さて、今回は東欧、主にはポーランドを見ていきます。ここに国家が出来たのは9世紀頃といわれ、文献に登場してくるのは
ピアスト朝の
ミエシェコ1世(962頃〜992年)です。彼はキリスト教を受容します(こう言う時に記録が残るんですね)。そして、彼の息子
ボレスワフ1世(
位 992〜1025年)の時、西はオドラ川、南から東はカルパティア山脈、ドニエストル川まで領土を広げます。って、地名が出されても解りませんね。
まあ、それはさておき、この後は内政混乱による国家分裂と対外戦争の時代。特に大きな事件は1240年〜41年の
ワールシュタットの戦い。
チンギス=ハンの下、突如として中央アジアを征服した
モンゴル帝国が、次のハン(王)
オゴタイの命令で、その従兄弟の
バトゥ指揮の下、侵攻してきたのです。
これに対し、
シュレジエン公ハインリヒ2世自ら率いるドイツ騎士修道会とポーランド王国連合部隊は、モンゴル軍支隊3万〜4万におよぶ騎馬の大軍に対して大敗。そもそもハインリヒの重装騎士は1万人で、自身も戦死しました。
その後、モンゴル軍はハンガリー王国の首都ベストを攻略しますが、オゴタイ・ハン病死のため、後継者問題がありますので引き返しました。それ以後、バトゥはキプチャク・ハン国を建て、ロシア地域を支配。ポーランド方面には大規模な侵攻は行ってきていません。
混乱続くポーランドを統一し、「木のポーランドを石のポーランドにかえた」と絶賛されるのが
カジミエシュ3世(大王
1333〜70年)。
ドイツ騎士修道会、
ボヘミア王国と関係を良くし、ユダヤ農民のポーランド移住奨励など、内政・外交で活躍。1347年には、王国の法律を成文化。また、1364年に首都クラフクにおいて
クラフク(ヤゲェウォ)大学を建設し、学問の充実を図ります。
ただ、息子がいなかったためビアスト朝はここで断絶。彼の甥でハンガリー王
オヨシュが王位を継承しました。
それから、1386年に
ポーランド女王ヤドビガは
リトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名・ヤゲェウォ)と結婚。リトアニア・ポーランド連合王国が形成され、ヤゲェウォ朝はポーランドの黄金時代を作ります。ドイツ騎士修道会を打ち破り、領土を広げます。
1512年、ヤゲェウォ朝が断絶すると、以後ポーランドは選挙王制に。
セイムと呼ばれる議員達が国王を選ぶのですが、これの力が強すぎ、国王は何をするにも彼ら全員一致の同意が必要でした。これによってポーランドは衰退しました。この続きは、またあとで。
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