14回 さらばソ連!ゴルバチョフの改革

●ペレストロイカ
 話を戻しましょう。
 ゴルバチョフはこの知らせを身内からではなく、スウェーデンから批判と共に知らされます。
 トップに情報が入らないとは何事だ、と言うわけで彼はいっそう情報公開の大切さを身にしみて感じ、さらにチェルノブイリ原発事故は、初歩的ミスによるものであることが問題となります。さらに引き続き初歩的なミスによって飛行機は墜落するし、黒海で客船が衝突し沈没、400名が死亡するなど、だらけきったソ連の悪弊の噴出が起こります。

 そこで、反体制派の物理学者で流刑中のサハロフ博士のモスクワ帰還を発表。
「公開制の立場に立つのだから、同意できない意見であっても、発言する機会を与えるのが原則である」
 ザハロフ文化相の発言です。以前のソ連では考えられず、また今でも通じる、当たり前かつ重要な発言です。

 またゴルバチョフは、グラスノスチと並行して経済のペレストロイカ(再構築)を行い、改革を推進。そして、大統領職を新設し、彼は最初で最後のソ連大統領となります。これに権限を強化させる一方、それまで共産党が一元的ににぎっていた権力を、国民に選挙で選ばれた連邦構成共和国議会へうつします。また、公務員と公的機関による市民の権利侵害による提訴を定めた法律の公布など、西側では当たり前ですがソ連では行われていなかった問題にも手をつけます。

 グラスノスチとペレストロイカ。ゴルバチョフを表す言葉としてあまりにも有名ですが、言葉としてはソ連では昔から使われている普通の言葉です。つまりゴルバチョフは、この言葉を使うことで国内向けには「原点回帰」、そして西側には「改革」を印象づけたのです。

 その一方で、ゴルバチョフよりさらに急進的な改革を求める声も出てきます。その中心がエリツィン。後のロシア大統領です。しかし彼は、ゴルバチョフによってモスクワ市党第一書記を解任されてしまいます。改革を急にやってソ連本体を崩壊させるわけにはいかない、とゴルバチョフが保守派と妥協したからです。

●ゴルバチョフの外交
 ゴルバチョフは、評判が悪いアフガニスタン侵攻をやめ、ソ連軍を撤退させます。また、仲の悪かった中国との国交を正常化。さらにアメリカのレーガン、ブッシュ(父)と一連の軍縮協定に調印します。

 さらに湾岸戦争では、ブッシュ(父)に協力。イラクは長年ソ連の同盟国でしたが、これを切り捨てるなど、アメリカと協調外交を展開し、個々に冷戦は終結。また、ポーランドを皮切りに民主化の波がついにおこりますが、ゴルバチョフはこの波を追認。東西ドイツも統一し、象徴であったベルリンの壁も崩壊するなど、社会主義国達は崩壊していきます。こうしたことから、ゴルバチョフは1990年にノーベル平和賞を受賞しました。

 ちなみにポーランドの民主化というのが興味深いものなんですよ。ここでは詳しく書きませんが、社会主義・労働者の国で1980年、造船所で大規模なストライキが発生。労働者組織である「連帯」、そしてその議長であるワレサ(1943年〜)達を中心にポーランド政府と闘争。ところがポーランド政府も、鎮圧をしながらも「もう先は長くない、どうしたらよいか」「しかし、ソ連の目は怖い。軍事介入だけはされたくない」という状況。

 そこに登場したゴルバチョフ政権。彼は改革を進めていましたので、「もしかしたら、うちも政治改革しても大丈夫?」と、ポーランドのヤルゼルスキ政権は、「連帯」幹部達と円卓会議というものを開きます。ここでお互いに今後の政治システムなどを議論しあい、方針を決定。造船所のストライキから10年。普通選挙が行われ、連帯系のマゾビエツキを首相とする非共産党政権が誕生します。一方で、ヤルゼルスキもちゃっかり大統領になっています(一方、ワレサは1990〜95年にポーランド大統領を務め、現在は政界を引退)。

 そしてポーランドで10年かかったことが、他では堰を切ったように民主化の波が広がっていったのです。

●ウォッカと共に消滅したソ連?
 ゴルバチョフ改革は、こうして彼がどこまで予想していたかはともかく、東ヨーロッパの民主化という形で効果を現します。しかし肝心のソ連は経済状態が悪化。また、ソ連というのは面積の大半を占めるロシア、それからウクラナイナなどの共和国から成立していたのですが、みんな独立を求め始めます。さらに、共産党内保守派からは改革をやめろ、市場経済改革派からは不十分だとゴルバチョフにパッシング。

 そんな中、1991年8月19日のことでごぜえます。
 ゴルバチョフさんは、栗宮・・・じゃない、クリミヤで休暇を過ごしておりました。ところが、ヤナーエフ副大統領をはじめ、多くの政府高官を含む保守派によるクーデターが発生。モスクワが戦車部隊に包囲され、ヤナーエフをはじめとする8名が国家非常事態委員会を名乗り、ヤナーエフは全世界に向けて声明文を読み上げました。

 すなわち、ゴルバチョフが一時的に職務を離れ、ヤナーエフが代行する、というもの。
 この時、なにやら、ガタガタ手が震えていたようで緊張していた・・・、いや、実は酔っぱらっていたとか。まあ、そんなロシア人のウォッカ(ウォトカ)好きのエピソードはさておき(笑)、国営放送に操られていた各マスメディアはクーデター派に与し、というか、国営放送がクーデター派を恐れて、これに味方し、クーデター派の主張を延々と放送していたんだそうですね。

 ところが、視聴率90%を誇ると言われる夜9時のニュース。
 終了直前に、ロシアのホワイトハウス=連邦議事堂前に人々が続々と集まり、抗議している姿が映ってしまったんだから、さぁ、てぇへんだ、親分。視聴者はこれを見逃しませんでしたよ。我先にと、このクーデターに反対する市民達がさらに集結。もちろん、この放送。わ・ざ゙・と・です。

 国営放送のラズトーキン副会長。ちゃっかりこの模様を流させ、
「なに、いざとなったらピストルで死ぬまでさ」
 と、男気ある行動をとります。案の定、ヤナーエフからは電話がかかってきます。
「なんだ、あの放送は!」
 ・・・ちゃいます。そんな事態にはなりませんでした。
「万事上手くいっているな」
 ・・・だったそうです。もちろん
「はい、上手くいっております。」
「では宜しい。」
 酔っぱらいのヤナーエフさん、景気づけにと飲み続けていたようで・・・。 ゴルバチョフを監禁することには成功しましたが、エリツィン(ロシア大統領)を中心とする改革派がゴルバチョフを奪回。クーデターを失敗に終わらせます。ちなみに、逮捕されたときにはヤナーエフはすっかり泥酔していたそうです。あんた、いつまで飲み続けているんだよ。まあ、最後の方はヤケだったのでしょうが。

 なお、こんなアホを副大統領にしたのは、当然ゴルバチョフ。9ヶ月前のことでした。ううむ・・・。

 さて、これによってゴルバチョフの権威は失墜。また、ソ連内はバルト三国の独立を始め分離を開始。結局、12月にロシア、ウクライナ、ベラルーシが独立国家共同体という緩やかな連合を組む新組織を発足。ここにソビエト連邦はその役割を終え、ゴルバチョフは退陣しました。

 なお、お酒と言えば、こういう笑い話があります。
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 無人島にアメリカ人、フランス人、ロシア人の3人の男が漂着した。やがて、神が現れ、3人に言った。
「それぞれ2つだけ願いを言いなさい。私がかなえてあげよう。」
アメリカ人が言った。
「金をくれ、それから帰国させてほしい」
フランス人が言った。
「女が欲しい。それと帰国だ」
2人が去ったあと、最後にロシア人が言った。
「まず、ウォトカを1箱。2つ目は飲み仲間だ。そうだ、あの2人を呼び戻してくれ」
                                 (名越健郎訳 「独裁者達へ!」より)
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