八代将軍 徳川吉宗

●徳川吉宗 基本データ

 生没年 1684(貞享元)年〜1751(宝暦元)年 68歳
 将軍在位 1716(享保元)年〜1745(延享2)年
 父:徳川光貞 母:お由利の方(紋子) 兄:徳川綱教 徳川頼職(よりもと)
 息子:徳川家重 徳川宗武(田安家) 徳川宗尹(むねただ 一橋家)
 

●業績

 ・幕府中興の祖
 ・勘定所を訴訟専門の公事方と、財政専門の勝手掛に分割。職務分担で、互いに仕事をしやすくするようにした。
 ・京都所司代・水野忠之(49歳)を老中に任命し、紀州藩の時と同じように緊縮財政を押し進めた。また、22年には忠之を財政専任の勝手掛老中とする。吉宗自身も倹約につとめた。
 ・弛緩した旗本・御家人を引き締めるため、綱吉によって廃止されていた鷹狩りを復活。吉宗の鉄砲の腕前に幕臣達はびっくりした 
 ・大岡忠相の登用と町火消し「いろは47組」を創設。
 ・ゴミの不法投棄を厳罰に処することを決定。ゴミ運搬業者が川にゴミを不法投棄し、経費節減していたことが問題になったのである。
 ・代官の大量解雇。それまで世襲型の代官が多かったため、これを有能な官僚型代官に変えることにした。彼らを使って、年貢の増徴率アップを図ることになる。
 ・増え続ける訴訟の迅速な処理を行うため、判例を整備し、「公事方御定書」を完成させた。
 ・飛鳥山(東京都北区)を桜の名所に。
などなど・・・。
 以前に特集しているので、徳川吉宗についてはhttp://www.uraken.net/rekishi/reki-edo02.htmlを参照。

●考察・エピソード

 前に特集しているので、そこでは取り上げなかったエピソードから1つ。
 吉宗の治世の時に、日本に象がやってきたという話はご存じだろうか。実は象が日本に来るのは、初めてではなく、室町時代、四代将軍足利義持の時にも来ている。この時は数年後に朝鮮王に送られたとか。その他、豊臣秀吉の時にもマニラ提督から、徳川家康の時にはヴェトナムから象が来たそうで、もちろん両名とも見たらしいのだが、その後は不明。
 
 そして、1728(享保13)年、中国の清の商人によって、雄雌二頭のインド象が長崎に上陸した(うち雌は長崎で死去)。実はこれで五度目。しかし、今と違って昔の映像を見ることが不可能だった時代なので、当然一般の人たちは象について何も知らず、興味津々。享保14年より江戸に向けて出発した象は、途中京都御所で従四位となり(天皇に会うためには位が必要)、中御門天皇霊元上皇に謁見。そして江戸に到着すると一大フィーバーとなったのだが・・・。

 珍しい物好きの吉宗にしては1度見ただけで満足してしまったようで、さっさと民間に払い下げようとした。ところが買い手が付かず浜御殿において13年間飼育。ところが飼育費はバカにならず、自分の餌代は自分で稼げと、象の糞を使った「象洞」という疱瘡の薬を制作し販売。ところがこれは不振に終わる。

 結局、1741(寛保元)年に多摩郡中野村(現東京都中野区)の百姓・源助さんに預けられるも、翌年に象は大暴れ。どうやら、十分に食べさせて貰えなかったのが原因らしく、年末に餓死してしまった。頭蓋骨・牙・鼻の皮は地元の宝仙寺に預けられるが、太平洋戦争で消失し、炭化した牙1本が残っているだけだとか。なお、宝仙寺へは中野坂上交差点から、青梅街道を西へ少し歩くとある。

 ・・・え?吉宗とは関係ない?

次のページ(九代将軍 徳川家重)へ
前のページ(七代将軍 徳川家継)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif