第34回 戦国時代総論

○領内の開発・保全

 戦国大名達は国力をアップさせるために、領内の開発に取り組みます。
 特に河川の改修事業として、武田晴信(信玄)による信玄堤が有名です。よく洪水が起こった河川へ、堤防の設置や水の勢いを弱めるための様々な仕組みを施したものです。

 鉱山では、世界遺産となった島根県の石見銀山(大森銀山)が有名ですね。朝鮮から渡来した銀精錬技術である灰吹法(はいふきほう)を採用することによって良質な銀を大量に生産することが可能になりました。海外への輸出が積極的に行われたことから、17世紀には世界で流通する銀の3分の1を占めます。

 当然、戦国大名たちはここをめぐり争い、始めは大内氏、次いで尼子氏、そして毛利氏が支配します。江戸時代は、幕府が直轄し、大正時代に不振で閉山となりました。なお、石見銀山のほか、佐渡金山(上杉氏が支配)、甲斐の黒川金山(武田氏が支配)、但馬の生野銀山(山名氏が支配)なども有名です。

○都市の登場

 戦国大名たちが城下町を建設し、商業や交通の中心地として整備する一方、地方の寺院でも、お寺を中心とした門前町と呼ばれる独自の町を形成します。代表例としては、伊勢神宮と宇治、山田、それから善光寺と長野、など。とくに浄土真宗では寺内町を各地に建設し、門徒の商工業者を集めて、寺を中心とした街づくりを行います。こちらの代表例は、石山本願寺と大坂(現、大阪市)、加賀(石川県)の金沢、河内(奈良県)の富田林、大和(奈良県)の今井が挙げられます。



今井の町並み(現、奈良県橿原市今井町)
 戦国時代に高い軍事力を誇った今井町は、環濠で囲まれており、あたかも城塞都市の雰囲気。織田信長に対しては、本願寺とともに抗戦の構えも見せましたが、降伏。今井町ゆかりの茶人、今井宗久らのとりなしもあって町はそのまま残されました。

今井の町並み(現、奈良県橿原市今井町)
 現在もその広大な領域に戦国時代の町割り、江戸時代からの町並みがそのまま残っています(基本的な構造は16世紀と変わっていないとか)。1993年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
 それから堺や博多など、港都市も発展。これらの都市では地元の商工業者が自治を行ったのも特徴です。

○地方への文化波及

 ところで、応仁の乱のあと、公家たちはどうしていたのでしょうか。
 もちろん、焼け野原になった京都にとどまった者も多くいましたが、地方の戦国大名を頼って移住した者も多く、京都の文化を地方に伝えました。有名なのは、大内氏が支配した山口で、現在でも京都をイメージした地名が残っています。



大内氏館跡(山口市)
 発掘整備が進む山口の大内氏館跡。上写真は復元された西門です。

洞春寺観音堂(山口市)
 1430(永享2)年築。元は大内持盛を開基とする滝の観音寺の仏殿として建てられたものです。山口は室町時代の寺院建築が数多く残っている場所で、まさに小京都にふさわしい景観を今に伝えています。

○火縄銃の登場


 戦国時代はまた、ヨーロッパともかかわりが発生した時代でもあります。
 当時のヨーロッパは、いわゆる大航海時代と呼ばれる時代で、世界的に貿易を推し進め、海外に領地を得ていくようになります。特に、イベリア半島のスペイン(イスパニア)王国ポルトガル王国は積極的で、スペインは南北アメリカ大陸、アジアではフィリピンを支配するようになり、一方でポルトガルはインド西海岸のゴアを拠点に、中国のマカオを占領して、貿易を行いました。


 そして1543(天分12)年、ポルトガル人を乗せた明(みん)の船が鹿児島の南、種子島に漂着しました。そこでポルトガル人の商人は、領主の種子島時尭(たねがしまときたか)(1528〜79年)に鉄砲の初期タイプである、火縄銃を披露。

 種子島時尭は「よっしゃ、これを買った!」と商談が成立し、2挺を購入。うち1つを鍛冶職人の八板金兵衛に分解させた上で製造技術を調べさせ、ついに製造に成功しました。筒の底を塞ぐ部品として使われていた「ネジ」について、その概念が従来の日本には無かったため、理解するのが大変だったとか。
 
 それから種子島こと、火縄銃の生産拠点は一気に増えます。
 種子島時尭は、薩摩の戦国大名である島津義久(しまづよしひさ 1533〜1611年)に火縄銃を献上。さらに将軍、足利義晴に献上され、彼の息子である足利義輝が強い関心を持ちます。そこで、近江国友の鍛冶職人に鉄砲を貸し与え、製造が始まります。

 それから種子島を訪問していた津田監物(つだけんもつ)によって、紀州の根来(ねごろ)に伝えられ製造開始。
 さらに、やはり種子島を訪問していた、商人の橘屋(たちばなや)又三郎によって、和泉の堺に伝えられ、ここも鉄砲の産地として有名になります。



 ちなみに実際のところ、これより少し前にも鉄砲は伝わっていたようです。しかし、生産まで出来るようになったのはこれが初。ちなみに、このとき伝わった鉄砲は、ヨーロッパ式の鉄砲というよりも、東南アジアでマイナーチェンジされたタイプだそうです。

 ちなみに、上写真の手前にある大筒や、左写真上の馬上筒、火だし写真下の短筒のような改良版も、後に登場していきます。特に馬上筒は、豊臣秀吉の有力な配下として活躍した加藤清正の騎馬隊が装備していたとか。長さは50cmほどです。

 さて、これ以後にポルトガル人たちは「日本での貿易も面白そうだ」と九州各地に来航するようになり、スペイン人も1584(天正12)年に肥前の平戸に来航し、貿易を開始。彼らのことを、当時の日本は「南蛮人」と呼び、貿易のことを南蛮貿易と呼びました。

○キリスト教の伝来

 一方、1549(天文18)年、キリスト教の一派であるイエズス会の宣教師、フランシスコ=ザビエル(1506頃〜1552年)が鹿児島に到着し、布教を開始。当時のヨーロッパでは、「旧来のキリスト教では駄目だ!」とプロテスタントによる宗教改革が盛んで、その旧来のキリスト教と呼ばれたカトリックは、アジア方面へ布教をし始めていました。

 イエズス会はそのカトリックの1つで、イグナチウス・ロヨラを代表に、聖地巡礼を目指すパリの熱心な学生が、聖地巡礼のために結成した組織です。このグループの場合、別にプロテスタントに対抗するわけではなかったようですが、これまでキリスト教が伝わっていない地域にも布教をしたいと考え、アジア方面へ進出しました。そこで、ザビエルはマラッカで、日本人ヤジロウに出会い、「よし、日本に行こう」と決心。

 鹿児島のほか、山口で戦国大名の大内義隆(1507〜51年)に謁見したり、京都を訪問したり、豊後の戦国大名である大友宗麟(1530〜87年)に会ったりと、西日本を歩き回って布教。2年近くの滞在の末、1551年に日本を去り、今度は中国で布教をしようとしながらも、翌年に死去しました。

 ザビエル死後も宣教師たちは日本を訪れ、南蛮寺(教会堂)や、セミナリオ(神学校)コレジオ(宣教師の養成学校)を建設。ポルトガル船はキリスト教の布教を認めたところにやってくる、と言われ、九州の戦国大名たちは宣教師を保護し、布教に協力します。特に、大友宗麟、有馬晴信(1567〜1612年)大村純忠(1533〜87年)の3大名はキリシタン大名として有名で、ヴァリニャーニ(1539〜1606年)の勧めで、1582(天正10年)に少年たちをローマ教皇グレゴリオ13世のもとに派遣しました。これを、天正遣欧使節といいます。

 しかし、ローマから少年たちが帰ってきた頃は、豊臣秀吉によるキリスト教の弾圧が始まっており、キリスト教徒(キリシタン)にとって受難の時代を迎えることになりました。

 と、長くなりましたが、ここまでが戦国時代の総論。
 次回は各地に割拠した戦国大名たちを見ていきましょう。

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