| 98年 |
トラヤヌス帝即位、ローマ帝国の領土最大に。 |
| 144年頃 |
(インド) クシャーナ朝で、カニシカ王が即位。王朝の最盛期と仏教の保護。 |
| 161年 |
マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が即位。 |
| 193年 |
軍人皇帝時代(〜284年 235年〜284年との見方もあり) |
| 220年 |
(中国) 後漢が滅亡。魏・呉・蜀漢の三国志時代が開始。 |
| 236年 |
(イラン) ササン朝ペルシアの成立。 |
| 239年 |
(日本) 邪馬台国の卑弥呼、中国の魏に使者を送り、金印を受け取る。 |
| 265年 |
(中国) 魏が滅亡し、晋が成立(〜316年)。 |
| 284年 |
ディオクレティアヌス帝が即位、軍人皇帝時代終結。ローマ、オリエント風専制政治へ。 |
| 320年 |
(インド) グプタ朝が成立 |
| 395年 |
ローマ、東西に分割。 |

さて、何でローマ帝国が、左図のような広大な領域を支配できたか。それは、属州が上手く機能していたからです。ローマの基本姿勢は寛容と厳罰。反抗さえしなければ、寛大です。あとはこの2点。
・在来の慣習・宗教を認めた。
・高度な土木技術を使い、水道橋や円形闘技場など、いわばローマと同じ建築物をそこら中に建て、畏怖と尊敬を受けた。
ちなみにこの土木技術。基本はギリシャの技術です。ただし、模倣にとどまらずローマ人達は応用に優れ、優れたものを残しました。
アッピア街道に代表される道路もその一つ。きちんと石をつめたその堅固な作りは、今でも一部が使用されるほどです。道路は、ローマ全土に建設され、交通の便を飛躍的に向上させました。「すべての道はローマに通ず」と称されます。
そんなローマの最盛期を演出したのが「五賢帝」と総称される5人の皇帝です。

古代ローマの中心部フォロロマーノにあるサトゥルヌス神殿。ちなみに、フォロとは英語でいう「フォーラム」のこと。つまり、広場という意味。
(写真撮影: 無料写真素材 p-fan.net)
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古代ローマの中心部フォロロマーノにあるアントニヌスとファウスティーナの神殿。141年の建築で、7、8世紀頃にサン・ロレンツォ・イン・ミランダ教会として改修されている。良く残っていますよ、すごい!
(写真撮影: 無料写真素材 p-fan.net) |
貧しい自由民の子供達に養育費を与えるなど、優れた政治を行います。同時に、能力のある養子を迎える事で、ローマの安泰をはかることを決めました。
スペイン(イスパニア)出身で、ネルウァの養子。対外遠征を盛んに行い、彼の時代に帝国の領土は最大となります。それは、ルーマニアに、イランにイラクにと、広大な版図を支配します。「最良の君主」と貨幣には刻まれました。こうした業績が実現できた背景は、彼自身の軍事的才能もさることながら、元老院をしっかりと掌握できたことです。
トラヤヌスの甥で、彼がトルコ南東部の属州キリキアの小村
セリヌスで死ぬ直前に養子となります。コンスルや、アテネの筆頭(アルコン)などを歴任。彼は、領土拡張政策をやめ、防衛に専念します。例えば、ブリタニア(イギリス)には
ハドリヤヌスの長城と呼ばれるものを築き、異民族(ケルト民族)の侵攻・反攻を防ごうとします。
また、ギリシャ文化が大好きで、多数のギリシャ風建築を行い、自分の格好もギリシャ風。「小さなギリシャ人」とまで言われました。また、
在位中のほとんどを属州旅行に費やし、直々の視察によって各属州のローマへの忠誠を誓わせます。こうして地方の実情も見聞し、統治を行いました。それからローマ皇帝で、初めてヒゲを生やした人間でもあります。ヒゲを生やすのは、どうやらこの時代の上流階級での流行だったようで、ハドリヤヌスも、それに倣ったようです。次にヒゲのない皇帝がでるのは、キリスト教を受容したコンスタンティヌス帝。
ところで、即位直後に元老院議員4名を処刑したため、元老院からの評判はがた落ちになります。何で処刑したのか、当時から今に至るまで多くの研究が行われていますが不明。ただ、
本当にトラヤヌスはハドリアヌスを養子にしたのか、陰謀ではないか?という声が当時からあって、元老院議員4名の処刑は、口封じではないのか?等と疑われています。
もっとも、ハドリアヌスは最初に4人の元老院議員を処刑したあとは、とにかく元老院議員を尊重します。貧しい議員には援助もします。その他のエピソードとしては、彼は公衆浴場にも良く出かけ、旧知の人が壁に背中をこすりつけてるのを見て「何をしているのだ」と訊いたところ、「垢をする奴隷がいないんです」と答えたため、気前よく奴隷を与えます。彼の気前の良さは有名だったようです。
ちなみに、別の日に公衆浴場に行ったところ、他の人達も壁に背中をこすりつけていた(つまり、私にも奴隷下さい)ので、「みんなでお互いの垢をこするように」と命令したとか。一方で、
フルメンタリイという密偵(元々は軍隊の食料を調達。その手口が汚いので嫌われた)を使って、有力者の私生活を調べさせました。
また、彼には実子がおらず、義兄(姉の夫)セルウィアヌスの孫フスクスが有力でした。ところが、養子にしたのは全く関係のない
ケイオニウス・コモンドゥス。彼を
アエリウス・カエサルと名乗らせます。そして、この養子縁組を喜ばなかったとして、セルウィアヌスとフクフスを自殺させました。何でこんな事をしたのかも疑問です。が、ともかくこれで元老院からの評判は再びがた落ち。
しかも、アエリウスはほどなく病死。その次、138年に養子となったのが、次の皇帝
アントニウス・ピウスです。そして、ハドリヤヌスは、その年のうちに62歳で死去しました。
今では五賢帝の一人に数えられていますが、この事件、それから即位当初の事件、ハドリヤヌスの気性の激しさによって元老院は「暴君」と分類することにしました。しかし、アントニウス・ピウス帝は「そうすると、私は暴君の養子と言うことになる。やめて欲しい。」として、名君に分類させました。
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4.アントニウス・ピウス帝(位 138〜161年)
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平和と安定。基本的にはそれだけ。でも、維持って結構大変なことですし、元老院と協調し、また亡くなった妻の名の基金の設立し、貧しい少女達への養育費の援助を行います。なにより大きな反乱は起きませんでした。穏和な人物で愛されましたが、単なるお人好しではなく、彼の次の皇帝&娘婿で、幼い頃から可愛がられた
マルクス・アウレリウス・アントニウス帝によると、「自分への賞賛・追従をやめさせた」「帝国政治に日々休むことなく、神経を尖らせた。色々な批判にもじっと耐えた」とのことで、かなり大変な日々だったようです。もしかすると、彼が一番の名君かもしれません。
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5.マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(位
161〜180年)
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ストア派と呼ばれる哲学者の1人という一面を持つ皇帝で、この哲学に基づき、戦中で書いた「
自省録」は、名文として名高い・・・が、どうやら公開を前提にしていなかったようで、愚痴の固まりでもあります(その代わり、人に見せる物ではないので、彼の本心はよく解ると思います)。また、ストア派がどんな哲学だったかを表していますね。
また、貧しい人達に配慮した政治を行います。具体的には減税、奴隷の待遇改善、天然痘なる疫病に帝室の財産を売り払って対策。一方、彼の治世には多くの反乱、異民族との戦争が行われまして、アントニウス・ピウス帝の時代とは正反対でした。天然痘も、戦争によって持ち込まれた物です。
しかし、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は、自分の息子
コモンドゥスを暗愚にもかかわらず帝位につけてしまいます。このため、ローマは再び乱れ、以後軍人達が勝手に擁立した皇帝が出てきます。なんと、50年間に18人もの皇帝が。下級兵士の出身が多く、しかも擁立の理由は大食いだから、などのくだらない理由。要は、みんなで操りやすければいいわけ。しかし、利害対立からすぐに殺され、天寿を全うした皇帝は早死した1人だけでした。
そんな中、
ディオクレティアヌス帝(位284〜305年)は、強大な軍事力と政治力でようやくこの争いに収拾をつけます。彼は、クロアチアの貧農の息子ですが、頭角を現して部下から擁立されました。そのまま、あっさり終わらなかったのが、彼の凄いところでしょう。
彼は、ローマの支配を円滑に勧めるために形だけ残っていた共和制を廃止。以後、専制君主政(ドミナトゥス)に移行します。また、帝国を12の管区と101の属州に分け、さらに帝国を東西に分けます。さらにそれぞれに正帝(アウグストゥスという呼称)・副帝(カエサルという呼称)をおき、実質4等分します。
また、キリスト教に対しては当初は寛容でしたが、勢力拡大を恐れ大弾圧を行います。
次のコンスタンティヌス帝(位 324〜337年)は、306年より副帝でしたが(310年に正帝を自称)、他を倒してローマを再統一。313年にはミラノ勅令を発布し、キリスト教を保護します(ちなみに、この頃彼は西の正帝で、東はリキニウスという人物が正帝だった。324年にリキニウスはコンスタンティヌスに倒される)。これは312年、コンスタンティヌスがキリストの夢を見た後の戦いで、ライバルのマクセンティウスに勝利したから、といわれています。それどころか、326年には自らニケーア公会議を開き、キリスト教の思想についての確立にも尽力するほどです。
なお、このニケーア公会議でキリストは神の子で、また神と同質であるというアタナシウス(205頃〜373年)の説が正当となり、対立していたアリウスの説(神には始まりも生まれもない。従って、キリストは神の子であっても同質ではないのだ)という説が異端とされました。この異端という言葉、キリスト教ではよく出てきます。
ちなみに312年に戦勝後、ローマに作られた凱旋門が、有名なコンスタンティヌスの凱旋門です。
また彼は、退廃著しいローマを事実上放棄し、「第2のローマ」としてコンスタンティノープルを建設。元々ビサンティウムという都市名でしたが、改名され、首都機能はここにうつったのです。そして、官僚制度の確立と、人々の職業選択の制限を行いました。
こうして、新しい地でローマ帝国の規律と秩序の復興を行おうとしたのですが、もはや大帝国を皇帝1人で管理できるような余裕はなく、跡を継いだテオドシウス帝(位379〜395年)は、再びローマ帝国を分割。2人の息子に分け与えました。これ以後、ローマを首都とするのは、西ローマ帝国、コンスタンティノープルを首都とするものは東ローマ帝国と呼ばれます。
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