
ウマイヤ朝は東は中央アジアから、西はスペインに至るまで広大な領域を支配したにもかかわらず、自らの家と、イスラム教発祥の地であるアラブの人達を優遇しました。
特に顕著なのが税金。イスラムの税金の基礎は
人頭税と
地租なのですが、これを異教徒と非アラブ人のイスラム教徒にのみかけていました。
異教徒はともかく、イスラム教では信者は皆平等であるという教えになっています。当然、ウマイヤ朝の行為はコーランに違反しています。しかも、税の取り立ては過酷でした。
特に旧ササン朝下にあったイラン人に不満が強く、これに当時、ムハンマド家の人がイスラムの指導者になるべきだという考えが広まってきていたため、ムハンマドの叔父の子孫である
アッパース家が協力。さらに、シーア派の人達も協力し、更にアラブ人の中でも、中心から外された人達はウマイヤ朝に不満を持つ人がいるので連合します。
こうして革命が起こり、ウマイヤ朝は崩壊。この流れを詳しく見ていくと
・747年にイランのマルウ(メルヴ)で、アッパース家が送り込んだ宣教師の
アブー・ムスリムらが蜂起。
・アラブ人の不満分子が革命軍に合流し、749年にイラクの州都クーファを占領。ここは、フサインの時にも出ましたね。
・アッパース家の
アブー・アッバースがカリフに推戴される。
・翌年、アッパース軍はウマイヤ朝最後のカリフ・
マルワーンの軍を撃破。これで、
アッパース朝イスラム帝国が成立。
と、まあこんな感じになります。ウマイヤ朝の皇族の一部は、その後イベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を成立させます。
さて、シーア派の協力を得たアッバース朝ですが、しかし依然としてイスラム教徒の大半はスンナ派。そのため、支配を容易にするためにはスンナ派と手を結んだ方が有利。・・・・そんなわけで、シーア派は弾圧されます。また、事実上この革命の立案者であったアブー・ムスリムも粛清されてしまいました。

さて751年、つまりアッバース朝建国の翌年、玄宗皇帝治世下の、中国の唐という大国が、領土拡大政策をとっていたため中央アジアの
タラス側湖畔にてまで侵入。現地の小王国である石国(タジュケント)から支援を要請されたアッバース軍は出陣し、
高仙芝率いる唐軍に対し大勝します。
この戦いで中央アジアがイスラム勢力圏として確固たるものになった他、最大の歴史への影響は、唐軍からの捕虜の中に紙すき職人がいたため、イスラム世界に製紙法が伝わったことです。800年頃にエジプトに伝わり、古代から使用されてきた
パピルス(カヤツリグサ科の多年草パピルスの茎から作ったもの)に取って代わります。さらに、900年頃、当時イスラムの
後ウマイヤ朝が支配していたスペインにも伝わり、さらに12世紀になってヨーロッパにも紙が作られるようになり、パピルスは姿を消しました。
そんなわけで、この戦いは唐から見れば大敗した恥ずかしい一戦にすぎませんが、中東からヨーロッパにかけては非常に大きな歴史的意義のある戦いなのです。
アッパース朝は、ウマイヤ朝の都ダマスクスに代わるものを建設することにします。アブー・アッパースが在位わずか4年で亡くなった後、第2代カリフになった
マンスール(位754〜775年)は、自らの調査でティグリス側湖畔の小さな村に目をつけました。そこが
バクダード。762年、彼は10万人の建築家・職人・労働者を動員し、この近くに「
平安の都(マディーナト・アッサラーム)」を建設。4年後に完成しました。なお、この「平安の都」は、結局名称が定着しなかったようで、村の名前を取ってバクダードと呼ばれるようになります。
そしてバクダードは世界東西の中心として大発展!世界各地の様々な人(特に商人)が集まり、ついには、戦乱で荒れた唐の長安を抜き、まさに世界一の都市となったのです。
ちなみにバクダードは三重の城壁(真ん中の主壁は34m)に囲まれた円形の都市で、直径は2.35km。4つの門を持ち、それぞれ北東部がホラーサーン門(この門からはシルクロードへ続く)、南東部がバスラ門(イラク空爆で有名になった港町で、海上交通の拠点)、西南部がクーファ門(メッカ方面)、西北部がシリア門(コンスタンティノープル方面)と名付けられ、国際貿易・交通を意図した都市であることがよく解ります。
また、第5代カリフ・
ハールン・アッラシード(
位786〜809年 アラビアンナイトの主人公でも有名)の時、アッパース朝は最盛期を迎えました。最盛期のバクダードには100万人ほど人口がいたと言われていますが、もっとも詳しい数字までは解っておらず、もっと少ないはずだとか多いはずだとか、色々な説があります。
最盛期の余韻は第7代カリフ・マームーン
(位811〜833年)の頃まで続きますが、それに前後してアッバース朝は分裂やカリフ権の大幅な衰退が起こってきます。では、次のページで詳しく見ましょう!