第32回 応仁の乱と衰退する室町幕府

○跡継ぎ選びを間違えると・・・

 京都を舞台に1467(応仁元)年に発生した応仁の乱。これにより日本は戦国の時代へ突入していくのですが、その前哨戦が積み重なり、ついに大きな戦争になってしまいました。さて、何が原因だったのでしょうか。すなわち、将軍家や守護の家督争いです。

 代表例は次のとおり。
 どういうことなのか、足利将軍家を例に説明するのが一番わかりやすいのですけど、さっさと引退したかった8代将軍の義政は、妻の日野富子に対して「あいつと私の間には子供を出来ない」とあっさりと決め付けて、弟でお坊さんになっていた足利義視を「次の将軍はあんたにするから、準備よろしく〜」と。そこまでは、まあいいでしょう。

 ところが、そのうちに足利義政の息子(足利義尚)も誕生してしまった。
 当然のことながら、日野富子は「もちろん次の将軍は我が息子・・・」と考え、足利義視も「将軍になる準備はいつでもOKですよ!」という状態。ここで義政が「こうだ!」と決断を下せばまだいいのですが、そうではない。そうすると、お互いに有力な味方を得ようとします。

 そこで、足利義尚側を山名持豊(宗全)を中心としたグループが、さらに足利義視を管領の細川勝元を中心としたグループが支援。実は、細川勝元の嫁さんは山名宗全の娘で、元々両者は仲が良かったんですけど、互いに守護としての領国を多く持っており、どちらが幕府の主導権を握るかで対立を始めていたのです。

 これに畠山家、斯波家などの、やっぱり将軍家と似たような感じで起こった家督争いが合体。さらに、各地の守護に「味方して!」と要請し、京都に軍隊が集結してくる。こうして爆発してしまったのが、応仁の乱です。足利義政にしろ、足利義視にしろ、「戦争するんじゃない」と未然に警告は出したんだけど、意味はありませんでした。

 さて、初期の対立構造はこうなってます。

 細川勝元方(東軍)・・・足利義政、足利義視、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、赤松政則、京極氏など
 山名宗全方(西軍)・・・足利義尚、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏など

 細川勝元は、本陣を京都室町の幕府将軍の屋敷、花の御所におき、山名宗全は、花の屋敷よりも西側にある、自分の屋敷を本陣としたことから、その位置関係より「東軍」「西軍」と呼ばれるようになります。

 さて、1467年5月。ついに戦いがスタートします。
 まず、最初の段階で東軍が勝利を収め、将軍の足利義政と、足利義尚を迎えることに成功。緒戦では東軍が西軍に先制パンチをかけますが、同年8月、西軍に周防・長門などの守護である、大内政弘率いる大軍が援軍にやってきます。そして同年10月、相国寺の戦いで西軍は東軍を大いに打ち破りました。

 そして、京都を焼け野原にする戦闘が各所で行われたのち、しばらくは「にらめっこ」状態になります。そのうちに、「いつ俺は将軍になれるんだ」と不安がっている足利義視を、なんと西軍が「うちにおいで」と誘い、これに成功。あらあら、足利義尚と義視が逆転しちゃいます。

 一方、京都で戦争をやっている間に、自分の本拠地では一揆が発生するなどして、帰国するのもの多数。特に西軍に離脱者が多く、争いの当事者の一人である、管領の斯波義廉も京都から撤退して帰国。大内政弘も「帰国しなければ」と帰り支度はしたものの、山口に帰るためには、播磨の赤松氏の領内を通過しなければいけない。・・・やむをえない、東軍に降伏じゃ〜。

 なんてやっているうちに、細川勝元と山名宗全が相次いで死去。それからまもなくして、みな帰国して応仁の乱は終結しました。なお、1477(文明9)年まで争いは続いたため、応仁・文明の乱ともいいます。そして、足利将軍家の場合、結局は足利義尚が第9代将軍となりました。もっとも、将軍に力は無く、本来将軍を守るはずの畠山、斯波などの各家も没落・・・。

 結局、室町幕府の権威は地に落ちる。さらに、地方では守護の家臣である守護代や、地元の国人たちが着実に力をつけ、中には守護を追い出すような例も出てきます。こうして、戦国時代とも呼ばれる騒乱の時代へ、全国が突入します。

 ちなみに、この応仁の乱の間、足利義政はいい気分なもので、庭園作りや和歌に熱中し現実逃避。その集大成が、京都の銀閣ですね。また、妻の日野富子は、だらしない夫に代わって、関所などからの税金などをせっせと溜め込み、後世から批判のされる種となっています。

○中央にばかり気を取られていると

 既に見たとおり、応仁の乱に乗じて、地方の国人(こくじん)と呼ばれる地元の武士たちが、自分たちの権益を守るべく、国人一揆を起こすようになります。特に、1485(文明17)年に発生した山城国一揆は、内紛が続く畠山氏を追い出し、なんと8年も住民と一緒に自治を行うという、珍しいものでした。結局は鎮圧されてしまいましたけど。

 さらに、そもそも守護が追い出されて、部下が政権をのっとる下克上(げこくじょう)もしばしば発生。
 その代表例としてよく言われるのが、美濃の守護である土岐頼芸を追い出した、斉藤道三(さいとうどうさん)。その出自は不明ながら、元々は京都の油商人だったとも言われていますが、頼芸の家臣になり、気に入られて出世したところで、軍事クーデターを起こして追い出したというわけ(親子2代で成し遂げたという説が最近では有力です)。

 ちなみに後年、娘婿の織田信長を大層気に入り、何かと支援していましたが、自分の息子である斉藤義龍に謀反を起こされ、戦死しています。

 それから、小田原北条氏の祖として名をはせた伊勢長氏
 室町幕府の家臣である伊勢氏の出身といわれていますが、妹が駿河の守護、今川義忠の妻になっていた縁で、今川家のお世話になります。そして、今川義忠死後の相続争いに介入し、妹が産んだ子を跡継ぎとすることに成功。その功績で興国寺城を得ることに成功します。

 ここからが伊勢長氏の腕の見せ所です。
 まずは1491(延徳3)年、堀越公方である足利政知(義政の弟)が亡くなり、政情不安定だった伊豆へ攻撃開始。足利茶々丸(政知の子)を殺害し、堀越公方を滅ぼして、これを占領。さらに1495(明応4)年には扇谷上杉家の家臣、大森藤頼を追い出して、小田原城を占領し、これを本拠地にします。さらに、相模(現在の神奈川県)の守護である三浦義同(よしあつ)を滅ぼし、相模国を支配するようになります。

 まさに勢力拡大の見本的存在です。
 ちなみに、息子の氏綱の頃から、鎌倉ゆかりの「北条氏」を名乗るようになります。一部には「鎌倉時代のの北条氏の子孫だから」と考える向きもありますが、多くの研究者は「鎌倉時代の北条氏とは血縁関係はなく、わざと”北条”の名前を持ってきた」と考えています。

 ところで、浄土真宗本願寺派による一向一揆(いっこういっき)は、守護たちの頭痛の種でした。とくに、1488(長享2)年に発生した加賀の一向一揆などが有名ですね。なんと、守護の富樫政親(とがしまさちか)が倒され、約1世紀にわたって本願寺による支配が続いたのでした。

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