第14回 五賢帝・ローマ帝国の盛衰とキリスト教の受容

○今回の年表

79年 ヴェスピオ火山の噴火で、ポンペイなどが火山灰の下に埋もれ多数の死者が出る。
98年 トラヤヌス帝即位、ローマ帝国の領土最大に。
144年頃 (インド) クシャーナ朝で、カニシカ王が即位。王朝の最盛期と仏教の保護。
161年 マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が即位。
193年 軍人皇帝時代(〜284年 235年〜284年との見方もあり)
220年 (中国) 後漢が滅亡。魏・呉・蜀漢の三国志時代が開始。
236年 (イラン) ササン朝ペルシアの成立。
239年 (日本) 邪馬台国の卑弥呼、中国の魏に使者を送り、金印を受け取る。
265年 (中国) 魏が滅亡し、晋が成立(〜316年)。
284年 ディオクレティアヌス帝が即位、軍人皇帝時代終結。ローマ、オリエント風専制政治へ。
320年 (インド) グプタ朝が成立
395年 ローマ、東西に分割。

○五賢帝の時代

 さて、何でローマ帝国が、左図のような広大な領域を支配できたか。それは、属州が上手く機能していたからです。ローマの基本姿勢は寛容と厳罰。反抗さえしなければ、寛大です。あとはこの2点。
 ・在来の慣習・宗教を認めた。
 ・高度な土木技術を使い、水道橋や円形闘技場など、いわばローマと同じ建築物をそこら中に建て、畏怖と尊敬を受けた。

 ちなみにこの土木技術。基本はギリシャの技術です。ただし、模倣にとどまらずローマ人達は応用に優れ、優れたものを残しました。アッピア街道に代表される道路もその一つ。きちんと石をつめたその堅固な作りは、今でも一部が使用されるほどです。道路は、ローマ全土に建設され、交通の便を飛躍的に向上させました。「すべての道はローマに通ず」と称されます。

 ちなみに、こちらが最盛期のローマの街並みのうち、政治や祭事の中心であるフォロ・ロマーノと、隣接して広がる高級住宅街、パラティーノの丘の想像図。(※コロッセオ近くの案内板を撮影したもの)

 まさに大都会といった感じで、所狭しと建物が密集しています。ちなみに右手に少し見えるのがコロッセオ。また、パラティーノの丘には道路を横断する形で水道橋が引き込まれています。

 ローマ時代の街並みを今に伝えているのが、古代都市ポンペイ。ナポリ近郊にあるイタリア南部の都市で、79年にヴェスピオ火山の噴火で、住民達と共に火山灰の下に埋まってしまいました。幸か不幸か、このために、発掘された後、現在の私たちにローマ人達の街や、暮らしぶりを見せてくれます。


 住宅のみならず、円形闘技場なども残っています。

 また、ウェスパシアヌス帝(位69〜79年)のユダヤ戦争の戦勝記念として、81年にフォロ・ロマーノに建てられたティトゥスの凱旋門は、現存最古の凱旋門です。

 そんなローマの最盛期を演出したのが「五賢帝」と総称される5人の皇帝です。

1.ネルワァ帝(位 96〜98年)


ネルウァ帝の胸像(ローマにて)  ウェスパシアヌス帝の後、彼の息子であるティトゥス帝(位79〜81年)、ドミティアヌス帝(位81〜96年)の兄弟と続き、ドミティアヌスが暗殺された後に、元老院の推挙によって即位したのが、ネルワァ帝です。彼は、貧しい自由民の子供達に養育費を与えるなど、優れた政治を行います。同時に、能力のある養子を迎える事で、ローマの安泰をはかることを決めました。

2.トラヤヌス帝(位 98〜117年)


トラヤヌス帝の胸像(コロッセオにて)  スペイン(イスパニア)出身で、ネルウァの養子。対外遠征を盛んに行い、彼の時代に帝国の領土は最大となります。それは、ルーマニアに、イランにイラクにと、広大な版図を支配します。「最良の君主」と貨幣には刻まれました。こうした業績が実現できた背景は、彼自身の軍事的才能もさることながら、元老院をしっかりと掌握できたことです。

 こちらはローマに今も残る、トラヤヌスのフォロ(写真手前)と、トラヤヌスの市場(写真奥)。


その名のとおり、トラヤヌス帝が整備したもので、上写真のトラヤヌスの市場は、保存状態が非常によいのが特徴です。この市場は、今のショッピングセンターのような建物で、整然と店が配置され、雨の日でも濡れずに買い物が出来るようになっています。ローマ帝国、恐るべし。

 なお、ローマ帝国滅亡後も利用され、1200年には上部にミリツィエの塔が増築されています。


 その付近には、トラヤヌスの記念柱があります。

 これは、113年に建設された高さ約40mの記念柱で、101〜102年、105〜106年のダキア遠征(現在のルーマニア)について、ローマ軍の出陣から戦闘、敵を捕虜にするシーンなどが掘られ、戦絵巻となっています。また、内部は空洞になっていて、螺旋階段を登ると上の展望台に出ることが出来る構造です。

3.ハドリアヌス帝(位 117〜138年)

 トラヤヌスの甥で、彼がトルコ南東部の属州キリキアの小村セリヌスで死ぬ直前に養子となります。コンスルや、アテネの筆頭(アルコン)などを歴任。彼は、領土拡張政策をやめ、防衛に専念します。例えば、ブリタニア(イギリス)にはハドリヤヌスの長城と呼ばれるものを築き、異民族(ケルト民族)の侵攻・反攻を防ごうとします。

 また、ギリシャ文化が大好きで、多数のギリシャ風建築を行い、自分の格好もギリシャ風。「小さなギリシャ人」とまで言われました。また、在位中のほとんどを属州旅行に費やし、直々の視察によって各属州のローマへの忠誠を誓わせます。こうして地方の実情も見聞し、統治を行いました。


ハドリアヌス帝の胸像(ローマのサン・タンジェロ城にて)  それからローマ皇帝で、初めてヒゲを生やした人間でもあります。ヒゲを生やすのは、どうやらこの時代の上流階級での流行だったようで、ハドリヤヌスも、それに倣ったようです。次にヒゲのない皇帝がでるのは、キリスト教を受容したコンスタンティヌス帝。

 ところで、即位直後に元老院議員4名を処刑したため、元老院からの評判はがた落ちになります。何で処刑したのか、当時から今に至るまで多くの研究が行われていますが不明。ただ、 本当にトラヤヌスはハドリアヌスを養子にしたのか、陰謀ではないか?という声が当時からあって、元老院議員4名の処刑は、口封じではないのか?等と疑われています。

 もっとも、ハドリアヌスは最初に4人の元老院議員を処刑したあとは、とにかく元老院議員を尊重します。貧しい議員には援助もします。その他のエピソードとしては、彼は公衆浴場にも良く出かけ、旧知の人が壁に背中をこすりつけてるのを見て「何をしているのだ」と訊いたところ、「垢をする奴隷がいないんです」と答えたため、気前よく奴隷を与えます。彼の気前の良さは有名だったようです。

 ちなみに、別の日に公衆浴場に行ったところ、他の人達も壁に背中をこすりつけていた(つまり、私にも奴隷下さい)ので、「みんなでお互いの垢をこするように」と命令したとか。一方で、フルメンタリイという密偵(元々は軍隊の食料を調達。その手口が汚いので嫌われた)を使って、有力者の私生活を調べさせました。

 また、彼には実子がおらず、義兄(姉の夫)セルウィアヌスの孫フスクスが有力でした。ところが、養子にしたのは全く関係のないケイオニウス・コモンドゥス。彼をアエリウス・カエサルと名乗らせます。そして、この養子縁組を喜ばなかったとして、セルウィアヌスとフクフスを自殺させました。何でこんな事をしたのかも疑問です。が、ともかくこれで元老院からの評判は再びがた落ち。

 しかも、アエリウスはほどなく病死。その次、138年に養子となったのが、次の皇帝アントニウス・ピウスです。そして、ハドリヤヌスは、その年のうちに62歳で死去しました。

 今では五賢帝の一人に数えられていますが、この事件、それから即位当初の事件、ハドリヤヌスの気性の激しさによって元老院は「暴君」と分類することにしました。しかし、アントニウス・ピウス帝は「そうすると、私は暴君の養子と言うことになる。やめて欲しい。」として、名君に分類させました。

 ちなみに、彼の時代の建築で有名なものが、こちらのパンテオン
 紀元前25年に初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによってローマに建造された神殿で、パンテオンとは「すべての神々の神殿」を意味します。80年に焼失したため、118年から128年に掛けて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建されたものです。再建後もアグリッパへの敬意をこめて、その名前が正面に記されているのがよく分かりますね。

 608年頃に、キリスト教の聖堂となったことから、そのまま使用され続け、今でも完全な姿で残っているのは驚くべきことです。また、形状が非常に特徴的で、直径とドーム頂上までの高さが、ともに43.3m。鉄筋を用いない石造建築としては世界最大で、ローマの高い土木技術を遺憾なく現代に示しています。また、正面のオベリスクはイシス神殿にあったものです。

4.アントニヌス・ピウス帝(位 138〜161年)

 平和と安定。基本的にはそれだけ。でも、維持って結構大変なことですし、元老院と協調し、また亡くなった妻の名の基金の設立し、貧しい少女達への養育費の援助を行います。なにより大きな反乱は起きませんでした。

 穏和な人物で愛されましたが、単なるお人好しではなく、彼の次の皇帝&娘婿で、幼い頃から可愛がられたマルクス・アウレリヌス・アントニウス帝によると、「自分への賞賛・追従をやめさせた」「帝国政治に日々休むことなく、神経を尖らせた。色々な批判にもじっと耐えた」とのことで、かなり大変な日々だったようです。もしかすると、彼が一番の名君かもしれません。



アントウニウス・ピウスとファウスティーナの神殿(フォロ・ロマーノにて)
アントニウス・ピウス帝が亡き皇后ファウスティーナを偲んで、141年に建設したもの。

5.マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(位 161〜180年)

 ストア派と呼ばれる哲学者の1人という一面を持つ皇帝で、この哲学に基づき、戦中で書いた「自省録」は、名文として名高い・・・が、どうやら公開を前提にしていなかったようで、愚痴の固まりでもあります(その代わり、人に見せる物ではないので、彼の本心はよく解ると思います)。また、ストア派がどんな哲学だったかを表していますね。

 また、貧しい人達に配慮した政治を行います。具体的には減税、奴隷の待遇改善、天然痘なる疫病に帝室の財産を売り払って対策。一方、彼の治世には多くの反乱、異民族との戦争が行われまして、アントニウス・ピウス帝の時代とは正反対でした。天然痘も、戦争によって持ち込まれた物です。

 しかし、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は、自分の息子コンモドゥスを暗愚にもかかわらず帝位につけてしまいます。このため、ローマは再び乱れ、以後軍人達が勝手に擁立した皇帝が出てきます。なんと、50年間に18人もの皇帝が。下級兵士の出身が多く、しかも擁立の理由は大食いだから、などのくだらない理由。要は、みんなで操りやすければいいわけ。しかし、利害対立からすぐに殺され、天寿を全うした皇帝は早死した1人だけでした。

○衰退するローマ

 そんな中、ディオクレティアヌス帝(位284〜305年)は、強大な軍事力と政治力でようやくこの争いに収拾をつけます。彼は、クロアチアの貧農の息子ですが、頭角を現して部下から擁立されました。そのまま、あっさり終わらなかったのが、彼の凄いところでしょう。
 彼は、ローマの支配を円滑に勧めるために形だけ残っていた共和制を廃止。以後、専制君主政(ドミナトゥス)に移行します。また、帝国を12の管区と101の属州に分け、さらに帝国を東西に分けます。さらにそれぞれに正帝(アウグストゥスという呼称)・副帝(カエサルという呼称)をおき、実質4等分します。

 また、キリスト教に対しては当初は寛容でしたが、勢力拡大を恐れ大弾圧を行います。

 次のコンスタンティヌス帝(位 324〜337年)は、306年より副帝でしたが(310年に正帝を自称)、他を倒してローマを再統一。313年にはミラノ勅令を発布し、キリスト教を保護します(ちなみに、この頃彼は西の正帝で、東はリキニウスという人物が正帝だった。324年にリキニウスはコンスタンティヌスに倒される)。

 これは312年、コンスタンティヌスがキリストの夢を見た後、ローマ北端のムルヴィウス(ミルヴィオ橋)の戦いで、ライバルのマクセンティウスに勝利したから、といわれています。また、326年には自らニケーア公会議を開き、キリスト教の思想についての確立にも尽力するほどです。

 なお、このニケーア公会議でキリストは神の子で、また神と同質であるというアタナシウス(205頃〜373年)の説が正当となり、対立していたアリウスの説(神には始まりも生まれもない。従って、キリストは神の子であっても同質ではないのだ)という説が異端とされました。この異端という言葉、キリスト教ではよく出てきます。


 ちなみに312年に戦勝後、315年にローマに完成した凱旋門が、コンスタンティヌスの凱旋門です。

 また彼は、退廃著しいローマを事実上放棄し、「第2のローマ」としてコンスタンティノープルを建設。元々ビサンティウムという都市名でしたが、改名され、首都機能はここにうつったのです。そして、官僚制度の確立と、人々の職業選択の制限を行いました。

 こうして、新しい地でローマ帝国の規律と秩序の復興を行おうとしたのですが、フン族やゴート族など異民族との抗争も激化し、大帝国を皇帝1人で管理できるような余裕はありませんでした。そこで、364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、直ちに帝国を再び分割。

 その後、主に西側では混乱が続き、東側の皇帝であったテオドシウス1世(位379〜395年)は、394年に再びローマ帝国を統一します。しかし翌年に亡くなるにあたって、彼は2人の息子を東西で皇帝位に就け、やはりローマ帝国を再分割しました。

 これ以後、ローマを首都とするのは、西ローマ帝国、コンスタンティノープルを首都とするものは東ローマ帝国と呼ばれます。なお、当時は互いに「ローマ帝国」を名乗っており、西、東と区別するのは、後世に便宜上呼ぶものです。

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