第50回 徳川吉宗と享保の改革

○改革の概要

 さて、約30年にわたって徳川吉宗は政治を行いますが、どのようなことをやったのでしょうか。
 順番に見て行きましょう。

1.相対済し令の発令(1719年)
 金銭貸借・売掛金などに関する訴訟は、奉行所などでは扱わないよ。当事者間で解決してね、という法令。
 別に徳川吉宗がオリジナルというわけではありませんが、この頃から金に関する訴訟が頻発し、奉行所の仕事が増大していたので、とうとう金の相談、お断り・・・としたわけです。さすがに「借金帳消し」とまではしませんが、それでも現代の感覚で考えると、随分と横暴な気もします。

2.目安箱の設置(1721年)
 民衆の意見を広く求めるため、要するに投書ボックスを置きます。ちなみに、匿名での投稿はNG。ふざけた内容を書こうものなら、処罰の対象になります。イタズラ半分の投書に余計な時間は割きたくないですからね。また、自分は匿名で安全な場所から人の批判だけは一人前、というのは好ましいことではありません。

 なお、この目安箱の投書から小石川養生所が誕生。これは、小川笙船(しょうせん)という町医者の提案で、極貧な人を無料で治療する施設で、幕府の小石川薬園の中に設置されました。ちなみに小石川薬園は現在でも小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)として日本の第一線の研究機関として活躍しています。そのほか、江戸の防火対策にも投書の意見が採用されています。

3.質流れ禁止令(質流地禁止令) (1722年)
 借金のカタに田畑の質流れされるのは禁止!という法令。借金の元金を返済すれば質入した土地が戻ってくることにするなど、土地の取り戻しの要件も緩和したのですが・・・こんな経済を無視した法令では、かえって人々は混乱状態になり一揆や暴動も発生。翌年、撤回されました。

4.上げ米 (1722年)
 何はともあれ幕府の米収入が少ない! というわけで、各大名から1万石につき100石を幕府に納めさせる代わりに、参勤交代で江戸にいる期間を1年から半年に短縮することを許可しました。これは1730年まで続けられ、その翌年からは江戸にいる期間も1年に戻りました。

5.定免法 (1722年)
 徳川吉宗は、米将軍とも称されるほど、収入の要である米に関する政策を打ち出していきます。先ほどの上げ米もその一環でしたが、せっかく大名から臨時収入を得ても、自らの領地(天領)から収められる年貢が、米の不作によって減少しては効果が薄れてしまいます。
 すなわち、従来は収穫によって年貢高を設定する「検見法」が採用されていたのですが、これに代わって一定期間の実績をベースに、米の収穫状況に関係なく税率を一定にする「定免法」を採用。安定した税収入を見込める上に、毎年の収穫状況を調査する経費が削減できます。また、代官による不正の減少という効果はありました。

 農民たちも悪代官の接待から開放されたり、豊作の時には自分たちで好きに処分できる余剰品が生まれるというメリットがある一方、凶作の時には年貢を納めるのが非常に大変なことになり、さらに実は年貢率もちゃっかり高めに設定されているというオマケつき。一概にどちらのシステムが双方にとって便利かどうかは難しいところですが・・・。

6.足高の制 (1723年)
 経営者としては、優秀な人間は身分が低かろうが登用したい思います。ところが、この時代は個人ではなく家に給料が払われるようなもの。一度給料が上がれば、何か問題が無ければ子々孫々まで給料が引き継がれます。これでは、新たな人材を登用すればするほど、人件費が上がってしまいますね。

 だからと言って、責任は重くなるし交際も増えるのに給料据え置きでは、出世した方も困ります。
 そこで、本来の給料に見合った役職よりも上の役職に任命されたときには、その役職についている限りの特別ボーナスを支払うよ、という制度をスタートさせます。

 これと直接関係しているかはわかりませんが、吉宗時代の優秀な人材登用としては、元は川崎宿の問屋・名主で学者の田中丘隅(たなかきゅうぐ/1662〜1729年)が挙げられます。彼は大岡忠相を通じて幕府に献上した「民間省要」という治水、農政、宿駅など民政に関する意見書が高く評価され、荒川、多摩川、酒匂川の治水工事など様々な土木工事の責任者に登用。その実力を遺憾なく発揮しました。



東海道川崎宿  田中丘隅(休愚とも名乗る)は元々、平沢村(現、東京都あきる野市)の農民。行商も手がけており、川崎宿本陣の田中兵庫のところへ出入りしていた縁で養子になり、家督を相続。さらに川崎宿の問屋・名主になってからは、財政難に苦しむ川崎宿の財政再建に成功しています。写真左側が、かつての川崎宿本陣(田中本陣)跡です。
7.新田開発
 それから、紀州藩時代と同様に積極的に新しい田を造成していきます。もっとも、幕府直々に「田んぼを造れ〜」と命令しても、なかなか先に進みません。そこで、お金のある町人主導による民間活力を導入。一定の利益を幕府と町人で分ける形で、町人請負新田を積極的に進めていきます。

8.堂島米市場の公認 (1730年)
 せっかく収入が増えても、今度は米が飽和状態で米価が下がり、売却益が減少しては意味がありません。しかも一般の商品の値段は米の価格とは連動せず、特にこの時代は値段が高いまま(これを諸色高といいます)でしたので、豊作貧乏状態となる恐れが。せめて米収入の増加と売却益の増加が連動してくれるのがベターですね。では、どうするか。

 大坂に設置されていた堂島米市場は、その取引が全国の米価に影響を与えるものでした。そこで徳川吉宗は、これを公認してむしろ積極的に相場に介入。大名や商人たちに米の買占めさせ(買米)、流通量の削減して米価の値上げを図るなど、あれこれと介入を行いますが・・・。

 米価の操作にあれこれ手を出しているうちに、例えば1732年には享保の大飢饉と呼ばれるほど米が不作で、今度は米価が驚異的に跳ね上がり庶民の生活を圧迫。翌年の江戸では有力な米屋が庶民の襲撃を受けて打ち壊しに遭うなど、なかなか思い通りの価格になりません。

 こういう例などから、徳川吉宗は経済オンチであるとの評価も受けることもあります。とはいえ、従来の将軍には無かった行動であるのは間違いありません。

9.元文丁銀の鋳造 (1736年)
 一方、新井白石の考えを受け継いだ吉宗の貨幣政策に対し、大岡忠相や萩生徂徠、老中松平乗邑は。徳川綱吉政権下の萩原重秀時代と同じように、貨幣の質を落として通貨を沢山鋳造して通貨の流通量を増やすことが経済の安定化につながると提案。吉宗もこれを了承し、貨幣の改鋳を行いました。これは、当時の経済情勢にあった政策であったと、おおむね評価されているようです。

 しかし、それならば萩原重秀の貨幣改鋳が未だに低い評価を受け、徳川吉宗の場合は悪く言われないのは、何故・・・?

10.公事方御定書(くじかたおさだめがき/1742年)
 頻発する訴訟への対応も難しい問題でした。そこで、裁判の公平性の向上と迅速化を狙って、これまでの判例集をまとめさせます。また、幕府の法令をまとめた「御触書寛保集成」を編纂(へんさん)させました。

11.漢訳洋書輸入緩和
 徳川吉宗は実際の役に立つ学問、すなわち実学を重視しました。そこで読んで字のごとく、漢文に翻訳されたヨーロッパの書物の輸入を一部緩和しました。これまではキリスト教が流入する恐れがあるため、ヨーロッパの書物の輸入は一律全部ダメ! だったのですが、これを実用書に限りOKとしたのです。

 そして吉宗は、青木昆陽(あおきこんよう 1698〜1769年))と野呂元丈(のろげんじょう 1693〜1761年)という人物にはオランダ語の習得を命じています。青木昆陽はオランダ語学習の成果を和蘭文字略考((オランダもじりゃっこう)として著し、また野呂元丈はヨンストン著「動物図説」とドドネウス著「草木誌」の翻訳(それぞれ「阿蘭陀禽獣虫魚図和解 、阿蘭陀本草和解)に成功し、西洋の学問を日本に紹介する大きな実績を残しています。

 ちなみに、青木昆陽はオランダ語の学習に先立ち、大岡忠相を通じて甘藷(かんしょ=サツマイモのこと)の栽培を関東に普及させたことでも有名(ただし、それほど役割を果たしていないという指摘も)。飢饉が発生したときの非常食として役立つことになります。

○吉宗は名君だったのか

 徳川吉宗の改革については、享保の改革と賞賛されています。もちろん、彼の改革が無ければ江戸幕府はもっと早く財政的に行き詰まり、崩壊の危機を迎えるところだったでしょう。また、蘭学の奨励などは学問の発展に多大な良い影響を与えたと思います。経済は緊縮財政のやりすぎで活気が落ち込み、さぞかし庶民にとっては面白くない将軍であったことでしょう。

 紀州藩時代の財政問題は原因が浪費と人件費と天災とハッキリしていたため、これさえクリア出来れば改革に成功できたのは当然ともいえます(もちろん、理屈では解っていても政治的に上手く立ち回らないと、家臣からNGを突きつけられることもありますので、ここは吉宗がしっかりやったところだと思います)。

 将軍に就任してからも、同じ手口を使ったわけですが・・・幕府は巨大な組織ですから、財政難の要因は根深く、また財政支出の削減、これはまあ支出を減らすのは金が無いなら時と場合によれば仕方が無いとは言え、さらには家臣一同で「贅沢は禁止よ。余計なものは買わないよ」と倹約しちゃうと、経済に及ぼす影響は非常に大きく、経済不況を招いてしまいます。あげくに、米を山ほど作らせる政策を実行しながら、米価を高めようとするのですから、無茶な話だともいえます。

 そんな吉宗に真っ向から対抗したのが尾張藩第7代藩主の徳川宗春(1696〜1764年)。倹約は庶民を苦しめる!と反対し、さらに規制緩和と遊興施設の誘致を奨励。幕府の意向に従い倹約による経済不況下において、この尾張藩の政策は庶民に高い支持を受け、そして中心地の名古屋に人とカネが集まるようになります。

 これにより名古屋が一躍、江戸と大坂(大阪)に次ぐ日本を代表する経済の中心地となっていく基礎になります。・・・しかし、何でもやりすぎは禁物というもので、さすがに殿様以下、家臣一同で遊びすぎで、緩んだ政治になります。しかも参勤交代時には江戸でも金を使いまくるので、これは名古屋から江戸に金が流れてしまいます。

 また、お金を垂れ流す一方で、それに見合った抜本的な税制改革を行わず、また産業の育成もありませんでした。そして徳川吉宗は真っ向から対抗する、宗春の政策にプッチン!とブチ切れ。この意向を受けて、1738年に尾張藩重臣の竹腰正武らがクーデターを決行し、宗春は隠居させられます。しかも名古屋城三の丸に幽閉され、なんと亡くなった後も墓石に金網がかけられます。

 1839年に尾張藩が将軍徳川家斉の子である、徳川斉荘(なりたか)を藩主に迎えるまで、この状態は続き、よほど吉宗と幕府の怒りは激しいものであったことが推測されます。宗春の吉宗に対する対抗心は大したもので、偶然か狙ったものか、単純な経済活性化という面では絶大な効果を挙げましたが、これもこれで何かと問題あり。なかなか難しいものですね。

 いずれにせよ、徳川吉宗は将軍職を息子の徳川家重に譲ってからも大御所として政務に取り組み、最後まで「政治に飽きて云々・・・」ということはありませんでした。個人的に経済政策には疑問ではありますが、徳川15代の将軍の中でも数少ない自ら政務をとった人物で、傑出した人物であるのは間違いないでしょう。

参考文献
ビジュアル版日本の歴史を見る7 天下泰平と江戸の賑わい (小和田哲男監修/世界文化社)
徳川十五代 知れば知るほど (大石慎三郎監修/実業之日本社)
ビジュワルワイド図説日本史 (東京書籍)
日本史小事典 (山川出版社)
エンカルタ百科事典2007 (マイクロソフト)
詳説日本史(山川出版社)
マンガ日本の歴史35 米将軍吉宗と江戸の町人 (石ノ森章太郎画/中央公論社)
日本史リブレット48 近世の三大改革(藤田覚著 山川出版社)
ジャパンクリニック 日本全史(講談社)
江戸三〇〇藩バカ殿と名君 (八幡和郎著/光文社新書)

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