第3回 弥生時代の幕開け


○弥生時代の特徴

 さて、弥生時代は稲作が日本列島で一般的になりつつあったので、当然のことながら稲作がやりやすい道具というのが開発、普及していきます。まず、定住生活に備え立派な家を作らないといけません。そこで、木材を伐採し、加工するために必要な斧が誕生します。当時は石で出来た斧(=石斧 せきふ)が主流でした。
 それから、稲を苅るための道具として使用する石包丁、料理をするために煮炊きしたり、貯蔵したりできる質実剛健な土器である弥生土器が登場。また、次第に金属製の道具も普及していきます。そして、米を脱穀するための木臼が誕生したり、収穫物や道具の貯蔵場所として高床式倉庫、さらに神社の原型とも言える、高床式の祭殿を建設するなど、色々な変化がおきています(*高床というのは、地面から1m以上、床が離れている)。

 一方で、当時は稲作といっても必ずしも満足に収穫ができるわけではなく、縄文時代に引き続いて狩猟や漁業(漁労)も行われています。というより、果たしてどこまで米食に頼っていたかも正確には不明です。

 また、水田を伴った定住を開始すると、収穫物を狙った外敵から身を守るため、人々は自分たちの生活を守るため、集落(ムラ)の周囲に深い堀(=環壕 かんごう)をめぐらせ、さらに物見櫓を建設し、遠くの変化もチェックできるよう工夫を凝らしました。殺傷痕のある人骨が数多く出土していることから、残念なことに弥生時代から戦争が始まったようですね。


環壕 (佐賀県 吉野ヶ里歴史公園)
 吉野ヶ里遺跡は、日本でも最大級の弥生時代の遺跡。二重の環濠に囲まれ、様々な巨大建造物があったようです。
 現在、弥生時代の雰囲気が味わえるように復元が行われています。ただし、環濠は安全のために往時よりも浅く復元されていますので、当時はもっと深かったんですよ。

高床式倉庫 (佐賀県 吉野ヶ里歴史公園)
 このような高床の建物に、農作物や道具などの物資を保管する例が多かったようです。

吉野ヶ里遺跡 北内郭 (佐賀県 吉野ヶ里歴史公園)
主祭殿、物見櫓などが並ぶ吉野ヶ里遺跡の主要な場所。クニ全体の重要な事柄を決めたり、祖先への祭祀が行われていた場所と考えられています。

弥生時代中期(九州地方)の土器
 国立歴史博物館にて撮影。

 そして、こうした戦争によって勝ち負けが発生し、次第にムラが他のムラを支配するようになります。
 他のムラを取り込んで大きくなっていったムラは、やがてクニに成長し、そしてその支配者は王として君臨します。中には世襲で王位を継承するクニもあったようですね。

 そして、人々の間に身分の差が出てくるようになり、それは葬られる墓に違いが出たり(副葬品にも差が出た)、また当時の人々は顔と体に入れ墨をしていたそうなのですが、これにも違いがあったそうです。まあ、入れ墨についてはムラ単位でも違ったようですが・・・。

 なお、先ほど環壕をムラにめぐらせるようになった、と書きましたが、鹿児島県から千葉県ぐらいまでの話で、東北や薩南諸島では見つかっていないとか。また、規模もムラ全体から、貯蔵施設のみだったり様々。さらに、古墳時代になると環壕はなくなってしまいます。 さあ、これは一体どうしてなのか、ぜひ皆さんでも考えてみて下さい。

○銅鐸、銅矛と銅剣

 弥生時代を彩る道具に、銅鐸、銅矛と銅剣があります。
 銅鐸(どうたく)は祭礼用に作られた、青銅製の鐘のようなもの。外部には様々な文様が描かれ、この中に動物や人物、家屋などが描かれていることから、当時の人々の風俗を知る上で非常に貴重な手がかりとなっています。もっとも、肝心の銅鐸がどのような祭礼で使われたかは、まだはっきりとした答えは出ていません。

 一方、銅矛は青銅製の刺突用武器。もっとも、日本では次第に鋭利性が無くなっていることから祭礼用の道具になったと考えられています。それから、銅剣は言うまでもないでしょうが、青銅製の武器です。



銅鐸 (模型 裏辺金好所蔵)
 もちろん、実物は銅で出来ています。弥生時代の人々は、こうした銅の加工もやっていたということになりますね。

銅鐸
 (模型 裏辺金好所蔵)
 銅鐸の表面には、このように様々な事象が描かれており、当時の人々の生活観、宗教観、生活の様子が解る貴重な資料です。
 さて1950年代から、発掘物の分布によって瀬戸内海中心の銅剣文化圏と畿内中心の銅鐸文化圏がある、と考えられていました。授業で習った記憶のある人もいると思いますけど、これも福岡県の遺跡で銅鐸が見つかっていたり、島根県の荒神谷遺跡とその周辺で銅剣、銅矛、銅鐸がまとめて大量に発見されるなどしているため、最近の研究では覆っています。

 ちなみに、何でまとめて大量に発見されたのか。つまり、まとめて沢山埋められていたのか。

 ここが、こういった銅製品を鋳造する産地で、強大な軍事力を持つ国家があったのでは?とも推察できます。また、銅鐸が神を祀る際の、祭礼用の道具だとすると、「これからはオレを敬え。神なんて不要だ」なんて、そう豪語する王が登場し、支配地域のムラから取り上げて、埋めちゃったのかも知れません。

○弥生時代の人々の生活

 ところで、この頃の人々はどんな生活をしていたのでしょう。
 まず食生活については、先ほど述べたとおり米を食べ始めていたほか、小麦やクルミ、豆、イノシシ、鶏、フナ、コイ、スズキ、アジなど、実にバリエーション豊かに色々なものを食べていたようです。これを料理し土器に盛り付けして、手でつかんで食べていたようですね。

 また、お風呂は無かったようで基本的には川で水浴び。
 トイレはあったかどうか・・・写真で紹介している佐賀県の吉野ヶ里遺跡の例で言えばトイレ跡は見つかっていないそうですが、どこかしらに排泄物はまとめておかないとクサいですから、公衆トイレなんかがあったんじゃないのかと私は推測しています。もしかしたら、環濠(堀)に捨てていたかもしれません。

 また、集落が大規模化し、クニが誕生するようになってくれば、そのクニやムラどうしの商売も盛んになっていきます。やはり吉野ヶ里遺跡の例ですけど、クニの中に市場があって、そこで時には中国大陸とも取引をしていたようです。

 一方、何度も書いていますが、中国の書物に「倭国大乱」と書かれるように、戦争をこの時代は多くやっていました。

 戦争といえば、男性が・・・と思われるかも知れませんが、女性も前線で戦っていたようです。しかも、指揮官クラスにも女性がいたとか。これは、矢じりが刺さったあとのある、女性の頭骨が根獅子遺跡(長崎県平戸市)から出土していることなどから推測されています。でもさあ、ムラが襲われた時に一般の女性にも容赦なく矢を射られて・・・なんてことはないのかなあ。
 

甕棺墓 (佐賀県 吉野ヶ里歴史公園)
 墓の種類は色々ありますが、北九州では甕棺墓(かめかんぼ)と呼ばれる、カプセル型の土器に、副葬品と共に土の中に埋葬する方法が主流でした。

甕棺墓 (佐賀県 吉野ヶ里歴史公園)
 埋葬されるとこんな感じになったと考えられています。

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