第19回 ヴァイキング・北欧諸国とイングランド

○イングランド(グレートブリテン)地域


 イギリスファンの皆様、長らくお待たせしました(笑)。ここからはイギリス、イングランド、グレートブリテン島のお話です。面倒なので、この辺ひっくるめてイングランドと呼びます。本当はいけないのですが、ご免なさい。

 イングランドといえば、まず前2500年ごろ。 ストーンヘンジで有名な巨石文化が誕生しています(最近、怪しまれていますが・・)。その後、前1000年ごろからケルト人が進出。彼らは、鉄器や馬車を使い、またドルイドと呼ばれる神官による神権政治が行われます。

 そして、ローマの手が伸びてきます。前1世紀半ば、カエサルによる2度の侵攻が行われ、次に後43年にローマ帝国のクラウディウス帝が本格的な侵攻を開始。これに対しケルト民族は抵抗し、結局122年、ハドリアヌス帝はローマ版万里の長城、「ハドリアヌスの長城」を築き、南部までの支配であきらめました。

 このローマによる支配でロンドンの原型が誕生。ロンディニウムという都市です。そして(西)ローマが5世紀に滅亡すると、ゲルマン民族(アングル人、サクソン人、ジュート人 =アングロ・サクソン人)が侵入し、ケルト民族と戦い、総称して、アングロ=サクソン7王国(サセックス、ウェセックス、ケント、東アングリア、マーシア、ノーサンブリア)を建国します。

 また、6世紀にはローマ教会から直接キリスト教が布教されています。

 そして7つに別れていた王国は、9世紀にウェセックス王エグバード(775〜839年)により統一(イングランド王国の誕生)。しかし、この頃よりヴァイキング(デーン人<デンマーク>)の侵入が激しさを増し、ウェセックス以外の地域が彼らの手に落ちます。これに対し、エグバードの孫のアレフレッド大王(位879〜899年)がこれを打ち破り、彼らをも支配に組み入れます(ちなみに、彼がロンドンを首都にし、以後イングランドの中心に)。

 が、先に見たように10世紀になると、デンマーク王国のスペン1世、そして彼の息子クヌート(位1016〜35年)がイングランドを征服しました。この時、デンマーク王国の領土はノルウェーにも及び、一時的ですが北海沿岸が統一されました。しかし、その支配は3代でおわり、王位は再びウェセックス王家のエドワードの手に。彼は信仰心旺盛<懺悔(ざんげ)王と呼ばれた>で、ウェストミンスター寺院を築きました。


▲現在のウェストミンスター寺院。1245年、ヘンリー3世によりフランスのゴシック建築にならった改装が行われているほか、20世紀に至るまで増改築が続けられています。

○ノルマン朝の成立と他地域への進出

 ところがどっこいイングランド王国。これで安心、ではありません。

 1066年、カペー朝西フランク王国のノルマンディー公ウイリアム(1027頃〜1087年)が侵攻。歩兵中心のイングランド軍に対し、ノルマン軍は「ノルマン騎士」とよばれる騎士軍です。へースティングスの戦いで勝利を収めると、ウイリアム1世(位1066〜87年)として即位し、ノルマン朝をこの地に建てました。彼もヴァイキング、ノルマン人です。よって、これをノルマン=コンクェスト(ノルマン人の征服)と呼びます。  ちなみに彼らは元々、ロロ(880〜933年)に率いられた集団。西フランク王国北部に定住し、公国として認めさせたわけです。その一部はさらに南イタリア・シチリア島に両シチリア王国(1130〜1860年)を建国しています。

 なぜ折角定住地を見つけたのに、さらにシチリアまで出かけていったのか。それは、やはり耕地が少なく人口増に耐えられなかったためです。そのため傭兵として出稼ぎに行くことになりました。シチリア・南イタリアはローマ帝国→東ゴート王国と支配者が変わった後、東ローマ帝国、ナポリ公国ら小国家群とイスラム勢力が覇権をかけて争っていました。そこで傭兵の需要が非常に高く、絶好の就職先でした。

 1030年に、ナポリ公から褒美としてアヴェルサという町をもらった後、傭兵から国家樹立へと目標が変わり支配地域を広げ、南イタリアとシチリアを征服。ロゲリウス2世(1095〜1154年)は、1130年にローマ教皇アナクレトゥス2世から王冠を与えられ、両シチリア王国の建国となりました。「両」とつくのは、南イタリアが別名「ファロ岬のこちら側のシチリア」と呼ばれたからです(ファロ岬はシチリア島と最も近い岬)。

 この王国の特徴は、先進文化を持っていたビザンツ文化・アラブ文化を積極的に取り入れたことです。なお、王位はその後神聖ローマ帝国など他国に奪われてしまいました。

 また彼らとは別に、ヴァイキングの皆さんは9世紀、スラブ人の住む北西ロシアにノブゴロド共和国(862〜1478年)、ついで、その南にキエフ公国(882〜1240年)を建国しています。ノブゴロド国は世界史の教科書では単語として登場するだけですが、中世ロシアで最も栄えた国家です。バルト海・黒海・地中海の交易上の要所に位置し、毛皮等の特産品を輸出しました。

 また、ヴェーチェという政治システムを採用。戦争の講和について、政治家の任免、条約の締結を民会で決める制度ですが、注目すべきは「声の大きさで決定する」直接民主制だということです。また、民主制は中世では珍しいものです。しかし、力をつけてきたモスクワ大公国に併合され、このシステムは消えてしまいました。

 さてさて、彼らヴァイキングは海賊行為を働く不届き者もいましたが、最大の功績は北欧地域から地中海にかけて大きな交易路を開いたことです。イングランドではヨーク地域、スコットランドの発展や、さらにアイルランドでも植民が行われ、ダブリンなどが建設されて交易の拠点として発展します。

 また、一部は1000年頃に、グリーンランドを通り、アメリカにまで手を伸ばしました。しかし、こちらは気候が厳しかったり、アメリカでは先住民とうまく行かずに失敗しています。ですが、コロンブスより500年も前にアメリカに渡ったのです。ちなみに、これらはヴァイキングの住居跡から判断されています。

 とはいえ彼らは基本的に現地で良く同化し、文化の面で色濃く影響しつつ、次第にヴァイキングそのものの影は消えていくのでした。こうして、ヴァイキングの襲来は終わりを告げ、以後、海賊と呼ばれる人々は、本当に宝を求めたり、あぶれ者だったりする人達が始めるようになります。

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