第31回 くじ引き将軍と、自治が進む村々
上の年表を見ていただくと解るとおり、実は義満の権力が絶頂だった頃、既に9歳のときに将軍になり、実権は義満が握るという構図でした。ところが実は義満、義持の異母弟である足利義嗣(よしつぐ)を可愛がり、出来れば将軍位を・・・と考えていた模様。幸い、そうなる前に義満は死去し、義持は管領の斯波義将らの支持もあって将軍位を安定させます。 さらに、1416年(応永23)年に発生した、上杉禅秀の乱を平定。 これは、前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が、鎌倉公方の足利持氏(1398〜1439年)と対立し、鎌倉の御所を急襲して始まったもの。そもそも、この2人は仲が悪く、前年に禅秀の家人の領地を、持氏が没収したことから確執が表面化していました。また、この頃の上杉氏は山内(やまのうち)、犬懸(いぬかけ)、詫間(たくま)、扇谷(おうぎがやつ)の4家が争い、現在の関東管領である、山内上杉氏の上杉憲基(1392〜1418年)とも仲が悪かったのです。 そこで禅秀は、持氏の叔父である足利満隆や、甲斐守護の武田信満、相模守護の三浦高明や地方の国人、豪族と手を組んで挙兵。御所を急襲された持氏は鎌倉を脱出し、駿河守護の今川範政の保護を受けます。そして、将軍の足利義持は、持氏の支援を決定し幕府軍を派遣。禅秀は味方を次々と失い、鎌倉で自害した・・・という事件です。 なお、足利義嗣は上杉禅秀に通じていた、という理由で処刑されました。 さて、この頃はまだ将軍と守護大名の関係は比較的安定しており、義持は「これなら問題ない」と、1423(応永30)年に、息子の足利義量(1407〜1425年)に将軍位を譲りました。ところが、政治の実権は親父と有力な守護大名らが握っており、義量はグレてしまって、酒びたりで若くしてなくなってしまいました。 ![]()
彼は死去する少し前に後継者を指名せず 「重臣たちが納得する将軍でなければ意味が無かろう」 とし、管領たちに後継者選びを任せました。そこで幕府首脳部が考えたのは、義持の弟たちの中から、くじ引きで将軍を選ぶというもの。その結果、将軍に就任したのが、足利義教(1394〜1441年)でした。 その就任からして「くじ引き将軍と馬鹿にされてたまるか」 というのがあったのかもしれません。この新将軍は、将軍の権力を高めようとします。そこで対立したのが、鎌倉公方の足利持氏。 持氏は「新将軍が、なんぼのもんじゃ〜い。オレだって将軍になる権利もある」と思い、義教に従わない。関東管領の上杉憲実(1410頃〜66年)は、なんとか幕府と鎌倉公方の仲を取り持とうとしますが、持氏の暴走はエスカレートするばかり。やむなく、関東管領を辞任しました。 この状況を見た将軍、足利義教は1438(永享10)年、ついに軍勢を派遣して足利持氏を討ち滅ぼします。 これを、永享の乱といいます。 以下、余談。 1440(永享12)年、結城氏朝が持氏の遺児2人を擁立して挙兵しましたが、これも鎮圧(結城合戦)。結局、持氏のもう1人の息子である足利成氏が鎌倉公方となりますが、「親父が殺されたのは、上杉のせいだ」と、恨んでいますので、やはり上杉氏と対立し・・・ついに1455(享徳3)年、関東管領の上杉憲忠(1433〜55年)を殺害してしまいます。なお、憲忠は憲実の長男です。 その結果、鎌倉公方派、上杉派と守護たちが分裂して争う、享徳の乱が発生します。最初こそ、足利成氏が戦いを有利に進めますが、幕府は駿河守護の今川範忠を派遣し、鎌倉を占領。成氏は古河へ移ります(→古河公方)。そして、関東は戦乱の時代に突入するのですが、これについてはまた今度。
惣とは「全体」という意味合いの言葉で、当初は有力農民である名主(なぬし)を中心としていましたが、次第に一般の農民が荘園の枠を超えて地域単位で結合。多くの場合、寄合(よりあい)と呼ばれる合議機関が設置され、そこで選出された、乙名(おとな)、沙汰人(さたにん)、年寄といった指導者たちが惣を運営します。また、寄合の決定で地下検断(じげけんだん)と呼ばれる警察、司法行為も行われます。中には、惣掟(そうおきて)とよばれる村の法律を作ったところもあるんですよ。 もちろん、農作業に大切な山や野原などの共同利用地(入会地)の確保や、灌漑用水の管理、それから領主に納める年貢を惣村が一括して行う地下請(じげうけ)なども重要なことでした。個人個人で納入するより、村で一括したほうが、領主様になめられないですからね。 というわけで、結束こそ力じゃ! 重要なことを決定するときには、神の前でみんなで水を飲みまわす一味神水(いちみしんすい)が行われ、一同の結束感を高める、なんてこともやってます。そして、時には荘官(=荘園を治めるために派遣された、お代官様だ)を辞めさせろ〜!と荘園領主に一同で押しかけたり(強訴=ごうそ)し、NO!と言われたら全員で耕作を放棄したり、山林などに逃げ込む逃散(ちょうさん)するというストライキも行います。 こうした結束力を背景に、ついには武力行為に出ることもあり、一揆(いっき)が発生するようになります。 その最大のものが足利義持が亡くなったのをきっかけに、1428(正長元)年に発生した、正長の徳政一揆。輸送業者である近江(滋賀県)の馬借(ばしゃく)たちが、借金を帳消しにする徳政を幕府に求めて放棄し、これに京都周辺の惣村が呼応。人々は、京都の酒屋や土倉をを襲って、借金の借用書などを奪いました。 さらに、足利義教が暗殺されたことをきっかけに、1441(嘉吉元)年に発生した嘉吉の徳政一揆も凄まじいもので、なんと数万の人々が京都を占領し、徳政令を要求。幕府は徳政令を出さざる得ませんでした。それどころか幕府は、逆に徳政令を武器にした商売をスタートする始末。 すなわち、借金額の5分の1もしくは10分の1程度の手数料を納めたら「借金があることを認めます」もしくは「借金を帳消しします」なんていう、分一徳政令も多く出すようになります。やれやれ・・・。
ちなみに赤松氏は幕府軍によって討伐されて滅亡。第7代将軍に足利義勝(義教の子)が選ばれますが、まもなく病死します。続いて、その弟である足利義政(1435〜90年)が、若くして第8代将軍として即位します(位1449〜73年)。しかし、将軍に権力はあまり無く、足利義政自身も和歌などの風流な世界や、建築設計や庭園設計に励む日々でした。 そんな中、1467年に発生した大事件が、応仁の乱(おうにんのらん)。 次回、この大乱について見ていくことにしましょう。 次のページ(第32回 応仁の乱と衰退する室町幕府)へ 前のページ(第30回 室町幕府の絶頂期、足利義満の時代)へ |