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第24回 承久の乱と権力基盤を固める北条氏

○今回の年表

1219年 源実朝、鶴岡八幡宮で源頼家の遺児、公暁に暗殺される。
1219年 モンゴルのチンギス=ハンが、アジア遠征へ本格的に乗り出す。
1221年 承久の乱。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとするが敗北し、隠岐に配流される。
1221年 鎌倉幕府、京都に六波羅探題を設置。
1224年 北条義時が没し、長男の北条泰時が執権に就任。
1224年 親鸞が浄土真宗を開く。
1225年 鎌倉幕府、評定衆を設置。北条時房が連署に就任。また、大江広元が没する。
1226年 藤原(九条)頼経が第4代将軍に就任。
1227年 道元、曹洞宗を開く。
1232年 鎌倉幕府が御成敗式目を制定する。
1234年 モンゴル軍、中国華北を支配していた金を滅ぼす。
1241年 ワールシュタットの戦い。モンゴル帝国がポーランド・ドイツ連合軍を打ち破る。
1243年 モンゴル帝国、中央アジアからロシア地域にかけて、キプチャク=ハン国を建国する。
1247年 三浦泰村が第5代執権の北条時頼に敗北し戦死(宝治合戦)。
1249年 宗尊親王が将軍となる。
1253年 日蓮が日蓮宗を開く。

○後鳥羽上皇、動く

 源実朝が暗殺され、北条義時による実質的な鎌倉幕府掌握を見た後鳥羽上皇は
「これは貴族が政権を取り戻すチャンスだ。きっと、北条氏に不満がある武士が多いに違いない」
 と考えました。既に西面の武士などを設置し武力を強化。「増鏡」という歴史書には、後鳥羽上皇は”弓馬の道に巧みで武技を好んだ”とあるので、かなり血気盛んな人物だったようです。

 そして1221(承久3)年、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣(いんぜん)を出します。
 ところがどっこい!そこに登場したのが、北条政子。御家人たちを前に
「鎌倉殿(源頼朝)の恩を忘れるな!」
 などと名演説をぶちまけ、結束力を強化。いざ鎌倉、と御家人たちを集め、義時の長男、北条泰時(1183〜1242年)を総大将とした大軍が、京都に向けて攻め込み大勝利。後鳥羽上皇らを逮捕します。この結果、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へ流されました。これを承久の乱といいます。

 そして北条義時は、仲恭天皇を退位させ、後堀川天皇を即位。さらに、後高倉上皇に院政をさせるという、天皇の皇位継承に介入しました。武家政権が、いよいよ貴族政権を従えたことになります。

 京都にはまた、六波羅探題(ろくはらたんだい。当時は六波羅守護)が設置されました。これは、執権や連署に次ぐ役職として重要視され、主に尾張(今の愛知県)から西における鎌倉幕府の行政権、警察権を行使しました。また、朝廷の監視も行います。

 それから、これまで地頭が設置されていなかった西国を中心に、新たに地頭が設置され、鎌倉幕府の西日本支配がさらに強化されます。なお、承久の乱までに設置された地頭を本補地頭(ほんぽじとう)、承久の乱以降に設置された地頭を、新補地頭(しんぽじとう)と区分されています。貴族などの荘園領主にしてみれば、幕府の役人がどんどん自分たちの荘園に入り込み、収益を奪っていくのでたまったものではない。もちろん紛争も起こりますが、幕府は地頭の肩を持つものですから・・・。

○御成敗式目の制定

 さて、これまでは幕府の組織作りが行われてきましたが、武家に適応した基本的な法律というのが欲しい。
 大きくなった武家組織を運営するのに、まさか「これまでの慣例により・・・」では、紛争解決などで力不足だったのです。さりとて、まさか朝廷の律令では、貴族社会の法律ですからそのままは使えない。ですから、もちろんこれまでの慣例も参考にしながら、しっかりとした文章で書かれた基本法をバーンと打ち出そう、ということです。

 そこで第3代執権に就任した北条泰時(1183〜1242年)は、まずは1225(嘉禄元)年、北条家一門や有力御家人などによる合議組織「評定衆」(ひょうじょうしゅう)を設置。いわば内閣みたいなもので、幕府の政治、裁判の最高評議機関です。

 そして、その評定衆のメンバーである太田康連らに命じて御成敗式目という法律を制定。1232(貞永元)年に出来たことから、貞永式目と呼ばれ、51か条から成っています。守護や地頭に関すること、御家人同士が所領をめぐって裁判で争った時の決まりごと、所領の相続についての決まりごと、犯罪や刑罰などなど・・・。

 これによって法律面でも「武家社会は独自の路線を行くぜ!」と宣言したようなもので、鎌倉幕府が滅亡した後も武家社会の法律として尊重されることも多く、のちの江戸幕府での基本法、武家諸法度(ぶけしょはっと)も御成敗式目をベースとするなど、影響力を保持し続けました。

○三浦氏の滅亡

 ところで、既に源頼家のころから将軍は飾り物でしたが、源実朝が殺されると、いよいよ象徴的な人物になります。
 1226(嘉禄2)年、北条義時は京都から藤原(九条)頼経を第4代将軍として迎えます。彼は頼朝の姪の娘が生んだということで、多少は頼朝と血の繋がりもありましたし、まだ幼い子供で、しかも摂関家から迎え入れるのですから、飾り物としては最適。

 もっとも、彼も成長すると北条氏に操られているのが不満になります。
 そして御家人の中にも北条氏に対する不満が高まり、三浦義村や千葉秀胤などが頼経に接近していきます。そこで、19歳の若さで第4代執権となった北条経時(ほうじょうつねとき 北条泰時の孫。1224〜46年)は、九条頼経に圧力をかけて将軍の座から追い出し、彼の子供の九条頼嗣を第5代将軍にします。


 そこまではよかった。
 ところが前将軍の頼経は結局、将軍職は渋々退いたものの鎌倉に居座ったままになり、やはり反北条氏という旗印にさせられ、自らも打倒北条氏に密かに暗躍。
「ああ困った。どう対処すればいいんだろう・・・」
 と、若い経時はすっかり疲れてしまったようで病気になってしまいます。

 そして、執権に就任してから僅か4年で、弟の北条時頼(ほうじょうときより/1227〜64年)に執権職を譲り、間もなく死去しました。享年23歳。

 さて平安時代、藤原氏は次第に藤原北家、その中でも摂関家と呼ばれる本家が中心となっていきますが、北条氏も例外ではなく、本家である”得宗(とくそう)”の力が強くなり、一族の中で対立が起こるようになっていきます。

 そこで1246年、一族の名越光時(なごえみつとき/北条義時の孫)らが九条頼経を味方につけ、執権職を奪おうと謀反を企みます。これに対し時頼は
「そうはいくか!」
 と、この動きを鎮圧することに成功し、名越光時を伊豆国へ配流。
 さらに九条頼経は、ついに鎌倉から追い出されることになりました。

 続いて、北条時頼は最大の有力御家人である三浦泰村ら、三浦一族に狙いをつけます。挑発にかかりますが、なかなか応じず、とうとう時頼の母方の祖父である安達景盛と、安達義景(1210〜1253年)の親子が三浦氏に奇襲攻撃。三浦泰村も受けてたちます。

 1247年、こうして宝治合戦と呼ばれる戦いが行われますが、三浦一族は敗北。源頼朝の墓がある法華堂のそばで自害し、滅亡。併せて、千葉氏も滅ぼされました。

 ちなみに、この合戦。
 毛利季光という、あの大江広元の4男も参加していました。かわいそうに、彼は妻が三浦泰村の妹で、しかし娘が北条時頼に妻になっているという、まさに板ばさみの状況。結局、嫁さんを敵に回して戦えなかったらしく、三浦氏と共に運命を共にし息子3人と自害しました。

 このとき、四男の毛利経光だけが所領があった越後国佐橋庄北条(現、新潟県柏崎市北条)にいたために助かり、毛利家は存続。さらに、次男の毛利時親が安芸国吉田庄(現、広島県安芸高田市吉田町)を本拠としたことから、戦国時代から幕末にかけてその名を残した、毛利家が後に誕生します。

○将軍は天皇家から貰おう

 さて、九条頼嗣も成人すると、親父同様に反北条色を強めていったものですから、北条時頼は彼を追放。こうして、今度は天皇家から宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)を迎え入れることになり、これ以後、宮将軍と総称されるように皇族が将軍となっていきます。ただ、完全にお飾りであり、20歳代ぐらいで将軍職を辞任させられ、京都に戻るのが通例でした。

 一方、このように独裁色を強める北条家への批判を減らそうと、1249(建長元)年に引付衆(ひきつけしゅう)を設置します。これは、評定衆の下に置いたもので、訴訟専門機関として運営されました。何が便利かというと、専門に訴訟を扱うの
で、裁判が早くなったり、より公平性が保たれるのです。まあ、時頼は生きていた頃はともかく、次第に北条家の若者が就任し、評定衆への出世コースの1つに過ぎなくなっていきます。

 時頼はこの他にも、御家人や民衆を保護する政策を打ち出し、後世まで名君とうたわれる執権となりました。そして1251年に病のため執権職を辞任し、北条長時に執権職を譲りました。しかし、その後も時頼は亡くなるまで実権を握ったことから、次第に執権の地位も「お飾り」に近くなり、”得宗(とくそう=北条氏の本家のこと)”の座にあることのほうが重要になっていきます。

 ちなみに時頼は1253(建長5)年、鎌倉に蘭渓道隆という、中国の偉い禅のお坊さんを呼んで、臨済宗(りんざいしゅう)の建長寺(写真)を建立。建物は江戸時代に造られたものになっていますが、現在でも鎌倉で特に有名な寺院として存続しており、多くの参拝客や観光客で賑わっています。

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