第70回 第2次伊藤内閣と朝鮮との関係

○はじめに

 今回は第2次伊藤内閣と、第2次伊藤内閣以前も含めて、日清戦争に至るまでの朝鮮との関係についてみていきましょう。

▼第二次伊藤博文内閣(第5代総理大臣) 
  1892(明治25)年8月〜1896(明治29)年9月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第二次伊藤内閣を参照のこと。

○主な政策

・元勲総出で入閣(元勲内閣)
・文官任用令を制定
・日英通商航海条約を調印(1894年7月)
・日清戦争(1894年8月〜)
・自由党と提携。板垣退助が内務大臣として入閣

○総辞職の理由

 立憲改進党の大隈重信の入閣に失敗し、総辞職を決断。

○元勲総登場?

 入れ替わりはありますが、名簿をご覧いただけると解るとおり、山縣有朋元総理が司法大臣として、黒田清隆元総理が逓信大臣、長州の実力者である井上馨が内務大臣となるなど、大物ぞろいの内閣です。元々総理になるのを固辞した伊藤博文でしたが、周囲の強力な説得に対して、総理就任の条件に実力者総登場で組閣することを認めさせたのです。

○陸奥外務大臣の条約改正

 第一次松方内閣と第二次伊藤内閣で外務大臣を務めたのが陸奥宗光。西洋との条約改正交渉、さらに後で紹介する日清戦争を巡る外交に大きな手腕を発揮し、陸奥外交の名前を残しました。 彼は、このような方針で条約改正に臨みます。
@外国人の内地雑居(日本のどこに住んでもよい)を認める。
A領事裁判権を撤廃させる。
B関税自主権の撤廃は断念するが、関税の引き上げは認めさせる。

 問題となったのは@の外国人の内地雑居。
 これまで政府系の政党であった国民協会、星亨が主導する自由党に反発して離脱して結成された、大井憲太郎の東洋自由党(→諸派と連合して大日本協会)、立憲改進党が反対の声をあげ、一方で自由党が条約改正に支持を表明し、伊藤内閣の与党となります。


 しかし、自由党だけでは議会で少数であるため、伊藤博文首相は衆議院を解散。第3回衆議院議員総選挙が実施されます。今度は激しい選挙干渉が無い代わりに、従来と異なる与野党対立となります。

 選挙結果は左図の通り。自由党、立憲改進党ともに議席を伸ばしました。そして第6議会でも激しい政府批判が繰り広げられ、5月31日に政府弾劾上層決議案が可決されます。

 しかし陸奥外務大臣は、駐英公使になっていた青木周蔵に指示しながら、まずイギリスと交渉を行い、ついに1894(明治27)年7月に、新しい日英通商航海条約を結ぶことに成功。最恵国待遇も片務的なものから双務的なものへ変わりました。問題は議会対策ですが、天皇の勅令という裏技を使用し、8月27日付で公布しました。

 これを契機に、ほかの国とも条約改正が進んでいきます。


ロンドンの日本大使館

○朝鮮問題

 第二次伊藤内閣最大の出来事が日清戦争。ここで、その発端となった朝鮮問題から見ていきましょう。

○1.壬午事変(1882=明治15年)

 山縣有朋が、利益線の重要性を訴えたことは以前にご紹介しました。この利益線とはどこか、というと主に朝鮮のこと。  極東への進出を進めるロシア帝国、さらに押収列強に押されるも、なお大国である中国の清王朝。この2つの国家に挟まれる朝鮮の動向次第では、日本の安全保障に深刻な状況を与えるのでした。ということで、日本は何かと朝鮮に関わるようになります。

 さて、1882(明治15)年。大隈重信が前年に失脚し、伊藤博文らが憲法制定や国会の開設に向けて準備を開始した頃のお話です。当時の朝鮮王朝は、国王の高宗(コジョン 1852〜1919年)を頂点にしながらも、2つのグループが争っていました。

 高宗の夫人である閔妃(ミンピ)一族を中心としたグループ(開国・親日派) 
                 V.S.
 高宗の父である大院君(テイオングン 1820〜98年))を中心としたグループ(攘夷・親清派)
 という構図。

 元々1863年、高宗が11歳で即位したため、大院君が幼い高宗の摂政として政治改革を行い、それまでの朝鮮王朝の弊害であった、国王夫人の一族(外戚)による独占的な政治の打破、有能な人材の登用、両班(ヤンパンと呼ばれる朝鮮貴族)の特権剥奪、農地改革に取り組み、一方で鎖国政策の堅持、宮殿造営(下写真)などを行います。

 ところが1866年に閔妃が高宗と結婚し王宮に入ると、彼女&閔妃一族と対立を深めるようになります。そして1873年、重税に対する人々の不満や、両班の不満を背景に、閔妃一族の攻撃にあって大院君は失脚します。


景福宮の勤政殿
大院君は豊臣秀吉の朝鮮出兵により失われていた朝鮮王朝の王宮「景福宮」を再建。
昌徳宮からここに王宮を移しました。のち、日本が朝鮮総督府をここにおきます。

▼軍制改革でつまづく

 そして閔妃一族は朝鮮を開国し、日本から軍事顧問として堀本禮造少尉を招いたり、日本に留学させたりして近代的な軍の編成を開始しました。具体的には、別技軍という特殊部隊の養成を行うと共に、他の将兵を解雇したり、米で支払っていた給料を下げるなど、リストラを行ったのです。

 ここからが1882(明治15)年に起きた壬午事変のお話。

 この時代、日本の商人による米の買占めなどで、米の市場価格は高騰していました。当然、リストラに遭った将兵の生活が大いに困窮します。しかも、米の支給さえ遅れ、この原因が政府にあることが判明。この状況に激怒した将兵に、米不足に怒る市民が加わり、別技軍の屯舎を攻めて、堀本少尉を殺害。日本公使館にも押し寄せ、花房公使は辛くも朝鮮を脱出することになりました。ウラで操っていたのは、大院君でした。

 このため、王宮を脱出した閔妃は、朝鮮に駐屯していた清の軍人である袁世凱(えんせいがい 1859〜1916年)に事態の収拾を依頼。一方、日本も面子がありますから、朝鮮に出兵します。ところが、国王の高宗は大院君に朝鮮軍を預けることで、事態の収拾を図ります。結局、日本軍・清軍・閔妃一族 VS 大院君率いる朝鮮軍ということになります。

 そして清軍は、大院君を拉致して天津に連れ帰ると、朝鮮軍を撃破し、閔妃一族を政権に復帰させます。

 この後、日本は損害賠償と日本公使館に日本の軍隊を置くことを認めさせた済物浦条約を朝鮮と結びます。ちなみに済物浦(さいもっぽ/チェムルポ)とは、現在の仁川(インチョン)のことです。

 なお大院君とは、直系ではない国王の実父(要するに自分は国王になったことがない)に与えられる称号で、今回登場した大院君は、正式には興宣大院君として区別されます。が、あまりにもインパクトが強く、大院君といえば彼のことを指すのが通常です。

 ちなみに大院君はしばらく清に幽閉されますが、また復権をねらい政治の表舞台に登場してきます。

○2.甲申事変(1884=明治17年)

 さて、閔妃一族は清のおかげでクーデターを鎮圧できたのですから、もちろん清に頭が上がりません。親日的な雰囲気、どこへやら、です。このため、事大党と呼ばれるようになります。事大とは、自分の信念をもたず、支配的な勢力(この場合は清)や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方のことです。

 一方、「これでは朝鮮の近代化が遅れてしまう。日本のように国王を頂点とした西洋的な立憲君主国家」を造るべきだと、金玉均(キム・オッキュン 1851〜94年)ら開化派(独立党)は反発。日本に来た金玉均に対して、大隈重信や福沢諭吉など、日本の政財界も援助するようになります。

 そして、1884年に清仏戦争で清はフランスと交戦。ベトナムを巡る覇権争いを開始し、今なら朝鮮に関わってられないだろうと、金玉均、朴泳孝(パク・ヨンヒョ 1861〜1939年)、洪英植(ホン・ヨンシク 1855〜84年)ら独立党は、朝鮮駐在の竹添進一郎公使の支援も受けてクーデターを決行。王宮に爆弾を仕掛けて破裂させ、駆けつけた閔妃派の高官達を皆殺しにします。こうして新政権の樹立に成功し、清の影響力を排除し、近代国家を造ることを宣言します。

 ところが、クーデターの直前に清はフランスにあっさりと敗北する一方、せめて朝鮮への影響力は残すべく、清軍が、独立党と王宮を守る日本軍を排除。わずか3日で政権は崩壊し、洪英植は殺害。金玉均、朴泳孝は竹添公使に連れられ、日本に亡命し、閔妃政権が復帰しました。

 そして朝鮮は日本に対して責任を追及します。一方で日本は、外務卿の井上馨が軍艦7隻を率いて仁川に上陸。このときに日本公使館の焼き討ちや、在留日本人が殺傷されたことに対して賠償を要求。

 結局、1885(明治18)年に漢城条約が結ばれ、
 1.日本被害民に対して賠償11万円を支払うこと。
 2.公使館護衛のため、日本軍が駐留すること(を認めること)。
 が取り決められました。

 一方で日清両国は、関係悪化は避けるよう動き出します。そして日本側全権・伊藤博文と、清国側全権・李鴻章との間で交渉が行われ、天清条約が結ばれました。これは
1.両軍の撤兵
2.両国とも朝鮮への軍事顧問の派遣をやめる。
3.朝鮮に派兵するときは相互に事前通知する
 という内容を取り決めたもので、ひとまず両国の決裂は避けられました。

 ただし、余計に清による朝鮮への影響力が強まり、日本は新たな朝鮮政策を進めることになります。また、これに失望した福沢諭吉は1885(明治18)年に脱亜論を書き、もう近代化を進めないアジアとは手を切り、西洋の仲間入りをするべきだと主張。
こうして日本から、次第にアジア各国とともに西洋に立ち向かう・・・という考え方が消えていく、その転換点となった出来事であったといえます。

 なお、金玉均は1894(明治27)年に上海で閔氏が放った刺客に暗殺されました。また、朴泳孝は日清戦争後に政治の中枢に復帰し改革に取り組むも、2度にわたり失脚します。

参考文献・ホームページ
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
合戦の日本史(安田元久監修 主婦と生活社)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
マンガ日本の歴史43 (石ノ森章太郎画 中公文庫)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
CG日本史シリーズ 22 明治と文明開化 (双葉社)
日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社)
コトバンク(朝日新聞社) http://kotobank.jp/

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