十四代将軍 徳川家茂

●徳川家茂 基本データ

 生没年 1846(弘化3)年〜1866(慶応2)年 21歳
 将軍在位 1858(安政5)年〜1866(慶応2)年
 父:徳川斉順 母:松平みさ
 

●業績

 ・勝海舟を信頼する

●考察・エピソード


徳川家茂が最期を迎えた大阪城。
 家定後の後継者を巡り、
 ・紀州徳川家の徳川慶福を推す井伊直弼らの南紀派
 ・徳川慶喜を推す徳川斉昭島津斉彬阿部正弘らの一橋派
 が争った結果、徳川慶福が将軍の座に就き、家茂と改名した。この時13歳。亡くなったのが21歳で、激動の時代を運営するにはあまりにも精神的に荷が重すぎたのだろう。

 一方で、人柄が大変良く、多くの人に慕われた。特に、上司にはめっぽう辛口で有名な勝海舟ですら心からこの将軍を慕い、文句を言いながらも幕府を支え、また政略結婚で嫁がされてきた、孝明天皇の妹和宮とも非常に夫婦仲が良かったそうである。

 しかし当時、尊皇攘夷に、次第に倒幕の声まで挙がり始め、特に長州藩は公然と敵対。一度は幕府は討伐するも、二度目の反抗の時に、準備は思うようにいかず、家茂は大阪城で短い生涯を終えた。

 自分を差し置いて動き回る朝廷と徳川慶喜を見て、「自分は無能だから辞職したい。後継者は慶喜が良いだろう」と辞意をもらしたこともある。また、老中と論争をする慶喜を見て、「もうどうにでもすればよかろう」と涙を流したこともあった。
 
 そんな不幸な人生を終えた家茂。つまりは、井伊直弼が余計なことをせず、最初から慶喜を将軍にしておけば、家茂はそれなりの生涯を終えられたはずであったのだ。自分が将軍職を望んだわけではないのに、あまりにも悲劇である。

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