第71回 日清戦争

○甲午農民戦争

  とにかく不安定な朝鮮情勢。ここからが第二次伊藤内閣の間に起きた事件になるのですが、1894年3月に、民間宗教である東学の地方幹部の(ぜんほうじゅん 1856〜95年) を指導者にした農民反乱が全羅道の古阜(こふ)で発生します。政治の腐敗、経済情勢の悪化に、困窮する農民たちが我慢できなくなったのです。

 彼らは腐敗した官僚の罷免、租税の軽減、米流出の防止などを訴え、各地で朝鮮軍を破ります。驚いた朝鮮政府は、なんと清に対して軍隊を派遣要請。とうとう自国の農民反乱の鎮圧に外国の手を借りるとは呆れた話ですが、清はこれを了承し、軍隊の派遣を決定。さらに、日本との間に結んだ天津条約に基づき、朝鮮への派兵を通告します。

 伊藤内閣もこれを受けて、朝鮮での権益確保、さらには戦争に目を向ければ国内世論がそっちへ行くため、政府批判が弱まると考え、派兵を決定します。折りしも前回見たようにイギリスとの間に条約改正交渉がまとまったとの報告も入り、これは「イギリスがロシアの南下を食い止めるために、清よりも日本に期待している」という意思表示を感じ取ります。

 驚いたのは朝鮮政府。大慌てで農民の要求を聞き入れ、反乱を沈静化。「さあ、帰ってくれ!」と日清両軍に通告しますが、まさか手ぶらで帰るわけにはいきません。なんと日本は王宮を占拠し、大院君に親日政権を作らせます。

 そして大院君は7月25日に清との宗属関係破棄を宣言。日本の大鳥圭介公使(1833〜1911年)に対し、清国軍を撤退させるように依頼し、日本に清との戦争の口実を与えます。なんというか、互いに複雑な利害関係が絡み合ってますねえ。

 その7月25日の朝、既に海上では日清両軍の戦端が開かれました。仁川に向かう日本の軍艦「吉野」「浪速」「秋津島」と、清国の軍艦「済遠」「広乙」が豊島沖で遭遇して激突したのです。これを豊島沖の海戦といい、清軍は「済遠」が退却、「広乙」は座礁大破という損害をこうむりました。

 そして8月1日に日本は正式に宣戦布告し、9月8日に大本営を広島に設置。
 同15日には明治天皇も広島に到着します。

 清には、ドイツ製の最新鋭の軍艦「定遠」(7400t、主砲30cm砲4門搭載)や、「鎮遠」などを擁する北洋艦隊がある一方、日本の主力艦はフランス製の「松島」(4300t、主砲32cm砲1門搭載)であり、海軍力は清が有利だと世界は見ていました。


 ところが9月15日には日本の陸軍が清国の拠点である平壌(ピョンヤン)を総攻撃し、翌日に陥落。
 さらに9月17日、黄海海戦によって、伊藤祐亨(いとうすけゆき)中将率いる旗艦「松島」以下12隻の連合艦隊と、丁汝昌(ていじょしょう)提督率いる北洋艦隊、「定遠」「鎮遠」以下12隻+水雷艇2隻が交戦。連合艦隊は単縦陣(一列縦隊)、北洋艦隊は傘型横陣形で激突し、連合艦隊が北洋艦隊5隻を沈めるなど、勝利を収めます。

 そして戦いは中国へと舞台が移り、11月21日に大山巌大将率いる陸軍第2軍は、1日で北洋艦隊の旅順要塞を陥落させます。ただし、この攻略後に市民の虐殺が行われたとアメリカで報道され、アメリカと条約改正交渉中だった陸奥外相は弁明に追われることになります(実際の規模は不明です)。

 続いて翌年2月4日・5日、海軍は残存する北洋艦隊が守る威海衛に対して、水雷艇で夜襲をかけ、「定遠」を大破、「来遠」「威遠」ほか1隻を撃沈しました。これにより北洋艦隊の提督の丁汝昌(ていじょしょう)は部下の助命を日本側に要請し、自殺しました。これによって清の敗北は決定的になりました。

 また朝鮮では10月に全準が農民軍を率いて立ち上がりますが、日本軍の前に敗北し、翌年3月に処刑されました。

○下関条約

 まさかこのまま、泥沼の中国本土での戦争にまで発展させるわけにはいきませんから、この辺りで両国は手を打つことになりました。既に日本は、国家予算の2倍にあたる2億円を戦費として使っていたのです。

 そして1895(明治28)年3月20日、山口県の下関にて、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光と、清国全権の李鴻章(りこうしょう 1823〜1901年)との間で第一回目の交渉が行われます。李鴻章は直ちに休戦するよう申し入れますが、伊藤首相は軍部の戦争継続方針を鑑みて、もう少し占領地の拡大を狙っていました。

 ところが3月24日、李鴻章が小山豊太郎という自由党の壮士にピストルで狙撃されるという事件が発生。幸い、李鴻章は一命は取りとめたものの、これは日本の警備の大失態です。すぐさま休戦交渉に入り、30日に休戦。4月17日に下関条約(日清講和条約)が結ばれます。

 その内容とは・・・。
 1.朝鮮の独立を認める。
 2.遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲る。
 3.賠償金2億両(当時の日本円で約3億1000万円)を日本へ支払う。
 4.新たに重慶、蘇州、杭州、沙市、の4つの港湾都市をひらく。
 というもの。これにて日清戦争が終了しました。



講和会議が行われた春帆楼。当時の建物はありませんが、会議の様子が再現された日清講和記念館があります。
写真右手に李鴻章ら、左手に伊藤博文、陸奥宗光、伊東巳代治が座りました。


○三国干渉

 ところが、この講和条約に対して、南下を狙うロシアが反発。ドイツ・フランスとともに遼東半島を清国に返還するよう日本に要求します(三国干渉)。当時の日本は、ロシアと敵対するだけの力は無く、この要求を認めます。そして、ロシアは遼東半島の旅順と大連を中国から租借することに成功。これには日本の国民全体がロシアへの敵意を燃やすようになり、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)が合言葉になります。以後、軍備拡張でロシアに対抗する力をつけることになります。

 さらにドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借し、中国は列強によって領土が切り取られていくことになりました。また、日本は台湾経営に乗り出しますが、現地では台湾民主国の建国が宣言され、日清戦争よりも多い戦死者を出すほど現地の激しい抵抗に遭い、1915年まで制圧に時間がかかります。それでも日本は、台湾総督府を置いて本格的な統治を開始しました。



旧台湾総督府
現在も残る台湾総督府の建物は1916年の完成。中華民国(台湾)の総統府として今も使用されています。


○閔妃の最期

 1895(明治28)年7月6日、また朝鮮ではクーデターが勃発し、閔妃が大院君ら親日派を追放することに成功します。このため、政府は宮中顕問官だった三浦梧楼(みうらごろう 1847〜1926)を朝鮮公使として派遣しますが、なんと三浦は現地の日本人を使って大院君を擁するクーデターを決行。

 ついに閔妃は殺害されてしまい、驚いた政府は三浦梧楼を本国に召還し、広島監獄署に収監(もっとも、証拠不十分として免訴)。小村寿太郎(こむらじゅたろう 1855〜1911年)を後任の公使とし、事態の収拾に当たらせました。

○ロシアと関係を深める高宗

 一見すると朝鮮問題は日本有利に運んでいるように見えますが、いよいよ高宗も黙ってはいません。
 1986(明治29)年2月11日、警備の隙を突いて女官の輿に乗ってロシア公使館に脱出。ここを新政府の拠点とし、親日派の金宏集総理大臣らを斬殺し、晒しものにします(朝鮮の政治交代劇は血みどろすぎる・・・)。こうして日本の勢力は朝鮮から一層されてしまい、伊藤内閣は議会で激しく批難されます。

○伊藤内閣の終焉

 それでも、発足時は元勲総出という巨艦で出航するも、条約改正で議会と激しく対立してフラフラだった第二次伊藤内閣も、日清戦争のために思わぬ長期政権となりました。さらに権力基盤を強化すべく、自由党の板垣退助を内務大臣として4月14日に入閣させ、自由党を完全に与党にします。

 しかし、自由党だけでは議会の過半数を確保できませんから、さらに元勲の松方正義と、進歩党(立憲改進党と中国進歩党が合併)の大隈重信の入閣を狙います。ところが、板垣内務大臣は強く反対。大隈と接近していた松方も単独での入閣を拒否し、政権運営が難しくなった伊藤総理大臣は辞表を出し、第二次伊藤内閣は終焉しました。


○明治三陸地震

 おそらく辞職の理由はもう1つあって、実は6月15日に岩手県沖を震源とするマグニチュード8.2の地震が発生。これにより三陸地方400kmにわたって大津波が発生し、宮城・岩手・青森で死者2万7122人、流出破壊家屋1万390戸という、凄まじい被害を出します(2011年3月の東日本大震災の100年前にも、このような津波が発生していたのです)。

 この対策について政府の対応が手遅れが多いと、猛反発を受けていて、ついに政権運営に行き詰ったのだと思われます。なお、大津波は1933年3月3日、1960年5月22日にも発生。2011年4月3日付読売新聞によると、このような被害状況となるそうです。


明治三陸地震 1896年
6月15日
M8.2 岩手県沖 2万1959人
(死者数のみ)
38.2m
(大船渡市綾里)
昭和三陸地震 1933年
3月3日
M8.1 岩手県沖 3064人 29.3m
(大船渡市綾里)
チリ地震 1960年5月22日
(現地時間)
M9.5 南米チリ沖 142人 5.6m
(宮古市金浜)

 大船渡市綾里は、今回の地震でも津波の高さが20m以上に達していたことが判明しています。
 また、同じく今回の地震で大きな被害を受けた岩手県大槌町ですが、この明治三陸地震では日清戦争に出生した兵士の凱旋式を行っていたそうで、祝勝花火を海辺で行っていました。午後7時30分に地震を感じましたが、祭りを続行していたところ、午後8時10分に大津波に襲われ、多くの犠牲者が出たそうです。

 まさに今回の地震と同じような被害状況だったようですが、一部が高台に再建したほかは、また元の場所に復興したそうで、1933年の地震でも甚大な被害を受けます。その後、チリ地震の教訓を元に堤防が造られますが、これはまだ小さい方だった。今回、また明治三陸地震クラスの津波が襲ってきたわけで・・・。

 漁業の町であるだけに、そう単純に高台に町を造れるわけでもないですが、こうやって過去の記録を見るに、また大津波が来ないとも限らず、今度はどのようにして町を再建するのか、悩みどころです。ただ、三陸は3度の大地震と津波からも復興してきました。今回も間違いなく再建し、今度こそ災害に強いモデル都市が出来上がると確信しています。


○政治改革に挫折する中国

 さて、日清戦争に敗北した中国は、光緒帝(こうしょてい 1871〜1908年)のもとで立憲君主制の実現を目指す、政治改革(変法運動)の機運が高まり、官僚一派(変法派・維新派)の発言力が増大します。主導したのは、康有為(こうゆうい 1858〜1927年)、梁啓超(りょうけいちょう 1873〜1929年)です。

 光緒帝もこの動きに同意し、徴兵制の導入、科挙制度の変更、纏足・辮髪の廃止など、様々な政治改革に取り組もうとしますが、これに激怒したのが、政治の実権を握る、光緒帝の伯母、西太后(せいたいごう 1835〜1908年)ら保守派でした。権力闘争に負けるものかと、彼女は強力な軍事力を持つ、袁世凱(えんせいがい 1859〜1916年)を味方につけてクーデタをおこし、光緒帝を幽閉。

 康有為、梁啓超らは亡命し、ここに変法運動は幕を閉じました。これを戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)といいます。


参考文献・ホームページ
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
合戦の日本史(安田元久監修 主婦と生活社)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
マンガ日本の歴史43 (石ノ森章太郎画 中公文庫)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
CG日本史シリーズ 22 明治と文明開化 (双葉社)
日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社)

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