第64回 明治初期の外交政策

○今回の年表

1873年 (9月)岩倉具視らが帰国する。
  (10月)明治六年の政変。征韓論を唱えた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが参議を辞職。
  (10月)ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・ロシア帝国が三帝同盟を結ぶ。
  (11月)内務省を設置する。
1874年 (1月)板垣退助らが愛国公党を結成する。
  (1月)東京警視庁が設立される。
  (1月)板垣退助ら、民撰議院設立の建白書を提出。
  (2月)佐賀の乱が起こる。
  (4月)板垣退助ら、立志社を設立。
  (5月)台湾出兵。西郷従道らを台湾に派兵。
1875年 (5月)樺太・千島交換条約が結ばれる。
  (6月)讒謗律・新聞紙条例を制定。
  (9月)江華島事件が起きる。
1876年 (2月)日朝修好条規を締結。
1877年 (1月)インド帝国が成立。皇帝はイギリス国王が兼ねる(初代はヴィクトリア女王)
  (2月)西南戦争が起きる。
1878年 (11月)大久保利通が暗殺される。
1879年 (12月)琉球処分。琉球藩を沖縄県とする。

○征韓論と西郷隆盛らの下野

 明治維新後、明治政府は1871(明治4)年に清とのあいだで日清修好条規を締結するなど、諸外国と本格的に外交政策を展開していました。そんな中、お隣の朝鮮との関係はというと、まさに少し前までの日本と同じく、排外主義、攘夷状態。実は、アメリカ、フランスと交戦状態にさえ陥っています。簡単に見ておきますと・・・。

1.丙寅洋擾 (へいいんようじょう)
 朝鮮の実権を握っていた大院君(1820〜1898年)が、1866年にキリスト教禁止令を出し、フランス人宣教師らを処刑。これに抗議し、フランスはすぐさま仁川近くの江華島を攻撃して占領するも、朝鮮側の攻撃によって敗北し、これ以後6年間にわたって約8000人のキリスト教信者が処刑されます。これは朝鮮のナショナリズムを高揚させる結果となりました。

2.辛未洋擾(しんみようじょう)
 1866年に、攘夷派が通商を求めてきたアメリカ商船の蒸気帆船シャーマン号を襲撃して、21名全員が乗組員を殺害します。1871年、この報復としてアメリカは軍艦を朝鮮に派遣すると砲撃を受け、交戦状態に入ります、この結果、アメリカ海兵隊が江華島に上陸し、砲台の一部を占領しましたが、朝鮮側の激しい抵抗もあり、撤退しました。

 というわけで、当時の朝鮮は大院君による鎖国政策真っ只中。日本も通商を求めますが拒絶されます。

 そこで1873(明治6)年、留守政府は事態を打開するため使節の派遣と、場合によれば居留民保護を目的とした派兵を計画とします(いわゆる征韓論)。第一弾として、西郷隆盛を正使として朝鮮に派遣することが決定。ところが、そこに欧米から帰国していた岩倉具視大久保利通らは「内政の充実が優先である。征韓論などもってのほか」と反対。

 激しい政治的攻防の末、反対派の岩倉具視は、天皇の裁可によって「西郷の朝鮮派遣は行わない」と、先の決定を覆すことに成功し、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎ら征韓派の参議は辞職し、政府を去りました。これを明治六年の政変といい、大久保利通政権が樹立されます。主な顔ぶれは次の通り。
 参議兼内務卿 大久保利通(薩摩)
 参議       木戸孝允(長州)         参議兼外務卿 寺島宗則(薩摩)
 参議兼大蔵卿 大隈重信(肥前)          司法卿     大木喬任(肥前)
 参議兼工部卿 伊藤博文(長州)          陸軍卿     山縣有朋(長州)
 参議兼海軍卿 勝安芳(幕府/勝海舟のこと)  開拓次官    黒田清隆(薩摩)

 大久保利通が就任した内務卿というのは、この政変を機に彼が設立した内務省を所管する役職。内務省は、大蔵省・司法省・工部省から、勧業、戸籍、駅逓(えきてい)、土木、警察などの業務を移管し、後には地方行政、治安維持なども担当し、内政について、非常に強大な権力を握ることになります。

 一方、政府を去った西郷隆盛は鹿児島へ帰郷。板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らは翌年、すなわち1874(明治7)年1月12日に愛国公党を結成します。

 そして1月17日、古沢滋(迂郎)小室信夫が起草し、由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵大丞)も加えた合計8名で、民撰議院設立建白書を政府に提出します。これは、「政治権力が、上である天皇(帝室)にも、下である人民にもなく、一部の官僚にしかない。だから民撰議院を設立することが、国民の幸福になる」という趣旨のもので、要するに議会を開くべし、というもの。

 残念ながら政府に却下されますが、翌日の新聞「日新真事誌」に全文が掲載され、大きな反響を呼びました。

 この時代から、次第に自由民権運動が盛んになって行きますが、このテーマについては別途、執筆いたします。

○佐賀の乱

 民撰議院設立建白書に署名した江藤新平でしたが、郷里の佐賀では、征韓党憂国党という、主張の異なる2つの士族団体が反政府の動きを見せていることを憂慮し、すぐに帰郷しました。

 一方で内務卿の大久保利通は、佐賀県権令に任命した岩村高俊(いわむらたかとし 1845〜1906年)に対し、不平士族たちを軍事力で抑えるよう指示し、広島、熊本の鎮台にも出動を命じます。

 こうした政府の動きにカチンと来た江藤新平は、何と征韓党の党首になってしまいます。そして、秋田県令だった島義勇(しまよしたけ 1822〜74年)が率いる憂国党と共に士族達を率いて反乱を起こし、1万2000人弱が参加しました。そして佐賀城を奪うなど、攻勢を強めるも、政府軍の反撃に遭い敗北。


佐賀城鯱の門

 江藤新平は薩摩に行き、西郷隆盛に決起を呼びかけますが断られ、さらに高知にまで逃走するも、かつて自らが制定した、手配写真制度の被適用者第1号とされ、速やかな逮捕に至ってしまいました。そして佐賀に連れ戻され、処刑されます。その首は、さらし首とされ、近代日本の司法制度の基礎を作り上げた江藤新平に対し、あまりにも皮肉な仕打ちとなってしまいました。

○台湾出兵

 そして1874(明治7)年5月、台湾に対し兵を派遣することを決定。これは1871(明治4)年に琉球の島民が台湾に漂着した際、現地人に54人が殺害されたことを発端とします。日本側の抗議に対し、清は「台湾は統治外。また、そもそも琉球は日本領ではない」とし、取り合いませんでした。

 しかし明治政府としては、「琉球は日本の領土である。だから、責任を追及するため台湾に派兵する」という大義名分を掲げ、また佐賀の乱に見られたような、不平士族の不満をそらす意味もあり、出兵計画を進めました。

 この派兵の指揮を取ったのが、西郷隆盛の弟である西郷従道(さいごうじゅうどう/つぐみち 1843〜1902年)。実は出兵直前に木戸孝允の反対と参議辞任、さらにイギリス、アメリカの反対で大久保利通は出兵中止を決定しますが、西郷従道は独断で派兵を強行します。そして、6月には台湾全土を占拠しました。これを台湾出兵、もしくは征台の役といいます。

 この結果を受けて、大久保利通は北京で清国政府と交渉。イギリスの仲介もあって、清が、日本の行動が正当であると認め、事実上の賠償金を支払うことで、日本側が台湾から撤退することで合意しました。

 これによって、いよいよ琉球は日本領であるとし、明治政府は併合作業を加速させます。後に紹介しますが、西郷隆盛が起こした西南戦争が終結すると、ようやく内乱の時代も終わりを向かえ、政府にも余裕が出てきました。

○琉球処分

 そこで1879(明治12)年、明治政府は琉球国王の尚泰(1843〜1901年)に対して、東京居住を命じ、鎮台兵と警察を派遣して、王府である首里城を接収します。そして、既に設置していた琉球藩を廃して、沖縄県とし、日本の他地域と同様の扱いとしました。これによって、名目的にも存続していた琉球王国は、ついに450年の歴史に幕を閉じました。

 ただし日本と清による琉球領有権問題は、まだこの段階では完全には確定していません。当然のことながら、琉球王国の支配層を中心に、日本に対する不服従や、清に対して支援を求める動きもあり、清も日本に対して強く抗議します。そこで、アメリカのユリシーズ・シンプソン・グラント大統領(1822〜1885年)は、1879(明治12)年に、次のような調停案を出します。
1.沖縄を2分割し、先島諸島を清に譲渡。
2.日清修好条規を改定し、西欧諸国と清が結んだ権利と同等の権利を認める。
 *先島諸島とは、宮古列島、八重山列島などの地域。尖閣諸島も含むこともあります。

 これに対し、清の総理である李鴻章(りこうしょう 1823〜1901年)は、沖縄を3分割し、先島諸島を清、奄美諸島を日本、沖縄本島を独立させるという対案を提示します。当然、日本側としては承服できる内容ではありません。

 それでも1880(明治13)年、グラント大統領の案をベースに、両国は一旦は合意に至ります。しかし、最終的に清は批准を行わなかったため、再び領有権問題は宙ぶらりん状態に。最終的に、1895(明治28)年に日清戦争後に結ばれた下関条約2条3項で、ようやく琉球の日本帰属が確定することになりました。

○江華島事件

 一方、征韓論を退けたにもかかわらず、朝鮮に対しては結局のところ実力行使に出ます。
 1875(明治8)年4月、行き詰っていた朝鮮の開港問題を打開すべく、日本は軍艦「雲揚」を測量と称して、朝鮮の首都である漢城(現、ソウル)を守る西の防衛ライン、江華島(カンファド)沖に派遣。ご覧のように、現在のソウルとは目と鼻の先といっても過言ではありません。


 さらに飲料水の補給と称してボートで上陸しようとし、朝鮮側を挑発します。案の定、朝鮮から砲撃を受けたのを機に、反撃に出て砲台を破壊し占領。さらに南にある永宗島に上陸し、永宗城という要塞を占領します。

 これによって、ついに朝鮮も日本との開国に踏み切らざるを得なくなり、翌年1月、日本は黒田清隆を全権大使に、井上馨を副使とし、艦船6隻を従えて江華府に上陸。イギリスとアメリカの支持も背景にし、朝鮮との間で日朝修好条規を結びました。これは、朝鮮側にとっての不平等条約で、日本に領事裁判権、関税免除を認める内容でした。おやおや、どこかで聞いた内容のような・・・。


現在の江華島の様子(撮影:孟保世)

○樺太・千島交換条約

 続いてロシアとの関係では、幕末に日露和親条約が結ばれたときに、樺太は日本人・ロシア人の雑居地域とし、千島列島では択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれていました。

 しかしロシアの樺太経営強化に対し、現地では両国民で紛争が耐えず、このため両国政府で国境について交渉が続けられてきましたが、なかなか合意に至りませんでした。そのような中で開拓次官の黒田清隆は、「北海道の開拓が優先であり、樺太は放棄してロシアとの関係を安定させるべきだ」と提案。

 政府内でもこの意見が優先となり、ここに戊辰戦争で明治政府と戦った、榎本武揚(えのもとたけあき)が特命全権公使に任命され、首都サンクトペテルブルクに派遣されました。そして、アジア局長スツレモフと交渉を重ねた結果、樺太を放棄して宗谷海峡で国境線を引く一方で、ロシアより千島列島の譲渡を受けることで合意に至りました。

 こうして1875(明治8)年に樺太・千島交換条約が日本とロシアの間で結ばれ、これによってロシアとの国境線を画定させました(上図はグーグルマップを加工)。現在、日本が返還を求めている北方四島については、日露和親条約で日本領として確定しています。

○小笠原諸島

 日本の南に目を転じ、小笠原諸島については所有が明確ではありませんでした。そこで、日本が領有を宣言しましたが、アメリカ、イギリス共に異議を唱えなかったため、1876(明治9)年に内務省の管轄におきました。

 このようにして、日本は周辺の国境を画定させていったのです。

参考文献・ホームページ
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
マンガ日本の歴史43 (石ノ森章太郎画 中公文庫)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
CG日本史シリーズ 22 明治と文明開化 (双葉社)
日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社)
中央日報 【そのときの今日】朝鮮軍の血で染まった辛未洋擾、傲慢と無知が呼んだ悲劇

次のページ(第65回 西南戦争)へ
前のページ(第63回 岩倉使節団の派遣と留守政府)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif