。エジプトに完成したばかりのスエズ運河を経由し、東南アジアを通って9月に日本に帰国しました。

 このように何とも壮大な視察となったわけですが、この中で、立憲君主国家として小国から強い力をつけてきたドイツ帝国(プロイセン)の宰相ビスマルク(1815〜1898年)の話に、一行は強い共感を得ます。

 会談の中でビスマルクは、「国家間の関係は万国公法どおりには動かず、大国は自国に有利な場合には公法を盾に取るが、不利な場合は公法を踏みにじる。だからプロイセンは、対等な権利を獲得するために、血の出るような国力の振興に務め、ようやく希望が叶った」というような趣旨のことを言ったそうです。

 日本の置かれている状況とも似ており、そしてドイツには皇帝が存在しており、岩倉らが目指す天皇中心の国家とも雰囲気が一致。大いに参考になったものと思われます。

○留守政府の顔ぶれ

 さて、岩倉、大久保、木戸の3トップが抜けた政府は、留守政府とも言われ、主な構成員は
 太政大臣・・・三条実美
 参議・・・西郷隆盛、板垣退助、大隈重信
 外務卿・・・副島種臣   大蔵大輔・・・井上馨   文部卿・・・大木喬任  兵部大輔・・・山縣有朋
 左院議長・・・後藤象二郎   開拓次官・・・黒田清隆

 といった顔ぶれです。で、岩倉や大久保らは留守政府に対して
「大規模な案件は使節団に報告すること。新規の改正は行ってはダメ。卿が欠員したら参議が兼任すべし。」
 と、要するに「無断で勝手なことをするな」とクギを刺しておきます。しかし明日、明後日に帰ってくるならともかく、使節団は足掛け3年にわたって欧米各国を見てきます。そんな中で、一々お伺いを立てているような状況ではありません。

 新国家造り、やらないといけないことは山ほどあります。
 というわけで、留守政府はドンドン色々な政策を進めていくのでした。では、今回も順番に見ましょう。

○1使3府72県への再編〜1871(明治4)年11月

 廃藩置県により1使(開拓史)と3府302県が誕生しましたが、同じ年の11月には早速、県が大幅に統合されて72県にまで減少しました。そして府には府知事、県には県令が派遣されます。

○琉球漂流民殺害事件〜1871(明治4)年11月

 琉球王国は江戸時代、薩摩藩の実質的な支配下に置かれながらも、日本(薩摩藩)と中国大陸の清の双方に朝貢を行い、体外的には独立王国としての体裁を持っていました。明治政府としては、これを何とか解体して日本に正式に組み込もうとしますが、まだこの段階では清との関係を徹底的に悪化させるわけにはいきませんでした。

 そんな中、この11月に宮古島の島民が乗った船が難破し、台湾南部へ漂着。先住民に助けを求めたところ、行き違いから54名が殺害されるという事件が発生しました。そこで明治政府は彼らを日本国民として、清に対して賠償を求めていくことで、琉球を日本の領土として清に認めさせようとします。

 ・・・が、清はなかなか取り合おうとせず、この件についてはしばらく放置されます。
 結果的には1874(明治7)年に台湾へ出兵することになりますが、これについては今度。

○司法制度の充実〜1872(明治5)年4月

 近代国家を整えるためには、近代的な法制度や裁判制度を整備しなければなりません。そこで政府は、佐賀藩出身の江藤新平(えとうしんぺい 1834〜74年)を起用し、4月に彼を初代の司法卿に任命。江藤新平は、欧米にならった三権分立を目標に、行政からは独立した司法制度を作ることを目指します。また、警察も司法省の管轄とし、警視・警部・巡査の職名もこの時に誕生しました。

 彼は1年後に参議となったため、活躍した期間は短いものでしたが、フランスを模範とした民法、刑法等の編纂事業に着手するなど、立派に基礎固めを行い、同じ佐賀出身で第2代の司法卿になった大木喬任(おおきたかとう)は、フランスから招いたボアソナードと共に、民法、刑法などの制定に尽力しました。

○壬申戸籍の誕生〜1872(明治5)年5月

 今でこそ戸籍は日本では当たり前の制度ですし、古代日本の律令国家でも戸籍は登場しましたが、律令国家の衰退と共に戸籍の作成は困難となり、江戸時代は宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)により、宗教の分野で身分別に台帳があるのがせいぜいでした。

 そこで、いったい日本にいる家族構成はどうなっているのか?と、政府が把握すべく作らせたのが、この壬申戸籍だったのです。壬申というのは、当時の干支から来た名前。この戸籍を把握することで、その後の徴兵や課税の基礎資料となります。

○兵部省の分離〜1872(明治5)年5月

 この月に兵部省は陸軍省、海軍省に分割されました。まあ、これはその程度の話ですが、いよいよ日本の海軍が本格的に始動することの現われともいえます。

○地券の交付〜1872(明治5)年7月

 江戸時代の年貢米に頼る財源は不安定で、安定した財源を得るため、明治政府は租税の仕組みを抜本的に変えようとします。その一環として、5月には田畑永代売買の禁令を解くことにし、売買による新しい土地所有者には地券を交付し、土地の所有権を認めます。

 さらに7月、すべての土地に地券を交付しました。ちなみに地券には、土地の所有者と面積、地価が書かれています。江戸時代は誰が耕作しているかが重要で、誰が土地を持っているかというのは不明確でした。政府は、耕作している人よりも、土地の所有者に税を払わせることを目的とするため、まずは土地の所有権を確認することが必要でした。

 さてさて、これをどう活用していくのかは、翌年に続く・・・!

○マリア・ルス号事件〜1872(明治5)年7月

 次第に様々な対外問題にあたっていく明治政府。今度は、横浜港に停泊中のペルー船籍から、231人いた清人の苦力(クーリー/アジア系の単純労働者のこと)のうち1人が、過酷な労働に耐えかねて脱出し、イギリス軍艦に保護。そしてイギリスの代理行使のワトソンが日本に対し、強く調査を要請します。

 これに対して外務卿の副島種臣(そえじまたねおみ 1828〜1905年)は、神奈川県参事の大江卓(1847〜1921年)を権令(副県知事)に抜擢すると共に、彼に裁判を命じて、清人の苦力全員の解放を決定。清へと引き渡すのでした。

 この裁判の中で、ペルー船の船長から「日本だって娼妓という”人身売買”が行われているではないか!」と反論。これには日本側も困ったようで、芸娼妓解放令を出して、人身売買の禁止や強制的な年季奉公の廃止などが急いで布告されました。 

○学制の公布〜1872(明治5)年8月

 既に文部省を設置したように、政府は教育体制の充実を計画します。目標は全国的な学校制度を制定することで、まずはフランスを手本に、全国を8大学区(翌年に7大学区)に分け、各大学区に中学校32校ずつ、その各中学区に小学校を210校ずつ設置することにします。

 計画では、小学校の場合は全国で5万7360校できるはずでしたが・・・、もちろん明治政府に金はありません。住民負担で学校を造らせようとするので、増税だと反発も。結局、1879(明治12)年に教育令が出されて、学制は廃止。教育の基本体制について、また仕切りなおしとなりました。

 では、ここでこの時代の教科書と学校建築を見て行きましょう。



論語  学制は出したものの、どんな教科書を使うかというのは直ぐに整備されませんでした。
 そんなわけで、教科書を出版するのも、採用するのも自由という時代が数年にわたって続きます。そのため、江戸時代から引き続き論語のような中国の書籍を使ったり、西洋の書物を翻訳したものも使われます。



文部省編纂 小学算術書  しかし文部省もボサっとしているわけにはいきません。このように自らが編纂した教科書を世に送り出します。結局、1881(明治14)年から許可制、1883(明治16)年から認可制、そして1886(明治19)年から検定制となり、次第に国家の教育方針に合った教科書のみが使えるようになっていくのです。教科書については、また色々なところで御紹介しましょう。

 それでは、この時代の学校建築を見て行きます。



岩国学校(山口県岩国市)  廃藩置県直前の1870(明治3)年、小中学校語学所を設立した岩国藩が建てた学校。上層を教員詰所、下層を教室とした2階建てで、2年後に上方中央に塔屋を増築して、和洋折衷の雰囲気を作り出しました。ちょっとアンバランス?

中込学校(長野県佐久市)  1875(明治8)年に当時の下中込村全戸の篤志者の寄付により建設されたもので、現在日本に残っている洋風の学校の中では最古のものです。当時は珍しいガラスを使用したことから、ギヤマン学校とも呼ばれ、さらに中央の天井から、時間を告げるための太鼓がつるされています。このように、当時は村々の教育にかける情熱も熱く、立派な学校で子供たちを学ばせたいという想いが詰まっています。

睦沢(むつざわ)学校(山梨県甲府市)  1875(明治8)年築。県令の藤村紫朗が地元の有力者から寄付金をもらいながら建てさせた擬洋風建築の1つです。藤村紫朗は、このタイプの学校等の公共施設を県内各地に建てさせたため、県内の一連の建築群を藤村式建築ともいいます。

小田学校(三重県伊賀市)  1881(明治14)年、小田学校(現、小田小学校)の新校舎として建てられたもの。2階にはギヤマンの色ガラスがはめ込まれているのが特徴です。さて、そんなわけで色々な学校建築をごらんいただきましたが、いずれも中央部に塔屋を持っているのが特徴。これをつければ、西洋風に見えるなあとブームになったことが分りますね。


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