13回 冷戦とデタント〜フルシチョフとブレジネフ〜

●ベリヤの改革とフルシチョフの台頭
 スターリンが死ぬと、権力を握ったのがマレンコフ首相&党書記と、スターリンが死んでいるの最初に発見したとも言われるベリヤ内務大臣でした。あと、モロトフも第1副首相の座に就きます。そしてベリヤは、当時240万人いたという収容所に入れられた人々のうち、120万人を釈放。また、収容所も解体していきます。ちなみに何を隠そう、あのモロトフの奥さんまでユダヤ人という理由で入れられていたのですが、この時に解放されました。

 また1953年3月〜6月にかけて、ベリヤは次々と新政策を打ち出します。
 まず、ドイツの統一も画策します。ドイツ統一を手助けし、統一ドイツに恩を売ってアメリカから距離を取らせようと言うのです。また、彼は秘密警察出身だったため、ソ連の悪弊を取り除き、法治国家の道に転換させようとします。

 しかし、このような政策は他のソ連関係者達には受け入れられるはずもなく、「こいつは危険人物である!」と、フルシチョフという人物などが動きだし、ベリヤを逮捕。そして彼を処刑しました。

●フルシチョフ政権
 マレンコフ首相は、今までと一転し、軽工業重視政策、それから「核戦争に勝利はなく、文明が破滅する」と、呼びかけ、アメリカと平和共存の道を探ります。そんなマレンコフ首相も保守派によって55年に辞任に追い込まれ、フルシチョフ書記長を中心とする政権が誕生します。

 しかしフルシチョフも、アメリカと「雪解け」「平和共存」政策をとり、一方、軽工業ではなく、彼は伝統的な重工業に力を入れます。さらに、.農業政策に通じていた彼は、農業改革を実施。未開墾の中央アジアの土地を開墾させるなど、積極的に農業開発を行い成功します。

 それから、アメリカと西ヨーロッパが軍事同盟であるNATO=North Atlantic Treaty Organization(北大西洋条約機構)を発足させたのに対抗し、ソ連・東欧8カ国でワルシャワ条約機構を発足させます。また、日本とは北方4島のうち、歯舞・色丹2島を返還するよう提案しますが、日本側は4島返還を求め、この交渉は実質的に決裂に終わります。

 それから、重要なのは彼が1956年2月にのソ連共産党第20回大会で、スターリンを批判した秘密報告をおこなったことです。これは、古参ボリシェヴィキ党員達の要請を受けた、ミコヤンの提案で調査した結果で、こんな感じです。
 ・レーニンがスターリンを批判した遺言の紹介
 ・スターリンへの「個人崇拝」が党と国家に大きな損失をあたえた。
 ・無実の同志に対する大量弾圧
 ・独ソ戦開戦時のドイツに対する無警戒と、戦争指導上の誤り、
 外交政策の誤りに大きな責任がある

 これ、あくまで党内部だけのものだったのですが、どうしたことかアメリカ国務省に暴露されてしまい、各国共産党にも伝わります。「しまった!」と言ったところですが後の祭り。ソ連中枢がスターリンを批判したのですから、もちろん、スターリン崇拝はここに終焉します。一方でこのフルシチョフ発言はやりすぎではないかと言うことになり、保守派にブレーキがかけられました。

 また、スターリン時代に手先として党内の粛清を実施した秘密警察。
 これを、KGBに改組して、逮捕する際には共産党の許可を得るように規則を定めました。逆に言えば、それまでは民主的手続はおろか、共産党の許可すら要らなかったというのですから、恐るべし、秘密警察です。

●ハンガリー事件
 このあと、日本とソ連が日ソ共同宣言を発表し、さらに西ドイツとも国交回復と、ソ連の対外関係は順調そうに見えたのですが、思いがけない事件が起こります。それが、ハンガリー事件。穏健派のハンガリー首相ナジが1955年4月に解任されたことに対する不満が爆発したハンガリー国民が、ナジの復権を掲げて蜂起。

 ナジもこれに押される形で協力し、さらに一党制の廃止、自由選挙の実施、駐留ソ連軍の撤退、ワルシャワ条約機構からの脱退などの宣言まで民衆にさせられます。これにソ連軍が2度にわたり介入。民衆を蹴散らし、ナジを捕らえて処刑。ヨーロッパ諸国はこれにビックリしました。

●フルシチョフ、解任される!?
 ところで、共産党の保守派はフルシチョフが気にくいませんでした。
 というのも、フルシチョフは工業化推進の効率化のために、従来の省を廃止し、国民経済会議へと強制的に改組します。1957年、フルシチョフがいない隙に、モロトフ、カガノヴィチ、久々登場のマレンコフらは幹部会を開いてフルシチョフを解任してしまいます(賛成9人、反対4人=ミコヤン、ジューコフら)。

 これに対し、「そうはさせるか!」と、フルシチョフはすぐに反撃に出て、党中央委員会を開き、反党グループとしてモロトフらを解任します。ちなみに、モロトフがモンゴル大使に左遷されるなど、今までとは違い血を流す粛清はありませんでした。一方、この危機時にフルシチョフに協力した軍のジューコフは自信過剰になって「軍無くして党は動かない」と失言。解任されてしまいます。そして、フルシチョフは軍も掌握し、これで書記局の権力を確立します。

 しかしまだ、フルシチョフの権力は順風満帆ではありませんでした。この後、フルシチョフはキューバ危機等で批判を浴びます。これは、アメリカの侵攻からキューバを守るために核ミサイル基地をキューバに作ったのですが、結局ケネディ政権に譲歩。さらに、アメリカと部分的核実験禁止条約を結ぶなど協調路線を進め、軍と中国共産党から批判を受けます。

 さらに、問題は彼お得意の農業政策にかげりが見えてきました。1963年には、彼の農業政策ミス(無理に作付け面積を増やさせたため、土地が不毛になった)で不作を招くという、失策。これを彼は、党がしっかりしないからだと批判。ついに1964年、ブレジネフらはクーデターに近い状況を作り、フルシチョフに退陣を要求。フルシチョフは健康上の理由を建前に政権の座から降ります。



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