15回 心臓病とチェチェン問題〜波乱のエリツィン政権

●エリツィンさん、ウォッカはホドホドに
 さて、ソヴィエト連邦が解体し話の中心はロシア連邦共和国へと移っていきます。
 初代大統領に就任したのが、ボリス・N・エリツィン(1931〜 位1991〜99年)です。ゴルバチョフによって共産党モスクワ市委員会第1書記などに任命され改革を進めたところ、保守派と対立し、ゴルバチョフによって解任されたのは前回見た通りです。そして民衆からの人気は高かった彼は91年6月のロシア大統領選挙で、勝利。この頃、有名無実になっていたソ連のゴルバチョフ大統領に対して発生した共産党のクーデターを防ぐと、ソ連を解体し、ロシア連邦の歴史がスタートします。

 豪快な人物であるエリツィンの逸話というのも面白いんですね。
 というか、この人もウォッカ(ウォトカ)が好き。まあ、ロシア人一般にそうですけど(最近は実業家を中心に変わってきているようですが)、とにかくエリツィンはウォッカ大好きなんです。例えば、1992年2月、ウズベキスタンの首都タシケントでCIS首脳会議が開催されたのですが、これに出席したエリツィン大統領。鼻の頭が真っ赤の泥酔状態・・・、記者会見で暴言吐きまくります。

 これで懲りたかと思いきや、ドイツでは酔っぱらったままオーケストラの指揮をし、アイルランドでは首脳会議の前に飛行機(特別機
)の中で泥酔し、そのまま爆睡。会議をすっぽかしたとか(もっとも、大統領選に響く、心筋梗塞説を隠すために、「泥酔のため」とし た、と言う話もあります。逆に言えば、泥酔なら国民が納得する、ということ。日本だったら考えられませぬ・・・)。

 まあ、この辺は『ロシアは今日も荒れ模様』(米原万里著 日本経済新聞社)を、お読みください。他にもエリツィン氏、政権に就く前の日本訪問の際、ウォッカへの想いをガバガバそれを飲みながら日本側の関係者に熱く語ったそうですよ。かなり愉快なオッサンであることは間違いないでしょう。

●議会運営は上手くいかず
 このようになかなか面白い人柄だったエリツィン大統領ですが、議会運営はなかなか上手くいきません。
 首相を何人も変えたり、議会を解散したり、この辺は皆さんもまだ良く覚えていると思います。1993年にはルツコイハズブラートフに率いられた何百人もの議員と反エリツィン派のデモ参加者が、モスクワ最高会議ビルを占拠するという事件が発生。エリツィンはこれに非常事態宣言をだし、軍による砲撃で降伏させます。そして12月に国民投票を行い、大統領権を強化する憲法を制定しました。

 この他、急激に資本主義体制へ移行してしまったので、一時は「明るくなったサービス業」などが取り上げられましたが、貧富の差の拡大や、マフィアや財閥の暗躍、官僚の腐敗などが大きく問題になりました。まあ、ソ連時代からの続きとも言えますけどね。

●チェチェン問題
 ところで未だに尾を引いている問題にエリツィンは介入します。
 すなわち、1994年12月に、91年から独立を宣言していたチェチェン共和国に対して侵攻(第1次チェチェン紛争)。これに対し、チェチェンのドゥダーエフ大統領は闘争を宣言します。ロシア軍は首都グロズヌイを占拠するものの、市民が殺されたり、何十万という市民がグロズヌイから避難を余儀なくされるなどしたため、国際批判を浴び、さらに国内の改革派からもエリツィン離れが進みます。

 これもちょっと歴史を観ていきましょう。
 元々、チェチェン地域は18世紀後半にロシア帝国が侵入してきた場所(他の周辺国も狙っていました)。これに対し、イスラム教のシャイフ(指導者)であるマンスールは聖戦を唱え徹底抗戦を開始します。彼は、1791年にロシア軍にとらえられ、94年に獄中で死亡しますが、カフカス戦争と呼ばれる50年にわたる争いが続き、1859年、ロシア帝国に併合されてしまいます。

 これで終わるか、いや、終わらぬ!と、その後も反乱が起きますが鎮圧されちゃいます。
 ソ連が発足すると、山岳自治共和国、チェチェン自治州等と変遷したあと、1936年、この地域一帯はソヴィエト構成国の1つ「チェチェン・イングーシ共和国」とされました。イングーシというのも民族の1つです。つまりセットにされちゃたわけ。

 ところが、第2次世界大戦中に、この地域をナチス・ドイツが占領します。もちろんその後、ドイツは負けるのですが、当時のソ連指導者スターリンは「チェチェン人、イングーシ人はナチスに協力したに違いない!」と考え、現在のカザフスタン共和国に、僅か1日で強制移住させます。しかも老人や妊婦など、移住が困難な人はその場で射殺。これでは恨みを買うのも無理はありません。

 あげくにスターリンが死ぬと「帰還しても良い。ただし援助はしない」となったので、なんとか一部の人達が帰還したところ、すっかりチェチェンはロシア人達の物になっていました。そのため、一部はモスクワに出てチェチェン・マフィアを形成したとか。この辺も今の状況を理解する上で重要そうですね。

 さて、1991年10月にチェチェン・イングーシ共和国で大統領選挙が行われ、ドゥダーエフが当選。ここでチェチェン共和国の分離が行われ、さらに彼はソ連からの独立を宣言。一方、ロシア連邦側は「ロシア連邦構成国に入れ」と要請しますが、お断り、です。ただし、ロシアからの援助で公務員の給料、年金などが賄われていたんですね。

 そのため、エリツィン大統領は「そういうことなら、もう援助はしてやらん」と財政支援を打ち切り。
 ちょいと待った。何でそんなにチェチェンにこだわるんですか。

 実は、チェチェン失うと、ここを横断する石油パイプラインを失ってしまい、さらに他のロシア連邦を構成する共和国も独立する可能性が出てくるのです(他が独立すると、さらに石油パイプライン、ヘタをすると油田も失う)。

 ですから、なんとしてもチェチェンの独立は阻止したかったんです。一方、ドゥダーエフ大統領が独立を宣言したのは、逆にこのパイプラインを獲得し「ここを横断する石油から通行料を取る」というのが狙いだったからと言われています。

 さて、こうなりますとチェチェンの経済は悪化し、ドゥダーエフ大統領は不人気になります。ところが彼はそれに対し議会の解散、首相の解任、大統領直轄統治=独裁を開始。そのため、チェチェン内戦が起こります。

 そこでエリツィン大統領の出番。
 「オレがこの内戦を止めてやる」と、1994年12月にロシア軍をチェチェンに侵攻させます。そして1995年3月、ロシア軍は首都グロズヌイを制圧。一方、反ドゥダーエフ派の親ロシア政権を承認し、これを支援してロシア軍を一帯に駐留させます。

 ところがチェチェンのドゥダーエフ支持の強硬派・武装勢力は人質作戦などを展開し、ロシアを苦しめ、さらにその対応に対する国際的非難(市民の巻き添え等)をロシアに向けさせることに成功します。

 もっとも、1996年4月。
 ドゥダーエフ大統領はロシア軍の攻撃で死亡。一方、武装勢力側も穏健派マスハドフ参謀長が、ロシアとの和平交渉を開始し1997年5月、「独立問題は5年間棚上げ」で合意し(平和と相互関係に関する条約)、さらにマスハドフはチェチェン大統領に当選します。こうして、ロシアによるチェチェンの独立黙認という曖昧な決着を付け、ロシア軍は撤退。これでお仕舞い・・・になるはずだったのですが。強硬派はマスハドフ大統領の言うことを聞かず、テロなどを行っていきます。

●2期目のエリツィン
 チェチェン問題は横におきまして、少し話を前にしましょう。
 1996年には大統領選挙が行われます。これにはゴルバチョフも参戦しますが、ゴルバチョフは1%も得票できず惨敗(マスコミは、グラスノスチで恩恵を受けたこともあり、彼を支援しましたが)。選挙の焦点はエリツィンVS共産党のジュガーノフ委員長でした。決選投票でこれをエリツィンは破り再選を果たします。

 しかし、経済は停滞、さらにエリツィンの心臓病が悪化し、手術と入院を繰り返していたのも覚えていますよね? そのため、この頃エリツィンに代わって、彼の次女タチアナが政治を事実上執っていたのですが、彼女に汚職疑惑が発生し、完全にエリツィンの権威は失墜します。

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