第3回 弥生時代の幕開け
そして、こうした戦争によって勝ち負けが発生し、次第にムラが他のムラを支配するようになります。 他のムラを取り込んで大きくなっていったムラは、やがてクニに成長し、そしてその支配者は王として君臨します。中には世襲で王位を継承するクニもあったようですね。 そして、人々の間に身分の差が出てくるようになり、それは葬られる墓に違いが出たり(副葬品にも差が出た)、また当時の人々は顔と体に入れ墨をしていたそうなのですが、これにも違いがあったそうです。まあ、入れ墨についてはムラ単位でも違ったようですが・・・。 なお、先ほど環壕をムラにめぐらせるようになった、と書きましたが、鹿児島県から千葉県ぐらいまでの話で、東北や薩南諸島では見つかっていないとか。また、規模もムラ全体から、貯蔵施設のみだったり様々。さらに、古墳時代になると環壕はなくなってしまいます。 さあ、これは一体どうしてなのか、ぜひ皆さんでも考えてみて下さい。
銅鐸(どうたく)は祭礼用に作られた、青銅製の鐘のようなもの。外部には様々な文様が描かれ、この中に動物や人物、家屋などが描かれていることから、当時の人々の風俗を知る上で非常に貴重な手がかりとなっています。もっとも、肝心の銅鐸がどのような祭礼で使われたかは、まだはっきりとした答えは出ていません。 一方、銅矛は青銅製の刺突用武器。もっとも、日本では次第に鋭利性が無くなっていることから祭礼用の道具になったと考えられています。それから、銅剣は言うまでもないでしょうが、青銅製の武器です。
さて1950年代から、発掘物の分布によって瀬戸内海中心の銅剣文化圏と畿内中心の銅鐸文化圏がある、と考えられていました。授業で習った記憶のある人もいると思いますけど、これも福岡県の遺跡で銅鐸が見つかっていたり、島根県の荒神谷遺跡とその周辺で銅剣、銅矛、銅鐸がまとめて大量に発見されるなどしているため、最近の研究では覆っています。 ちなみに、何でまとめて大量に発見されたのか。つまり、まとめて沢山埋められていたのか。 ここが、こういった銅製品を鋳造する産地で、強大な軍事力を持つ国家があったのでは?とも推察できます。また、銅鐸が神を祀る際の、祭礼用の道具だとすると、「これからはオレを敬え。神なんて不要だ」なんて、そう豪語する王が登場し、支配地域のムラから取り上げて、埋めちゃったのかも知れません。
まず食生活については、先ほど述べたとおり米を食べ始めていたほか、小麦やクルミ、豆、イノシシ、鶏、フナ、コイ、スズキ、アジなど、実にバリエーション豊かに色々なものを食べていたようです。これを料理し土器に盛り付けして、手でつかんで食べていたようですね。 また、お風呂は無かったようで基本的には川で水浴び。 トイレはあったかどうか・・・写真で紹介している佐賀県の吉野ヶ里遺跡の例で言えばトイレ跡は見つかっていないそうですが、どこかしらに排泄物はまとめておかないとクサいですから、公衆トイレなんかがあったんじゃないのかと私は推測しています。もしかしたら、環濠(堀)に捨てていたかもしれません。 また、集落が大規模化し、クニが誕生するようになってくれば、そのクニやムラどうしの商売も盛んになっていきます。やはり吉野ヶ里遺跡の例ですけど、クニの中に市場があって、そこで時には中国大陸とも取引をしていたようです。 一方、何度も書いていますが、中国の書物に「倭国大乱」と書かれるように、戦争をこの時代は多くやっていました。 戦争といえば、男性が・・・と思われるかも知れませんが、女性も前線で戦っていたようです。しかも、指揮官クラスにも女性がいたとか。これは、矢じりが刺さったあとのある、女性の頭骨が根獅子遺跡(長崎県平戸市)から出土していることなどから推測されています。でもさあ、ムラが襲われた時に一般の女性にも容赦なく矢を射られて・・・なんてことはないのかなあ。
次のページ(クニの興亡と邪馬台国連合)へ 前のページ(豊かな縄文時代)へ |