
第24回 ポーランドとモンゴル帝国の襲来
まあ、それはさておき、この後は内政混乱による国家分裂と対外戦争の時代。特に大きな事件は1240年〜41年のワールシュタットの戦い。チンギス=ハンの下、突如として中央アジアを征服したモンゴル帝国が、次のハン(王)オゴタイの命令で、その従兄弟のバトゥ指揮の下、侵攻してきたのです。 これに対し、シュレジエン公ハインリヒ2世自ら率いるドイツ騎士修道会とポーランド王国連合部隊は、モンゴル軍支隊3万〜4万におよぶ騎馬の大軍に対して大敗。そもそもハインリヒの重装騎士は1万人で、自身も戦死しました。 その後、モンゴル軍はハンガリー王国の首都ベストを攻略しますが、オゴタイ・ハン病死のため、後継者問題がありますので引き返しました。それ以後、バトゥはキプチャク・ハン国を建て、ロシア地域を支配。ポーランド方面には大規模な侵攻は行ってきていません。 混乱続くポーランドを統一し、「木のポーランドを石のポーランドにかえた」と絶賛されるのがカジミエシュ3世(大王 1333〜70年)。ドイツ騎士修道会、ボヘミア王国と関係を良くし、ユダヤ農民のポーランド移住奨励など、内政・外交で活躍。1347年には、王国の法律を成文化。また、1364年に首都クラフクにおいてクラフク(ヤゲェウォ)大学を建設し、学問の充実を図ります。ただ、息子がいなかったためビアスト朝はここで断絶。彼の甥でハンガリー王オヨシュが王位を継承しました。 それから、1386年にポーランド女王ヤドビガはリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名・ヤゲェウォ)と結婚。リトアニア・ポーランド連合王国が形成され、ヤゲェウォ朝はポーランドの黄金時代を作ります。ドイツ騎士修道会を打ち破り、領土を広げます。 1512年、ヤゲェウォ朝が断絶すると、以後ポーランドは選挙王制に。セイムと呼ばれる議員達が国王を選ぶのですが、これの力が強すぎ、国王は何をするにも彼ら全員一致の同意が必要でした。これによってポーランドは衰退しました。この続きは、またあとで。 次のページ(もう一つの十字軍・スペイン)へ 前のページ(十字軍とイスラムと・・・)へ |