第31回 くじ引き将軍と、自治が進む村々

○今回の年表

1394年 足利義満、太政大臣に任命される。足利義持、9歳で4代将軍に就任。
1399年 応永の乱が起こり、義満が大内義弘を討伐する。
1400年 今川了俊が義満に追討され降伏。
1401年 第1回の遣明船。明と国交が樹立し、翌年に足利義満を日本国王とした国書が来る。
1404年 明と勘合貿易を開始。
1411年 4代将軍、足利義持が明との貿易を停止し、国交が断絶。
1416年 上杉禅秀の乱が起こる。
1419年 応永の外寇。朝鮮が対馬に侵攻したが撃退される。
1428年 正長の土一揆。徳政令を求めて人々が立ち上がる。
1429年 フランス軍のジャンヌ=ダルクがオルレアンの包囲を突破する。
1429年 尚巴志、沖縄本島を統一し、琉球王国を建国。
1432年 6代将軍、足利義教が明との国交を回復。
1438年 永享の乱。鎌倉公方の足利持氏が、足利義教に討伐される。
1440年 結城合戦。結城氏朝が持氏の遺児を擁立して挙兵するが、翌年に敗北。
1441年 嘉吉の乱。足利義教が赤松満祐に謀殺される。
  嘉吉の土一揆が起こる。
1453年 ビザンツ帝国が滅亡する。
1455年 鎌倉公方、足利成氏が古河に移る(古河公方)

○安定していた4代将軍の時代

 さて、足利義満の跡を継いだのが息子の足利義持(1386〜1428年)
 上の年表を見ていただくと解るとおり、実は義満の権力が絶頂だった頃、既に9歳のときに将軍になり、実権は義満が握るという構図でした。ところが実は義満、義持の異母弟である足利義嗣(よしつぐ)を可愛がり、出来れば将軍位を・・・と考えていた模様。幸い、そうなる前に義満は死去し、義持は管領の斯波義将らの支持もあって将軍位を安定させます。

 さらに、1416年(応永23)年に発生した、上杉禅秀の乱を平定。
 これは、前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が、鎌倉公方の足利持氏(1398〜1439年)と対立し、鎌倉の御所を急襲して始まったもの。そもそも、この2人は仲が悪く、前年に禅秀の家人の領地を、持氏が没収したことから確執が表面化していました。また、この頃の上杉氏は山内(やまのうち)、犬懸(いぬかけ)、詫間(たくま)、扇谷(おうぎがやつ)の4家が争い、現在の関東管領である、山内上杉氏の上杉憲基(1392〜1418年)とも仲が悪かったのです。

 そこで禅秀は、持氏の叔父である足利満隆や、甲斐守護の武田信満、相模守護の三浦高明や地方の国人、豪族と手を組んで挙兵。御所を急襲された持氏は鎌倉を脱出し、駿河守護の今川範政の保護を受けます。そして、将軍の足利義持は、持氏の支援を決定し幕府軍を派遣。禅秀は味方を次々と失い、鎌倉で自害した・・・という事件です。

 なお、足利義嗣は上杉禅秀に通じていた、という理由で処刑されました。

 さて、この頃はまだ将軍と守護大名の関係は比較的安定しており、義持は「これなら問題ない」と、1423(応永30)年に、息子の足利義量(1407〜1425年)に将軍位を譲りました。ところが、政治の実権は親父と有力な守護大名らが握っており、義量はグレてしまって、酒びたりで若くしてなくなってしまいました。

○強い幕府を目指すも・・・

 義持にはほかに息子がいなかったため、自分が将軍不在のまま政治を代行してましたが、1428(正長元)年に死去。
 彼は死去する少し前に後継者を指名せず
 「重臣たちが納得する将軍でなければ意味が無かろう」
 とし、管領たちに後継者選びを任せました。そこで幕府首脳部が考えたのは、義持の弟たちの中から、くじ引きで将軍を選ぶというもの。その結果、将軍に就任したのが、足利義教(1394〜1441年)でした。


 その就任からして
「くじ引き将軍と馬鹿にされてたまるか」
 というのがあったのかもしれません。この新将軍は、将軍の権力を高めようとします。そこで対立したのが、鎌倉公方の足利持氏。

 持氏は「新将軍が、なんぼのもんじゃ〜い。オレだって将軍になる権利もある」と思い、義教に従わない。関東管領の上杉憲実(1410頃〜66年)は、なんとか幕府と鎌倉公方の仲を取り持とうとしますが、持氏の暴走はエスカレートするばかり。やむなく、関東管領を辞任しました。

 この状況を見た将軍、足利義教は1438(永享10)年、ついに軍勢を派遣して足利持氏を討ち滅ぼします。
 これを、永享の乱といいます。

 以下、余談。
 1440(永享12)年、結城氏朝が持氏の遺児2人を擁立して挙兵しましたが、これも鎮圧(結城合戦)。結局、持氏のもう1人の息子である足利成氏が鎌倉公方となりますが、「親父が殺されたのは、上杉のせいだ」と、恨んでいますので、やはり上杉氏と対立し・・・ついに1455(享徳3)年、関東管領の上杉憲忠(1433〜55年)を殺害してしまいます。なお、憲忠は憲実の長男です。

 その結果、鎌倉公方派、上杉派と守護たちが分裂して争う、享徳の乱が発生します。最初こそ、足利成氏が戦いを有利に進めますが、幕府は駿河守護の今川範忠を派遣し、鎌倉を占領。成氏は古河へ移ります(→古河公方)。そして、関東は戦乱の時代に突入するのですが、これについてはまた今度。

古河公方館跡
 またの名を鴻巣御所。現在の古河総合運動公園にあり、堀が残っています。
結城城跡
 結城合戦の舞台となった場所。現在、公園広場となっており、これといった遺構を見つけることは出来ませんが、写真東側、南側は急傾斜となっており、僅かに当時の状況を推測することが可能です。

○自治が進む村々

 さて、この室町時代は荘園の力が弱まったこともあり、特に近畿地方とその周辺で、村々が次第に独立的な傾向を示し始めていました。こうした農民たちなどが自治的に運営するようになった新たな村のことを、(そう)、もしくは惣村(そうそうん)といいます。あ、そう。・・・寒ッ! 

 惣とは「全体」という意味合いの言葉で、当初は有力農民である名主(なぬし)を中心としていましたが、次第に一般の農民が荘園の枠を超えて地域単位で結合。多くの場合、寄合(よりあい)と呼ばれる合議機関が設置され、そこで選出された、乙名(おとな)、沙汰人(さたにん)、年寄といった指導者たちが惣を運営します。また、寄合の決定で地下検断(じげけんだん)と呼ばれる警察、司法行為も行われます。中には、惣掟(そうおきて)とよばれる村の法律を作ったところもあるんですよ。

 もちろん、農作業に大切な山や野原などの共同利用地(入会地)の確保や、灌漑用水の管理、それから領主に納める年貢を惣村が一括して行う地下請(じげうけ)なども重要なことでした。個人個人で納入するより、村で一括したほうが、領主様になめられないですからね。

 というわけで、結束こそ力じゃ!
 重要なことを決定するときには、神の前でみんなで水を飲みまわす一味神水(いちみしんすい)が行われ、一同の結束感を高める、なんてこともやってます。そして、時には荘官(=荘園を治めるために派遣された、お代官様だ)を辞めさせろ〜!と荘園領主に一同で押しかけたり(強訴=ごうそ)し、NO!と言われたら全員で耕作を放棄したり、山林などに逃げ込む逃散(ちょうさん)するというストライキも行います。

 こうした結束力を背景に、ついには武力行為に出ることもあり、一揆(いっき)が発生するようになります。
 その最大のものが足利義持が亡くなったのをきっかけに、1428(正長元)年に発生した、正長の徳政一揆。輸送業者である近江(滋賀県)の馬借(ばしゃく)たちが、借金を帳消しにする徳政を幕府に求めて放棄し、これに京都周辺の惣村が呼応。人々は、京都の酒屋や土倉をを襲って、借金の借用書などを奪いました。

 さらに、足利義教が暗殺されたことをきっかけに、1441(嘉吉元)年に発生した嘉吉の徳政一揆も凄まじいもので、なんと数万の人々が京都を占領し、徳政令を要求。幕府は徳政令を出さざる得ませんでした。それどころか幕府は、逆に徳政令を武器にした商売をスタートする始末。

 すなわち、借金額の5分の1もしくは10分の1程度の手数料を納めたら「借金があることを認めます」もしくは「借金を帳消しします」なんていう、分一徳政令も多く出すようになります。やれやれ・・・。

○赤松氏、謀反!

 さて、永享の乱や結城合戦に見られるように、次第に守護への統制を強めていく足利義教。有力な守護が処刑されるようになり、人々を震えさせます。そこで、「次は自分がやられる・・・」と恐れた有力守護の1人、播磨(兵庫県)の赤松満祐(1381〜1441年)は、なんと義教を自宅に招いて殺害してします。これを嘉吉の変といい、将軍の権力は大きく揺らぐことに。まあ、将軍自身の問題もありますけど。

 ちなみに赤松氏は幕府軍によって討伐されて滅亡。第7代将軍に足利義勝(義教の子)が選ばれますが、まもなく病死します。続いて、その弟である足利義政(1435〜90年)が、若くして第8代将軍として即位します(位1449〜73年)。しかし、将軍に権力はあまり無く、足利義政自身も和歌などの風流な世界や、建築設計や庭園設計に励む日々でした。

 そんな中、1467年に発生した大事件が、応仁の乱(おうにんのらん)。
 次回、この大乱について見ていくことにしましょう。

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