第19回 イスラム帝国の分裂とカリフ権の衰退

○今回の年表

750年 アッバース朝イスラム帝国の成立
756年 イベリア半島をウマイヤ朝第10代カリフの孫アブド=アッラフマーンが奪取し、後ウマイヤ朝を開く。
766年 アッバース朝の新首都・バクダードが完成。
786年 ハールーン・アッラシードがカリフに即位。
794年 日本の桓武天皇が、首都を平安京に遷都。
800年 フランク王国のカール1世が、ローマ教皇よりローマ皇帝の冠を授けられる。
800年 チュニジアがアッバース朝から独立。アグラブ朝が成立。
821年 ホラーサーンでターヒル朝が成立。
867年 イランが独立。サッファール朝が成立。
821年 エジプトが独立。トゥールーン朝が成立。
909年 アグラブ朝に代わり、シーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝が誕生。カリフを名乗る。
918年 朝鮮で高麗が成立。
926年 後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世もカリフを名乗り、イスラム界に3人のカリフが並ぶ。
932年 ブワイフ朝が成立。
946年 ブワイフ朝がバグダードを陥落させ、アッバース朝カリフから「アミール・アルマウワー」の称号をうける。

○ウマイヤ朝は終わらない


 ウマイヤ朝はアッバース朝イスラム帝国に取って代われました。しかしウマイヤ朝第10代カリフの孫・アブド=アッラフマーンは、イベリア半島へ何とかたどり着くと、支援者と共にコルドバの政庁を襲撃。現地のアッバース朝の軍を破り、アミール(藩王)を称し、ウマイヤ朝を復活させます。これを、歴史上は後ウマイヤ朝と区別します。

 そしてそれからしばらくして、ヨーロッパ側では北イベリア半島を中心に、国土回復運動(レコンキスタ)が始まり、後ウマイヤ朝に対して攻撃を仕掛けてきますが、これによく対抗しました。

 最盛期を迎えたのは第8代のアブド=ラフマーン3世(位912〜961年)の時。イベリア半島北部に領土を広げ、ナヴァラ、レオンなどを服属させます。また、首都のコルドバはバクダード、コンスタンティノープルに匹敵する巨大都市となり、モスクは1600、浴場300。図書館70ほどあったとか。まあ、規模は様々でしょうが・・・。また彼は、936年から13年かけて、ザフラー宮殿を造営。これは大理石や黄金、象牙を惜しみなく使った豪勢な物です。さらにこの王は、エジプトに出来たファーティマ朝が「カリフ」の称号を使い出したので、それならば我々も、と「カリフ」を称しました。

 その後、後ウマイヤ朝は、傭兵達(ベルベル人、スペイン人、スラヴ人)の内部争いなどで傀儡のカリフが擁立されるようになり衰退。1031年に滅亡し、新しいイスラムの王朝に取って代わられます。また、後にイスラム勢力をイベリア半島から駆逐することになるキリスト教国家カスティリャ王国が、フェルナン・ゴンザレスによって930年に成立しています。

○ヨーロッパに大きな影響を与えた後ウマイヤ朝

 後ウマイヤ朝は、今のヨーロッパを語る上で大きな影響を与えました。
 例えば食事のマナー。バクダードから招かれた歌手のジルヤーブは、35年間の滞在中に、酒杯を金属製からガラス製に変えさせ、テーブルクロスを麻布から、なめし革に変えるなど、バクダードの先進のマナーを伝え、ヨーロッパにそれは広まります。またこの人物は、料理法をはじめ、専門であるバグダードの音楽や理容術(理容院を開業)や服の着こなしも教えました。

 また、東南アジア原産の砂糖(サトウキビ)が後ウマイヤ朝でも栽培されるようになり、後にそれはヨーロッパにも伝わります。ちなみにこの時期の東南アジア諸国家は、アッバース朝という安定した政権のおかげで貿易が活発に行えるようになります。

○その他、アッバース朝から独立!

 弱体化を始めたアッバース朝。上記の年表を見ても解るとおり、実に数多くの地域で独立が起こっております。もう一度おさらいしましょう。
800年 チュニジアがアッバース朝から独立。アグラブ朝が成立。
821年 ホラーサーンでターヒル朝が成立。
867年 イランが独立。サッファール朝が成立。
821年 エジプトが独立。トゥールーン朝が成立。
909年 アグラブ朝に代わり、シーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝が誕生。カリフを名乗る。
926年 後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世もカリフを名乗り、イスラム界に3人のカリフが並ぶ。
932年 イランでブワイフ朝が成立。
946年 ブワイフ朝がバグダードを陥落させ、アッバース朝カリフから「アミール・アルマウワー(大将軍)」の称号をうける。

 細かく解説していくときりがないので、興味のある方はまた調べてみてください。

 ちなみに、ファーティマ朝を解説しておきますと、シーア派の過激派であるイスマーイールー派が、第4代カリフのアリーと、ムハンマドの娘ファーティマの子孫と称するウバイド・アッラーフをチュニジア地域で擁立したものです。この勢力は、何とカリフの称号を名乗り、その後エジプト・シリアをも征服しました。

 もう一つ、ブワイフ朝というのもシーア派の国家です。彼らは穏健なザイド派に属し、バクダードを陥落させるとカリフから多くの権力を奪い、スンナ派の象徴としてのみアッバース朝カリフの存続を許します。そして、アッバース朝カリフが発行する貨幣に自分たちの君主の名前も書き込ませるようにしました。ただ、同じシーア派ながらファーティマ朝とは仲が悪かったようです。世の中結構複雑ね。

 ちなみに、ブワイフというのは、この王朝を建国した3兄弟の親父の名前です。この3兄弟のうち、末弟のアフマドの軍がバグダードを制圧。カリフから、アミール・アルマウワー(大将軍)の称号を得ました。この政権では、イクター(封土)制というのを採用し、軍人に一定の地域管理と徴税権を与えました。これが元で、その後のイスラム政権ではしばしばこのような方式で軍人を養うことにします。

○こうなると財政危機が・・・・

 長くなりますが、もう少しだけお付き合いを。
 このように、アッバース朝からは地方が独立していくと、当然地方からの収入を中央に集めていたアッバース朝の税収が激減することになります。激減すると、軍を支えるための給料が支払えない。そこで、2つの政策がとられます。
 1.軍人にイクター(封土)や徴税請負権を与える
    →しかし、これは軍人が地元に根付いてしまい、独立の傾向を強める。
 2.逆に軍人と行政官を完全にわけて、行政官にしっかりと税を取らせる。そこから軍人に給料。・・・・そのためには、新たに税金をかける必要があります。

 アイユーブ朝では、農民に税金をかける一方、商人には比較的寛容でした。そのため、農村が荒廃。そこで、その立て直しの意味も含め、商人や交易に税金の比重をかけることにします。

 ・・・と、もちろん反対!の声が出てくるわけで、こうなるともうどうしようもなくなります。そのため、第9代カリフのラーディーは、バスラとワースィトの総督イブン・ラーイクという軍人に大アミールという、あんたに軍事も行政も任せちゃうよ、という位を与えました。その代わり私の地位を守ってね、というわけ・・・。これが、アミール制の始まり。


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