おや裏辺所長、今日はどちらへお出かけで・・・?
と、まず向かった先は大宮駅。偶然にも485系による快速「フェアーウェイ」がいたので、ちょいと撮影。485系1500番台先頭車を組み込んだ、人気の新潟車両センターT−18編成ですね。
そして新幹線ホームに移動し、下りホーム東京方からズームで東北新幹線を狙うと、このとおり。定番の撮影ポイントのようですが、迫力ある雰囲気で新幹線を撮影できます。で・・・。
気がつけば新潟駅。3日の入間航空祭に行った後、費用面と体力面から「行く」「行かない・・・」の自己問答を繰り返した末、結局は行ってしまうんですよねえ。まずは、意外にも初の撮影となった「SLばんえつ物語」。
ヘッドマークは10周年を記念したものになっており、可愛い・・・!!
そして引き続きキハ52形2両編成(キハ52−137+キハ52−127)による、快速「只見紅葉号」を撮影。隣のホームではE127系がずっと停車中だったので、敢えて並びで撮影してみました。こうやって見ると・・・それほどデザインは変わらない!?
もう1枚。快速「只見紅葉号」は純粋な観光客、鉄道ファン双方共に大変な人気で満員状態。キハ52形も、まだまだイベント用に十分活用できると思うのですが、新潟デスティネーションキャンペーン終了後はどうなるのでしょうか。
続いて同じホームに入線してきたのが団体列車として運転された、キハ58系急行「べにばな」。キハ28−2371+キハ58−1022の2両編成で、大変美麗な状態でした。キハ58系も先行きは不透明、おそらく引退だとは思うのですが・・・勿体無い。
こちらは485系3000番台による特急「北越」。
そして485系改造車による快速「きらきらうえつ」。全車指定席で、本日は満員とのこと。盛況なことは大変素晴らしいことです。
さて、新潟駅南口を見たことがなかったので、ちょっと行ってみました。今年になって大改修工事が終了したようで、面目を一新。写真には写っていませんが、右手には大きな駐車場を備えたビックカメラが開店するなど、大変貌を遂げたようです。
さて、ここからは新潟市の歴史探訪。駅前(万代口)より新潟市観光循環バスに乗車します。新潟市はマンガ「ドカベン」の作者である水島新司氏と、「犬夜叉」の作者である高橋留美子氏の出身地であることから、それぞれのキャラクターをラッピングしたバスで運行。万代口から見て左回り(白山公園先回り)と、右回り(朱鷺メッセ先回り)が、それぞれ1時間おきに運行されています。
このルートで行けば、新潟市中心部を代表する観光スポットは全て見られるというスグレモノ。
最初に訪問したのが新潟市歴史博物館(みなとぴあ)。そして、ここに現存しているのが、1869(明治2)年に建築された旧新潟税関庁舎(国指定重要文化財)。新潟が開港されたときから現存するもので、開港時代に建てられた税関庁舎としては唯一の現存例。なまこ壁が特徴の基本的には和風ですが、洋風に搭屋やアーチ状の通路を設けた擬洋風建築。明治維新の時代を語る上では欠かせない建築です。
*なお、建築当時の名称は新潟運上所。1873(明治6)年に運上所は税関と改称されました。
同じ敷地内に移築復元されている旧第四銀行住吉町支店。1927(昭和2)年の建築で、設計は長谷川龍雄。鉄筋コンクリート造り2階建て(一部3階建て)の銀行建築で、2002(平成14)年まで使用されました。そして可能な限り部材を再利用し、2003(平成15)年に現在地へ移築復元されています。
内部は銀行時代の雰囲気を残したまま、カフェとして再利用。見学は自由ですので、気軽に見られます。
新潟市歴史博物館本館。これは三橋四郎の設計により1911(明治44)年に建てられ、1933(昭和8)年に焼失するまで使用された新潟市役所の2代目庁舎を外観復元したもの。こういう復元方法も良いですね〜。ちなみに三橋四郎は、現在も残る京都市の中京郵便局(吉井茂則と共同設計)や下関市の南部町郵便局、旧奉天総領事館の設計も手がけています。
さて、ここでウロウロしているとレンタサイクルの文字が・・・。このままバスで回るのも時間が気になって自分のペースで行きにくいですし、しかし自転車をここまで返却しに来るのは・・・と思ったのですが、お話を伺うと利用登録をすれば、市内各地の指定の場所にて、自由に乗り降り出来るのだとか。というわけで、有り難く利用させていただくことに。3時間で100円です。
そんなわけで観光バスと全く同じルートで、新潟市を気持ちよく自転車で走っていますと、次に目に入ってきたのが石山味噌醤油。3棟の建物が1906(明治39)年頃の建築で、国の登録有形文化財に指定されています。写真は三号味噌蔵。
続いて少し道に迷っていると、派手なカラーリングの洋風建築が。現地では説明が見当たりませんでしたが、別の場所で紹介されていたものによりますと、これは金井写真館本店(現、金井文化財館)で、1897(明治30)年の建築。文部省勅人技師の中島泉次郎の設計で、裁判所の改築のため新潟に来ていたとのこと。そこから先の説明がなかったのですが、地元の人に頼まれてアルバイト(?)したのでしょうか。
ちなみに中島泉次郎は、私が昨年7月に訪問した旧米沢高等工業学校本館の設計も担当しています。
http://www.uraken.net/rail/travel-urabe176.html
こちらは北方文化博物館新潟分館。1895(明治28)年に清水常作氏(出雲崎町尼瀬の西山油田の掘削によって財を成した実業家)の別邸として建築されたもので、後に伊藤文吉氏の別邸に。ちなみに新潟市出身の歌人、美術史家、書家である曾津八一氏が1946(昭和21)年から1956(昭和31)年まで借用し、この家で亡くなっています。
というのも、坂口献吉氏(作家の坂口安吾氏の長兄で、新潟放送初代社長)が「夕刊ニイガタ」の社長を曾津八一氏に要請したところ、如何せん戦後の住宅不足の中、「住居を探して欲しい」と相談を受け、白羽の矢が立ったのがここだったとか。しかも、持ち主の伊藤文吉氏の弟さんである伊藤九郎太氏は中学、早稲田大学で曾津八一氏の2年先輩の間柄だったそうで、さらにその弟さんとは中学の同期という、深いつながり。それもあって貸してもらえたのでしょうね。
・・・とえらそうに色々書きましたが、中までは見ないで、私は隣にある旧齋藤家夏の別邸へ。
まず外観からして素晴らしいデザイン。これは貴族院議員を務めた新潟の豪商・齋藤喜十郎氏が、1918(大正7)年に避暑のために造った別邸とのこと。
庭がまた非常に素晴らしく、特に2階から眺める風景は絶景。その2階は、庭の池に映る月を楽しんだことから「観月亭」と名付られていたそうです。ちなみに旧齋藤家夏の別邸は、今年に入って保存のために新潟市が取得したばかりで、保存と活用についてはこれから検討が進められていくことでしょうが、よくぞ残してくれたと思います。
紅葉のシーズンで、私も写真を1枚パチリ。開発の危機もあったそうですが、多くの人が価値を見出し、保存に向けた運動を展開。新潟市もしっかりと観光資源として認識し、迅速に取得に乗り出した、理想的な保存の動きでした。
さらに近くにある新潟市旧市長公舎(現、安吾 風の館)。1922(大正11)年に建てられたもので、戦後は主に新潟市の迎賓館として使用。こちらも今年に入り、作家の坂口安吾氏の遺品・所蔵資料の寄贈を遺族から受けたことから、この資料を公開する施設として、活用がスタートしたところのようです。ちなみに坂口安吾氏は、この当たりの生まれだそうで、場所としても理想的ですね。
さらに、また近くにある旧日本銀行新潟支店長役宅を活用した砂丘館を見学。1933(昭和8)年の建築で、戦前の日本銀行の役宅として現存するのは、他に福島(昭和2年築)の合計2つだけだそうです。
そして自転車を走らせ、新潟大学医学部(旧新潟医学専門学校)表門及び煉瓦塀を見ます。煉瓦塀は1911(明治44)年、表門は1914(大正3)年の建築で、国の登録有形文化財に指定されています。
まだまだ行きます(笑)。新潟大学医学部付属病院の向かい側にあるのが、新津記念館という洋館。新潟県三島郡出雲崎町出身で、石油王と称される実業家の新津恒吉氏が外国人迎賓館として、1938(昭和13)年に建築したもの。内部は撮影不可だったので、お見せすることは出来ませんが、1階は「イギリスの間」、2階は「フランスの間」と「日本間」、3階は「ドイツの間」(非公開)という、個性豊かな部屋の造りとなっており、過去に見た様々な西洋建築の中でも、特に豪華でした。
和館のほうに行くと、こんな光景も。まだ御子孫の方が使用されているようで、和館は庭園からの見学のみです。ちなみに現当主の新津
義雄氏も小さな会社からスタートして、現在は丸新グループという、新潟県内有数の企業を誕生させ、親子2代で実業家として成功を収められています。そのお陰で、この記念館も実質的に自ら修復され、一般公開に踏み切られたようです。
ちなみに新津恒吉氏が起こした新津石油は、現在の昭和シェル石油の前身の1つ。また新津恒吉氏は、新潟空港の拡張や新潟市公会堂の建設へ莫大な寄付を行うなど、地元へ積極的に利益を還元されました。これからの実業家で、そういう人物がどれほど出るでしょうか。
続きまして白山公園に行き、新潟県政記念館へ。逆光で写真がとにかく撮影しにくかったのが難点・・・。1883(明治16)年に建てられ、1932(昭和7)年まで使用された県議会の議事堂であり、明治に地方でも議会が出来た頃の議事堂建築として、日本で唯一の現存例です。木造2階建、漆喰壁、屋上に尖塔を設置した左右対称の洋風建築。
古写真を元に再現された議事堂内部の様子。今のように前面に県知事や、役所のスタッフが並び、議員と対峙するスタイルとは大きく異なっているのが特徴です。
そして白山公園と・・・。
立派な楼門が特徴的な白山神社を見学。
そして白山公園内にある燕喜館の外観のみを見学。
先ほど紹介した齋藤家の本邸について、その一部を移築復元したものだそうです。
自転車でいよいよ新潟駅へと戻ります。途中、国指定重要文化財の萬代橋を撮影。1929(昭和4)年に建設された6連アーチが素晴らしい道路橋梁で、当初の計画が良かったのでしょう、構造が堅牢であり、そして車道の広さも十分あることから、今も新潟市を代表する交通の要衝です。
そして駅近くの公園で自転車を返却し、新潟駅へ戻ります。
在来線ホームへ行くと485系による快速「くびき野」が。日中にもかかわらず相変わらず盛況な利用率です。そして、先頭車は初めての撮影である特急シンボルマーク無しの車両。元々は特急「ひたち」で使われていた車両でしたね。
上越新幹線「とき」に乗り込みます。さて、このまま所長は東京へ戻るのでしょうか・・・??
そんなわけありませんね(苦笑)。越後湯沢駅で途中下車し、北越急行の車両を撮影。
681系特急「はくたか」。北陸新幹線開業後の動向が注目されますが、そんなことはさておき、この車両を見ると北陸へ行きたくなります。乗ったら必ず気持ちよくて眠ってしまう座り心地の良さ、681系は個人的にイチオシの車両です。
さて、さすがに北陸へは行かず、上越線で越後中里駅で下車。
お目当てはコチラ! 車窓から見るたびに気になっていた、旧型客車の数々を見学します。スキー場の休憩用に設置されたもので、スハフ42、スハ43、スハ47の17両が残存。最近までは、もう1両があったようですが撤去されています。
朽ち果てているかと思いきや、意外とメンテナンスされているようで、幸か不幸か近年の補修によって車番が消されてしまったものも。1両ずつ撮影しましたので、近いうちにタップリ紹介します。
これにて本日の目的は全て達成。近くの踏み切りで115系を撮影し、越後湯沢駅へ戻ります。
ホームに485系ジョイフルトレイン「せせらぎ」が停車していたので撮影。
そして今度の北越急行の車両は、なんと大河ドラマ「天地人」ラッピング車両。前面貫通扉には、直江兼続の兜より「愛」の字を掲出。北越急行には愛がありまっせ!!
で、これで帰路につくのかと思いきや、「そういや、越後湯沢駅を降りたことがなかった」と思い、駅前を散策。
これといった発見はありませんでしたが、観光地らしく土産物屋や飲食店が非常に多いのが印象的でした。
さすがに今度こそ帰路に就きます。何となくE1系を撮影。
そして大宮駅へ戻ると、ちょうど485系特急「日光」がやってきました。
で、本日は新宿駅の工事の関係で、特急「日光」は池袋までの運転。こういう事態を想定していたのでしょう、方向幕もしっかりと用意されており、珍しいものを撮影させていただきました。
そして最後に115系快速「むさしの号」で帰還。新潟に行っても、首都圏に戻っても115系(笑)。
家で寝ていたい・・・ゴロゴロしていたい・・・と思うけれども、趣味が増えれば増えるほど、出撃する日数が増えると言う・・・。というわけで、早朝の池袋駅。253系200番台成田エクスプレス(回送)と485系特急「日光」が並んだので撮影。
そして西武池袋線で稲荷山公園駅へ。そう!本日は埼玉県入間市にある航空自衛隊入間基地で開催される入間航空祭にデュークさんと共に出撃してまいりました。ここのところ鉄道に加えて、飛行機にもドンドンのめり込む所長。色々な人のおかげで、空を飛ぶ乗り物についても、その魅力を発見していっております。
詳細は後ほどまとめますが、とりあえず全体的な流れをご紹介。まずはYS−11FCとU−125による飛行展示(この写真は、色々なハプニングによりデュークさんが私のカメラで撮影したもの)。
続いてT−4による飛行展示。
そしてV−107、CH−47J、U−125A、UH−60Jによる飛行展示。*この写真にU−125Aは写ってません。
長らく活躍してきた救難ヘリコプターV−107は、本日が日本の空を飛ぶラストフライトだそうで、思わぬ貴重なシーンを見せてもらうことになりました。
滞空しながら方向転換。いろいろな角度で撮影させていただきました。
それからU−4とC−1(3機)による飛行展示。
C−1もかなりのスピードで我々の前を通過していきます。
地上展示機については、多くはT−4の飛行展示中に撮影。掲示板でアドバイスをいただいたように、時間が経てば経つほどブルーインパルス目当てに、その場を離れない人が増えてきて、どんどん撮影困難な状態に・・・。ていうか、そもそも次から次へと人がやってくる・・・。首都圏の人口の0.1%でも「飛行機が見たい」と思えば、とんでもない人出になりますね。
F−4EJ改。
こちらはパトリオットミサイルPAC−3。北朝鮮のミサイル問題で話だけは良く出ましたが、初めて見ることが出来ました。やはり実物を見ないと実感が沸きませんね。もちろん、このほか色々な展示がありましたが、これはまた原稿で。全部撮影しておきましたよ〜。
そしてブルーインパルス。さて、どのような演技を見せてくれるのでしょうか・・・。
お・・・おおっ!!
ぬおおお!
ひょえええ〜・・・(スミマセン。いや、正直言って人の写真を見ていると、「何か知らんが凄そうだね」ぐらいの感想だったのですが、これも実際に自分の目で見ると、一糸乱れぬ演技と、迫力あるスモークに拍手喝さい。
急降下に急上昇に、縦横無尽に空で演技をしてくれます。操縦技術もさることながら、この激しい動きにパイロットが耐えているのも凄い話。御見それしました。
いやはや、綺麗に散らばっていくものです。
もう興奮の連続だった入間航空祭。しかし、とにかく話には聞いていましたが人の数が凄い凄い。鉄道の車両基地公開のほうが、まだ多少マシかもしれない・・・。まあ、航空祭は終日何かしらのイベントをやっているので、人の入れ替わりが少ないのも影響しているかもしれませんね。
で、昼飯を確保するのすら困難であったため、池袋でデュークさんと昼飯兼夕食に。
「新しく出来たヤマダ電機の上で食べましょう」
と呑気なことを言った所長。・・・こちらも人の数が凄すぎて、さっさと退散。別の場所にある回転寿司(1皿136円)を食べて解散しましたとさ。初っ端、ハプニングがありましたがデュークさん、どうもお疲れ様でした。次回は12月の・・・・・・で!(笑)
所長が休日だからって、旅行に行かないからって、じっとしていると思うと大間違いだ!
というわけで、本日のスタートは御茶ノ水にあるニコライ堂から。正しくは東京復活大聖堂という正教会の教会で、ジョサイア・コンドルが実施設計を行い、関東大震災による被災後、1927年から1929年にかけて岡田信一郎が補強と修復を行ったもの。何度も見ていますが、なかなか大きい。ビザンティン様式の教会建築で、なんだか日本ではないような光景です。
そのすぐ近くにある坂が「幽霊坂」。都内にはほかにも同名の坂があるようですが、墓が多かった場所なのでしょうか。果たしてその由来とは?こういうの、調べてみると面白いんでしょうね。
そして駅舎図鑑用に久しぶりに御茶ノ水駅周辺をウロウロ。聖橋と東京メトロ丸の内線、そしてJR中央線の組み合わせ。
続いて東京メトロ丸の内線に乗り換え茗荷谷駅で下車。北に向けて歩き出すと、そこにあるのが湯立坂。「タモリのTOKYO坂道美学入門」(講談社)にて最高評点が与えられた場所だそうで・・・。
ここにあるのが、(財)大谷美術館理事長、大谷利勝さんが所有する国の重要文化財、旧磯野邸。元々は千葉の山林王と呼ばれた実業家、磯野敬氏が1912(大正元)年に建てた住宅で、耐震性、防火性を重視した構造で、銅板葺の屋根、銅板張の外壁から銅御殿との愛称で親しまれています。通常は非公開で、どうやら先週の土曜日に特別公開が行われていたそうです。シマッタ・・・。
ところで、この背後で野村不動産による高層マンション建設が行われており、湯立坂の景観はぶち壊し、地盤も大幅に改編するわ、強いビル風は発生する危険性はあるわで、銅御殿がこのまま建っていられるかが危険視され、反対運動が発生していますが、問答無用で工事は進んでいるようです。
如何せん交通の便も良い都内でも有数の物件であるだけに、どうしても開発の手が伸びてしまうのは仕方の無いこととは思いますが、イマイチ釈然としません。
そして小石川薬草園へ。江戸幕府のころから続く由緒正しい薬草園自体も素晴らしいのですが、日本史の原稿用としても是非見ておきたかったのが旧東京医学校本館。1876(明治9)年の建築で、国の重要文化財。東京医学校は1877(明治10)年4月に東京開成学校と合併したことにより、東京大学医学部となり現在に至っています。
この建物自体は1911(明治44)年に赤門脇へ移築され、規模の縮小などが行われ、さらに1969(昭和44)年に現在地に移築されますが、創建時の雰囲気は良くとどめているそうで、日本で本格的な医学教育を目指した人たちの思いと共に、現在に伝わっていることは素晴らしい限りです。
内部は科学系の展示になっており、様々な動物の剥製や骨格などが展示。綺麗に並べられていますが、解説は殆ど無いため、暗い時に来ると、ちょっと不気味・・・。
それ以外にも顕微鏡など実験器具も多数展示されていますが、こちらも解説は全くありません。ある意味で斬新な展示方法であり、面白いような・・・やっぱり解説が無いと何のことか解らんような・・・。
実は東京医学校本館の内部への入口と、小石川薬草園の入口は同じ敷地内ながら、それぞれ園内の東西に分かれており、別々に入らないと見られない仕組み。東京医学校本館は入場無料でしたが、小石川薬草園は入口向かい側の(昔ながらの?)タバコ屋で入場券を購入する仕組み。半ば予想していましたが非常に愛想の無い対応で、まあ・・・これも町歩きの楽しさと考えれば一興?
こちらの井戸は、町医師である小川笙船が目安箱に意見を投書し、これを見た8代将軍の徳川吉宗が小石川薬園(薬草園の当時の名称)の中に実現させた旧小石川養生所のもの。
小石川養生所は、貧しい人のための無料の医療施設として幕末まで存続し、この井戸は水質が良くて水が豊富なことから、大いに使われたようです。関東大震災の時にも、この場所には多くの人が避難しているため、この時にも飲料水として大いに役立ったそうです。
こちらは甘藷試作跡の記念碑。やはり徳川吉宗のころ、青木昆陽がサツマイモ(甘藷)の栽培をここで試作したことを記念して、普及に成功。1921(大正10)年に、この記念碑が建てられました。
小石川薬草園は、基本的には1本1本異なるといってよいほど、様々な樹木や草花が植えられており、よく言えばバリエーション豊かな(植物の見本市のような感じで、一見の価値あり!)、悪く言えば統一感の無い雑然とした雰囲気ですが、日本庭園は非常に手入れされた素晴らしいもの。昨日の小石川後楽園に引き続き、大変目の保養になりました。
この後、すぐ近くにある陸奥守山藩(水戸藩の徳川光圀の弟を祖する藩)の上屋敷、中屋敷の庭園であった占春園の跡地(現在は筑波大学附属小学校の自然観察園)を見学。江戸三名園の1つだったそうですが・・・今は現在の使用目的のとおり、自然豊かな情景に。
さらに日暮里駅に移動し、右手に見えますように京成電鉄の重層化工事の完了後を見学。
変貌著しい日暮里駅周辺。かつての駄菓子問屋街も、すっかり再開発されていました。
そして京成電鉄の下り新ホーム。特急「スカイライナー」と一般列車とは乗降するホームが分けられています。また、御覧のようにドーム型の屋根がかけられた特徴ある構造になっています。
京成電鉄に乗車して高砂駅で少しだけ撮影。こちらは都営地下鉄5300形。京急線でも京成線でも幅広い範囲で活躍し、神奈川県横須賀市から千葉県成田市まで、東京都のマークをPRしまくっています(笑)。
北総鉄道9000形。
京成金町線の3500形。種別表示を板で表示する未更新車です。
続いて船橋競馬場駅でAE100形などを撮影。普段、あまり京成電鉄を撮影することが無いので良い機会になりました。
さらに京成津田沼駅で京成千葉線に乗り換え。乗車したのは新京成電鉄の8800形。新京成電鉄は滅多に撮影することが無いので、これまた良い機会に・・・。そして、京成稲毛駅で下車します。
そして稲毛浅間神社の南東にある、旧神谷伝兵衛稲毛別荘を見学。
1918(大正7)年に完成したもので、1階が洋室・・・。
階段を上ると2階は和室という、上下で全く異なる様子になっているのが特徴。神谷伝兵衛は、浅草に今も残る神谷バーの前身の「みかはや銘酒店」を創業し、茨城県牛久市のシャトーカミヤに代表されるように、ワイン製造業で成功した実業家。この2階は、床柱にブドウの巨木を使い、天井を竹格子で組むことで、部屋全体をブドウ棚に見立てているのが特徴です。
さらに稲毛浅間神社の南西には、「千葉市ゆかりの家・いなげ」として、愛新覚羅溥傑・嵯峨浩夫妻が新婚時代である1937(昭和12)年に半年ほど居を構えた家が保存されていました。今回全くノーマークの史跡であり、現地に行って、まさかそんな場所があったとは!と驚き。
愛新覚羅溥傑は、中国清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の実弟。まさか、こんな普通の日本家屋に新婚時代に住んでいたとは思いませんでした。ただ、この場所の周辺自体は今のように埋め立てられ、マンションが並ぶ光景ではなく、当時は海岸沿いの風光明媚な場所で、別荘地として人気だった場所だそうで、風流な新婚生活だったことでしょう。・・・多分。
現在でも例えば昨年の6月に溥傑の次女(漢字変換が出来ない・・・)と孫の方が訪問するなど、つながりがあるようです。
そして京成稲毛駅に戻ると・・・。おおっ!京成3300形のリバイバルカラー(赤電塗装)が!! 密かな今日の目的であっただけに、これは非常に嬉しい限り。
こちらは新京成電鉄のN800形。
そして京成津田沼駅で下車し、近くの留置線にいた3300形リバイバルカラー(ファイアーオレンジ塗装)を踏切から撮影。これで残るリバイバルカラーは青電塗装のみ。しかし、撮影する機会は訪れるのでしょうか・・・??
そんなわけで、全く休めない土日を過ごした所長。11月3日も休日という有り難い日ですが、デュークさんと埼玉県入間市で開かれる入間航空祭に朝から出かけてくるため、結局は休めず・・・。正直、休日はゴロゴロするのが理想ではありますが、いざ休日を迎えると、よほど疲れていないとソワソワしだして、どこかに行ってしまいます・・・。
|
|