十五代将軍 徳川慶喜

●徳川慶喜 基本データ

 生没年 1837(天保8)年〜1913(大正2)年 77歳
 将軍在位 1866(慶応2)年〜1867(慶応3)年
 父:徳川斉昭 母:有栖川宮吉子
 息子:徳川厚 池田仲博 徳川慶久(徳川慶喜家第2代) 徳川誠 勝精(=くわし 勝海舟の婿養子)
 娘:徳川鏡子 徳川鉄子 蜂須賀筆子 松平浪子 大河内国子 伏見宮経子 四条絲子 徳川英子

●業績

 ・フランス式の軍制を整備。
 ・渋沢栄一をヨーロッパに派遣し、見聞を深めさせる。

●考察・エピソード


徳川慶喜が大政奉還を行った二条城。
慶喜は、江戸城の本丸には入らず、二条城や大阪城で活躍することが多かった。
 神君家康の再来ともいわれた慶喜。
 しかし、彼の出身である水戸家の血筋は、事実上徳川吉宗の血で固められた徳川将軍家・尾張家・紀州家と大きく隔絶しており、遠い親戚程度になっていた上、父の水戸9代藩主・徳川斉昭が大奥や譜代大名から評判が悪かったこともあり、折角一三代将軍家慶に見込まれ、一橋家にはいったものの、一四代将軍の座は射止められず、朝廷の圧力で幕府中枢に入り込むも、煙たがられ、非常に腕をふるいにくい状況であった。

 慶喜が将軍に就く前後から、幕府の軍事力が息を吹き返しだすと、彼は反幕府派に恐れられ、事実、フランスと手を組んだ慶喜の下で軍制の改革などが行われたのだが、結果として大政奉還、さらには鳥羽伏見の敗戦であっさり朝廷側に降伏してしまった。その真意は定かではないが、どうやら水戸家は天皇家を中心とする世界を理想としており、慶喜も「朝敵」になることを極端に恐れていたようである。しかも、慶喜の母は皇族の出身である有栖川宮吉子

 結局将軍在位1年にして、江戸を明け渡し、水戸、ついで静岡で謹慎する。この頃、まだ30歳ぐらい。1869年に謹慎がとかれたのちは、狩猟・謡曲など趣味の世界に生き、長く静岡に在住。徳川宗家から定期的に「御定金」が送られて生活したのである。相談相手と朝廷とのパイプ役は勝海舟で、後に慶喜の10男・(くわし)を婿養子に迎えている。

 水面下で調停との和解交渉が進められ、97年、東京となった江戸にようやく帰住。維新の元勲達も大半が死ぬと、慶喜の大政奉還が高く評価されるようになり、1902年に公爵をさずけられ、08年には勲一等旭日大綬章をうけた。

 この他、書きたいエピソードは色々あるが、細かく書くと家康並みに長くなるので五つ紹介したい。厳選しても五つである(笑)。

 まず彼は、豚肉を好んで食べたところから「豚一(とんいち)様」と呼ばれた。またその性格から「剛情公」,幕臣から見れば複雑怪奇きわまりない行動から「二心(にしん)どの」と陰口された。話はずれるが、父・徳川斉昭には男子22人,女子14人,合せて36人の子供がいて,男子は長男を別として,2番目の子供からは数字で幼名を与えた。慶喜は7番目なので「七郎麿」で、11男は「余一麿(よいちまろ)」、20男は「廿麿(はたちまろ)」、20男は「廿一麿(はたひとまろ)」である。

 町人と関わりを持った将軍としては、暴れん坊将軍吉宗が有名。しかし、アレはあくまでドラマでの話。ところが、この徳川慶喜は、何故か江戸の火消しの親分である新門辰五郎と仲がよかった。辰五郎の娘・お芳が慶喜の側室だったことも関係するが、しかし辰五郎とは特別な間柄だったらしく、慶喜が最後に京都に出向いた際には、高齢である辰五郎も部下を率いて付き従っている。親子ほど年の離れている二人だが、とにかくウマが合ったとしか言いようがない。

 ちなみに、辰五郎は慶喜が船で江戸に逃げ帰った際、陸路で江戸に戻り、途中、清水(現・静岡市)で次郎長と仲良くなったことは有名。その後、しばらく慶喜に従い、彼が隠棲した静岡にも住んだ後、江戸でなくなった。

 さて、慶喜は新政府に降伏すると前述のように静岡に隠棲させられるのだが、とにかく極力外界との縁を絶ちきった。どんなに幕末時代に慶喜の下で働いた人物でも、慶喜に会いに行っても面会を断られている。と言うのも、当時は反政府運動が盛ん。そこに慶喜は御旗として担ぎ出されることを嫌い、また旧幕府の人間に、うっかり当時の恨みなどを口走り、問題となることを恐れたのである。が、「長州藩は初めから幕府に反抗していたので許すが、薩摩藩は途中まで幕府に協力したのに裏切ったので許せない」というような事を言ったエピソードも残っている。

 一方で、当時は珍しかった自転車で静岡を楽しそうに走り回っていたため、幕府が滅亡し生活の苦しい旧幕府の人々からは恨まれてしまった。好奇心の方が優先し、また、そこは”貴族”だったのか、多少、相手の心を思いやる心には欠けていたのは間違いなかろう。

 さて、慶喜の功績は、色々な思惑があったにせよ江戸幕府を終わらせたこと。
 だが、もう一つ忘れてはいけないのが渋沢栄一という人材の発掘である。裕福な農家に生まれた渋沢栄一は、尊皇攘夷運動活動をしていたのだが、ひょんなことで慶喜の謀臣・平岡円四郎に推挙され、慶喜に仕えることになってしまった。彼は慶喜に気に入られたらしく、慶喜の弟・昭武がパリ留学に行くことになると、これについて行けることになった。

 この時の経験が、後に日本の実業界の父と言えるほど数多くの会社を設立し、今でもかなりの会社が当時のまま、または合併などで名称を変えつつ大企業として存続。すなわち、徳川慶喜(+平岡円四郎)は間接的に今の日本企業社会を作らせたことになる(もちろん、渋沢栄一の才覚があってこそだが)。渋沢栄一も、何かと面倒を見てもらった慶喜に深く感謝し、後年、慶喜に対する悪い評論を払拭すべく、慶喜の協力の下、幕末当時の回顧録を作成している。これは非常に貴重な資料である。

 そして慶喜と言えば、とにかく多趣味。
 代表的なのは弟の昭武もハマった写真撮影だが、この他にも油絵狩猟,自転車でサイクリング放鷹(ほうよう),打毬(うちまり),将棋刺繍お菓子作り能楽投網(とあみ=網を使った魚釣りのことか)、それから毎日欠かすことなく晩年まで続けた弓道、さらには維新後に大阪城を訪ねたとき、様々最新の軍事兵器を紹介されたあと、おまけとして飯盒(はんごう)炊飯という、皆さんも小学校でやったこともあろうご飯作りを紹介されたのだが、兵器よりもこっちをえらく気に入り、自分でも実行している。

 もちろん、昔の日本のトップが軍事兵器に興味津々では、危険人物としてマークされたであろうが。

 また読書もよくし、さらに政治の世界から一切身を引いたが、新聞を毎日読み、さらに次第に幕末に関する書物が発売されると、これも読み、当時の裏側も知るようになる。大政奉還が坂本龍馬の発案であることも、この時にようやく知った。

 なお、彼の趣味の凄いところは、その殆どがプロ級。ただし、フランス語の勉強だけは忙しいこともあり、やめている。
 また、子作りの方も盛んで、夫人美賀子は子を産まなかったが,同居した側室の中根幸新村信に10男11女をもうけさせた。ちなみにこの2人の側室は顔立ちがそっくりで、どっちが自分の母かなど子供達も普段は殆ど意識しなかったようである。

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