13回 冷戦とデタント

●ブレジネフ政権
 そんなわけで、ブレジネフ第1書記を中心とする政権が誕生。彼は、スターリン批判に「ふた」をすることで、次第に広がっていた知識人他による民主化の動きに釘を刺します。一方、それまで禁書と呼ばれる本があって、人々は自由には読めなかったのですが、家の中では読んでもいいことにします。なかなか、アメとムチの策士ですね。

 しかし、チェコスロヴァキアでプラハの春事件が起こり、大きな衝撃を与えます。
 すなわち、当時、チェコスロヴァキアでは、ドプチェク第1書記らが「人間の顔をした社会主義」を目指して、検閲の廃止、言論や集会の自由、市場経済導入の試みなどの政策が、次々とうちだされていったのですが、これが他国にも波及し、民主化の動きが起こっていく恐れが出てきます。

 当然ソ連は認めるわけにはいきません。ワルシャワ条約機構首脳会議を招集し、ドプチェクを非難するのですが、彼は引き続き改革を進めます。てなわけで、ソ連はついに軍事介入を決定。ドプチェクを逮捕し、抵抗する市民数十人を射殺しました。ちなみに、さすがにこれには資本主義国内の共産党も、こぞって非難しました。

 また、ブレジネフ政権の下、ますます中国の共産党とは関係が悪化。
 一方でアメリカとは、ヴェトナム戦争で両陣営に分かれていたのですが、ちゃっかり核問題をカードにニクソン政権と雪解け(デタント)。ソ連の石油資源と、アメリカの穀物を交換します。石油は石油危機の影響もあって、最初は高く売れました。また、ヘルシンキ宣言
 ・戦後ヨーロッパの秩序を崩さない
 ・人類のために交流を行う(留学生を受け入れ)
 とされ、文化も少し解放。モスクワの町の中でビートルズの音楽が流れるようになります。
 でも、相変わらずモスクワ市民の生活は苦しかったのですが。

 この後、ブレジネフ政権はアメリカのレーガン政権と仲が悪くなり、またアフガニスタン侵攻をおこないます。
 何でレーガンと仲が悪くなったか? それは、ソ連が量的に軍拡を成功したのを見て(と言うか、そう宣伝していたのを信じて)、レーガンはアメリカ軍の質の向上を開始したからです。ソ連は軍拡につながるとこれを強く非難しました。

●ソ連のアフガニスタン侵攻
 アフガニスタン問題について少し書いておきますと、まず1973年7月、ムハンマド・ダーウドという人物が、従兄弟のザーヒル国王を追放して政権をにぎり、アフガニスタンを共和国と宣言したことに端を発します(77年初め、新憲法公布&ダーウドは大統領に就任)。

 ところが、1978年4月にアフガニスタン人民民主党がクーデタを起こしてダーウドを殺害!
 国名をアフガニスタン民主共和国とし、親ソ連のノール・ムハンマド・タラキーが革命評議会議長に就任します。ところが、宗教界を弾圧しイスラム教徒が反発。さらに、内部抗争も起こり、ハフィーズッラー・アミーン首相がタラキーを追放して革命評議会議長の座を奪い、実権を握るのですが、面白いことに、この人物はアメリカ寄りだったんですね。

 ソ連と国境を接する国がアメリカ寄り・・・。安全保障上の問題もあり、許せん話だ!
 というわけで、1979年12月、ソ連軍がアフガニスタン全土に侵攻し、主要都市を占拠。そして、アミーンを処刑し、78年に亡命していた元副大統領のバブラク・カルマルを大統領に就任させます。  ですが、国内の混乱は収まる気配を見せず、多くの人達がパキスタンに難民として向かいました。
 そしてこのソ連よりの政権に対し、アメリカなど西側諸国はイスラム聖戦士(ムジャヒディン)を育てて抵抗を支援。その抵抗運動は強力で、これに手を焼いたソ連軍は、1989年にアフガニスタンから撤退します。しかし、このムジャヒディン達は内部抗争を始めてしまいます。

 ついでに、この後も書いておきましょう。
 この内部抗争に対し、人々は嫌気がさしていたのですが、この中で、パキスタンの援助で、アフガニスタン解放軍が組織されます。主に、パキスタンの難民キャンプにいるアフガニスタン難民の若者が中心で、さらに1994年9月頃、若者とイスラム神学校の教師達で 「タリバーン(神学生)」が組織されます。その勢いは強力で、1996年には首都カブールを陥落。アフガニスタンの支配権を確立した。これに対し、ムジャヒディン3派は北部同盟を結成し、国土の一割をなんとか支配。必死の抵抗を続けます。

 このあとは、皆さんもよく知っている通りです。
 タリバーンは、指導者ムラビ・モハマド・オマルの下、イスラム教の中でも特に独自解釈も加えた厳格な統制を住民に敷き、女性の就労や教育の禁止、さらに体をすっぽりおおうブルカの着用を強要します。一方、男性にはあごひげを生やすことを強要。さらに、映画や音楽、テレビなど、あらゆる娯楽を禁止します。違反者には宗教警察が厳罰を加える・・・。元祖イスラム政権であるイランでさえ「やりすぎだ!」と非難声明を出していたそうです。

 そして、偶像崇拝を禁止して美術館や博物館、さらにはバーミヤンの大仏を破壊。
 さらに2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロの首謀者、ウサマ・ビンラディンと、イスラム過激原理主義組織アルカイダのメンバーをかくまっているらしいことが判明。何故かくまっていたかというと、タリバーン政権はパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦しか承認されておらず、資金力の豊富なビンラディンと組まざるを得なかったとか。

 しかし、バーミヤンの大仏を破壊していたこともタリバン政権に対する国際的な嫌悪感を増幅させ、アメリカ軍と北部同盟による連合作戦が開始。抵抗は厳しい・・・と思われていましたが意外とあっさり、政権の座を追い出され、現在はアフガニスタン南部あたりで再起を伺っている・・・と言った状態のようです。さて、ちょっと長くなりましたね。話を元に戻しましょう。

●話を元に戻して
 1982年、ブレジネフは死去しました。
 そして指導部は84年にアンドロポフ、85年にチェルネンコが死ぬと、いよいよ54歳のゴルバチョフに書記長の座が回ってきます。彼は、ブレジネフが後継者として育てていた人物で、やはり農業官僚出身でした。

●宇宙開発
 ところでソ連は、アメリカに対抗するために宇宙開発にも乗り出します。
 そしてアメリカよりも早く、1957年には人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功(スプートニク=世界の旅行仲間)。
 さらに11月には、それに犬を載せたスプートニク2号の打ち上げ(この次にアメリカが人工衛星エクスプローラ1号を打ち上げ)。
 そして1959年には、ルナ2号が月に衝突。次のルナ3号は、月の裏側の写真を撮影。

 1961年には、ついに有人飛行に成功。ガガーリン(1934〜1968年)が地球を周回し、「地球は青かった」という名言を残します(同じ年、アメリカは周回は出来なかったもののシェバードが宇宙へ。そして翌年に、グレンが周回に成功。最近も宇宙に行ったんだっけ?この人。)

 1963年には、ソ連は初の女性飛行士テレシコワを宇宙へ。
 彼女は、「私はカモメ」と言いました。
 なんのことやら、ですが、つまり彼女は空軍のパイロットで「かもめ─chayka」がコードネームだったからだとか。

 そして65年にはレオーノフが宇宙遊泳を実施。と・・・これ以上書いていたらかなりの量になりますが、このようにアメリカと競争しながら宇宙開発も行っています。探査も続けられ、アメリカのアポロ11号(アームストロング船長)が月に着陸したり(最近、ウソではないかと問題になりましたが)、ソ連が金星の探査を行うなどしています。現在は財政難が課題とか。どうするんでしょうね?

 *そこでこんな情報が寄せられました。
 現在ロシアは軍制も改革してますが、昔は戦略ミサイル軍といえば花形でした。しかしチェチェンでの苦戦を機に通常戦力へ優先的に予算が回るようになり、すっかり寂れてしまいました。耐用年数のすぎたミサイルがまだ飛ぶのを確認しながら、核ミサイルの弾頭を衛星に積み替え、細々とアルバイトしてるそうです。

 また、エクスプローラと言えば・・・?
 中国語のパソコン用語では、IE(インターネットエクスプローラ)が「探検家」、ネットスケープが「導航者」だそうです。
 以上、余談でした。

第14回 さらばソ連!ゴルバチョフの改革とエリツィン

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