第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月
序章1 ドイツのソ連侵攻

担当:林梅雪
●今回の流れ
 このシリーズでは、第二次世界大戦の中でナチス・ドイツが降伏する直前の1945年4月から日本が連合国に無条件降伏する同年8月15日までの、いわゆる「終戦までの4ヶ月」を重点的に説明していきたいと思います。

 第1回目となる今回は、いきなり本題には入らずに、第二次世界大戦勃発(1939、9)から日本軍による真珠湾攻撃前夜(1941、12)までを、ヨーロッパ戦線、特に独ソ戦を中心に解説していきたいと思います。

●ヴィルヘルム2世が喜んだドイツの勢い
 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、いわゆる第二次世界大戦が勃発しました。
 この直前の8月23日、ドイツ総統ヒトラーは、ポーランド侵攻によってソ連と衝突することを避けるため、ソ連と不可侵条約を締結しました(独ソ不可侵条約)。

 不倶戴天の敵であるはずのドイツとソ連の条約は世界を驚かせ、当時モンゴル−満州国境のノモンハンでソ連軍と衝突していた(ノモンハン事件)、ドイツの同盟国・日本も条約締結に驚愕しました。その表れとして、首相平沼騏一郎は「欧州(ヨーロッパ)情勢は複雑怪奇」との言葉を残し、ほどなく総辞職します。

 そしてポーランドを制圧したヒトラーは、翌年(1940年)春、西ヨーロッパのほとんどを制圧。6月にはパリが陥落し、フランスもドイツに降伏します。この時、去る第一次世界大戦におけるドイツ敗北で退位し、オランダ亡命中の老いた前ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、自らの成し得なかったヨーロッパ制圧をヒトラーが短期間で成し遂げるのを目の当たりにし、フランス降伏後、ヒトラーに対して祝電を送っています。

 こうしてフランス降伏後、ドイツの唯一の敵対国となった島国イギリスでは、ウィンストン・チャーチル首相が「我々は絶対に降伏しない。(We shall never surrender.)」と演説し、徹底抗戦の意志を明確にしました。これに対しヒトラーは当初、様々な手法を使ってイギリスとの和平を求めましたが、失敗に終わります。

 そのためヒトラーは、多少迷った後、1940年8月にドイツ空軍によるイギリス本土への空爆を開始させます。軍事施設のみならず、後にはロンドンも空襲しましたが、イギリス側の抵抗は思いのほか激しく、ドイツ軍は制空権を握ることができませんでした。

 ヒトラーはイギリスを空から屈服させるのは不可能だと悟り、早々に見切りをつけ、ソ連侵攻を視野に入れるようになります。イギリスの戦意をくじくためというのがその理由でしたが、ソ連はヒトラーがその著書「我が闘争」でも述べたように、ドイツ民族の生存権を拡大するための標的でもありました。

 ちなみにチャーチルはフランス降伏直後、既に将来を言い当てるような発言をしています。
「ヒトラーは必ず、イギリスに侵攻しなければならない。そうしなければ、彼は負ける。ヒトラーはイギリス侵攻に失敗すれば、東方(ソ連)に向かわざるをえない。そして負けるのだ。」

●ドイツのソ連侵攻に対する動き
 さて、話を少し前に戻しましてドイツによるイギリス攻撃の最中。
 1940年11月、ソ連のモロトフ外相はベルリンを訪問し、ヒトラー総統と会談しました。表面的な友好ムードの裏でソ連とドイツの対立が表面化し、モロトフ訪問の期間中にヒトラーはソ連侵攻を万難を排して行う決意を固めることとなります。

 それでもヒトラーは本心を隠し、モロトフには「次はイギリス上陸作戦を実行する気だ」等と語り、モロトフが帰国する際には、スターリンとの直接会談を申し入れるなどの偽装工作をし、結果的にスターリンを欺くことに成功しました。

 一方、1930年代の大規模な粛清により自らソ連軍(赤軍)の弱体化を招いてしまったスターリンは、ドイツ軍のソ連侵攻を遅らせようと必死な努力を続けます。例えば、1941年3月末。スターリンはヒトラーの関心をそらすため、当時ドイツの勢力下にあったユーゴスラビアに工作員を派遣し、反独クーデターを画策します。ところがヒトラーは素早く反応し、ソ連侵攻は1ヶ月延期されたものの中止にはなりませんでした。

 またスターリンは、二正面戦争を避けるために、ドイツの同盟国であった日本との条約を模索します。独ソ不可侵条約締結時に煮え湯を飲まされていた日本は、ドイツから幾度となく対ソ参戦の件を出されていたにも関わらず、松岡洋右外務大臣がモスクワを訪問。東南アジア進出で背後の憂いを絶つため、ソ連との中立条約に調印しました(日ソ中立条約、1941年4月)。

 このように、日独伊三国同盟は日独の同床異夢に過ぎなかったと言えます。

 1941年6月22日、ついにドイツはソ連に侵攻しました。ヒトラーは「ソ連は腐った建物のようなものだ。ドアを一蹴りすれば崩壊する」と豪語し、短期の決着に自信を覗かせていましたが、一方でこうも述べています。「ソ連はさまよえるオランダ船に似ている。どの戦争を始める場合も、暗闇のドアを開けるようなものだ。暗黒の中に何が隠されているか、誰にも分からない。」

 これに対し、反共主義者として有名なチャーチルでしたが、「もしヒトラーが地獄を侵略するなら、私は少なくとも悪魔を応援してやる」と述べ、積極的なソ連援助を行っていきます。ソ連への援助は大英帝国植民地よりも優先して行われた為、後日、日本の東南アジア進出に有利に働きます。そしてその、ドイツ同盟国の日本は多少ためらった末に、日ソ中立条約を遵守し東南アジア方面への進出(南進)することを、7月2日の御前会議(天皇の御前で行う会議)で決定しました。

●戦いの行方
 さて、開戦当初のドイツ軍の進撃は目覚しく、ソ連側は手痛い敗北を被ります。スターリンは開戦以後の敗北を一切認めず、国民に訴えることすら拒んで公の場から姿を隠しましたが、多くの官庁がモスクワから地方に疎開する一方で、彼自身はモスクワに留まり、威信低下を何とか防ぎます。

 また幸運なことに、130年前にナポレオンを打ち負かした冬将軍が例年より早く到来し、ドイツ軍はモスクワ近郊に迫りながら前進できない状態に陥ってしまいます。一方モスクワには、シベリアから冬の戦闘に慣れたソ連極東軍が到着します(日本が対ソ戦に参加しなかったのでこれらの部隊を派遣することができた)。

 これによりソ連軍は反撃を開始。
 12月8日、無敵を誇ったドイツ軍は退却を始めました。 

 そして同じ頃、日本は真珠湾奇襲攻撃を実行し、太平洋戦争が勃発するのです。ちなみに、独ソ戦については裏辺金好所長のロシア史でも触れていますので、こちらからどうぞ。

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