第40回 関ヶ原の戦い(1)
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「三成を内府殿と共に討伐したい」 と発言し、さらに掛川(=かけがわ、静岡県掛川市)の大名である山内一豊(やまうちかつとよ 1545〜1605年)が 「内府殿に我が掛川城を差し出し、お味方する。」 と宣言。秀吉子飼いの武将であった福島正則と、西へ向かうための重要な街道である東海道沿いの大名の一言に、諸大名は家康への協力を次々と誓いました。どこまで実際にあった話なのかは解りませんが、山内一豊は戦いそのものでは大きな活躍はしなかったにも関わらず、戦後に土佐20万石へ大抜擢されていることから、諸大名の根回し等を行う重要な役割を果たしたのは間違いないでしょう。 こうして上杉景勝に対しては伊達政宗らに対抗させ、徳川軍(東軍)は大坂方面へ向けて反転。諸大名を東海道沿いから、家康の嫡男、徳川秀忠ら徳川軍を中山道から進軍させます。8月23日には、福島正則らが岐阜城を攻略。織田秀信(信長の孫で、信忠の嫡男)を降伏させています。 一方の石田三成ら西軍も迅速な対応をとり、美濃、尾張などへ兵を進めました。8月24日には、吉川広家、鍋島勝茂ら3万人の軍勢が、富田信高が守る安濃津城(現在の三重県津市)を大軍で包囲して落城させました。ちなみに富田信高は1300名で奮戦した働きが評価され、のちに家康によって加増されています。
関ヶ原の戦い本編を見る前に、日本各地で行われた戦いを見ましょう。まずは東北編。 話を少し前に戻し、豊臣秀吉は東北を平定した後に、越後春日山の戦国大名であった上杉景勝を会津120万石という大きな領地に移して厚遇します。ところが秀吉は、過度な力は付けさせたくないと考えたのでしょう。上杉家の領地を東北の各地にバラバラに与えたため、上杉家としては出来ればつなげたいと考えていました。一方、その上杉家のバラバラの領地に、それに挟まれた大名もいた。それが、山形の最上義光(もがみよしあき 1546〜1614年)。上杉景勝と手を結んではいましたが、不安で仕方がありません。 そこで、徳川家康が会津征伐へ出陣すると景勝を裏切り、家康に味方します。そこで上杉景勝は最上氏討伐に動き出し最上氏の領土へ侵入。各地で激しい戦いが行われますが、特に大きい戦いが長谷堂城の戦いです。 これは、上杉家重臣の直江兼続(なおえかねつぐ 1560〜1620年)らは1万5000人ぐらいの大軍(正確な数は不明)で、最上氏の重要な拠点である長谷堂城(現在の山形市にある山城の1つ)の攻略を開始したもの。対する最上軍は最上家重臣、志村光安が1000人で守っています。ところが長谷堂城は難攻不落の城で、志村光安らの硬い防御の前に、なかなか落とせず、しかも上杉軍は武将の上泉泰綱が討ち取られてしまいます。そうこうしているうちに、関ヶ原で西軍が負けたとの知らせが入り、上杉軍は撤退しました。 このときの撤退戦は最上軍に加え、伊達氏の軍勢まで上杉軍を追い込みにかかりますが、一方で直江らは果敢に反撃し、鉄砲の一斉射撃で最上義光の兜に被弾させるなど、見事な撤退で後世まで語り継がれました。
「豊臣家を守るべし!」と強い遺言を残されていた、前田利家の子、前田利長でしたが、以前に「前田家が謀反の疑いあり」「そんなことはありませぬ。」「では人質を出せ〜!」と徳川家康に言いがかりを付けられ、母親の芳春院(まつ)を人質として江戸に送っていました。そのため、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方をすることに決定。約2万の軍勢を引き連れて金沢を出陣し、8月1日に西軍の大聖寺城主山口宗永と戦います(大聖寺城の戦い)。現在の石川県加賀市にあたる場所で、山口宗永は籠城しますが兵数が圧倒的に少なく8月3日に全滅しました。 さらに西軍の青木一矩(あおきかずのり 1541〜1600年)が守る北ノ庄城(現、福井市)へ向かいますが、大谷吉継は越前の大名の多くを西軍に味方につけており、さらに偽の情報、すなわち大谷軍が金沢を海から攻めるらしい、という情報などを流しまくって、利長は「やばい!」と信じてしまいます。 そのため、金沢へ向けて撤退を開始するのですが・・・。途中、西軍に味方した小松城主の丹羽長重に浅井畷という狭い場所で待ち伏せされ、激闘が繰り広げられます(浅井畷の戦い)。小回りの効かない前田軍は大敗し、何とか金沢に撤退。しばらくして前田軍は再び出陣し、丹羽長重は利長に降伏しますが、関ヶ原の戦いに間に合うことは出来ませんでした。 ただ、家康としては前田家が西軍に付かず、しかも北陸の西軍と戦ってくれて関ヶ原に来させなかったのですから大満足、といったところ。このあと江戸時代初期まで、加賀に広大な領土を持つ前田家と、これを何とか潰したい徳川家は水面下で生き残りをかけた外交バトルが延々と続くのですが、これについてはまた今度。
東山道(のちの中山道)経由で、関ヶ原に向かおうとした家康嫡男の徳川秀忠ら、徳川家の主力隊3万8000人。途中、西軍の真田昌幸(さなだまさゆき 1547〜1611年)が守る、信濃(長野県)の上田城を通ることになるため、まずは9月3日、「降伏しろ」と要求。これに対し、「元々、別に東軍、西軍どちらにつくか決めたわけではないので、明日にでも城を明け渡しましょう」と昌幸は回答したため、「OKOK!」と秀忠らは喜び、その場にとどまります。 ・・・が、4日経っても返答無く、「どういうことだ!」と使者を派遣したところ、「戦闘準備の時間をくれて有難う。では、合戦を開始しましょう」と挑発されてしまいます。これを無視するのは、徳川軍としては面白くありません。 早速、上田城の攻略を開始しますが、真田昌幸のゲリラ戦法に翻弄され、僅か2500人の軍勢に遊ばれてしまいます。そうこうしているうちに、家康から「早く来い!」と催促が入り、9月11日になってようやく上田城攻略をあきらめて、関ヶ原方面に向かいましたが、その移動中に関ヶ原での戦いの決着はついてしまいました。 全てが終わった後で到着した秀忠一行。家康から「このバカモーン!」と散々だったとか。 一時は後継者の地位も危ないぐらいでした。
9月7日には、東軍の京極高次(きょうごくたかつぐ 1563〜1609年)が3000人の兵士で守る大津城に対し、立花宗茂(たちばなむねしげ 1567〜1643年)、小早川秀包、筑紫広門ら1万5000人の軍勢が攻撃を開始。高次は西軍から東軍に裏切ったため、その報復として「倒してやる〜!」ということで西軍の攻撃を受けることになります。激しい戦いが繰り広げられますが、猛将として名高い立花宗茂の攻撃の前に、9月15日に大津城は落城しました。そして京極高次は降伏し、高野山に上って出家する羽目になりました。 ところがどっこい。この9月15日に関ヶ原で決戦が始まり、その日のうちに決着がついてしまった。 この結果、立花宗茂らはその強さを誇りながら関ヶ原に到着できず、こちらも家康としては「良くやった」というお話。欲を言えば、あと1日粘ればもう少し格好が良かったのですが、ともあれ大手柄。仮に立花宗茂らが関ヶ原に到着していれば、どうなっていたことか・・・。よって、若狭小浜8万5000石が与えられました。 ちなみに京極高次の妻、「お初」は浅井長政の次女。その姉の淀はもちろん、秀吉の側室。一方その妹の於江与は徳川秀忠の正室。東軍、西軍、どちらに味方するか・・・なかなか迷うところだったのでしょうね。また、京極家は後に讃岐丸亀藩主となり、幕末を迎えています。
秀吉の軍師として活躍した黒田如水こと、黒田孝高。その才能を恐れられ、現在の大分県の中津に少ない領地があるだけでしたが、この混乱に乗じて一気に領土を拡大しようと考えたらしい。息子の黒田長政は家康の厚い信任を得て、家康の近くで活躍していましたが、黒田如水は領地にとどまります。そこへ、かつて豊後の戦国大名で、朝鮮出兵のときに「敵前逃亡をした!」として秀吉によって取り潰されていた大友義統(おおともよしむね 1558〜1610年)が毛利輝元の支援を受け、昔の家臣たちを率いて軍勢を結集。東軍方の細川忠興の居城である杵築城を攻めはじめますが、黒田如水が救援に向かい、9月13日に行われた石垣原の戦いで大友軍を大破。 さらに、西軍の多い九州の各城を次々と攻略していき豊前、豊後を手に入れるという驚異的な戦果を挙げますが、関ヶ原で決着が1日でついてしまったことを知ります。「あと少しで九州統一も出来たのに・・・」と思ったことでしょうが、キリの良いところで引き上げ、「内府殿のために頑張った」と主張。家康も「有難う」と言っておきながらも、黒田如水の狙いを知っていましたから、これといった恩賞は与えませんでした。
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